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「ったく。心配しただけこっちが損だったってわけか」
部活後、残ってマネージャーから受け取った部活の日誌を読んでいた円堂に不貞腐れて訴える。
すると眉を下げて笑う土門に気がついた円堂が、くっと口角を持ち上げた。
まるで全てお見通しと言わんばかりの視線に自然と眉が寄る。
滅多に見せない表情だが、たまに見ることがある表情に緩く首を振った。
「・・・どう考えても、皆騙されてるよな」
「誰に?」
「お前に。───明るくて元気が良くて素直で」
「まんま俺じゃん」
「何処が。お前、一之瀬に似てる。腹に持った一物を滅多に見せないとことか、その性質の悪い笑顔とか」
そんでもって、嫌になるくらいたまに見せる部分が魅力的なところとか。
口外しなかった言葉はしっかりと届いていたらしい。
くつりと喉を震わせて笑った人は小首を傾げると、いっそ無邪気に見える笑顔を浮かべた。
「何それ?酷い言い草だな。俺、傷ついちゃいそうだ」
「嘘つき」
「どうした土門。なんか不機嫌だな」
「だとしたら円堂の所為だよ」
不機嫌な声を出したら、また笑われた。
土門が見る限り、『円堂守』はとても複雑な回路を持っている。
一見すると素直で陽気で面白いことが好きで子供っぽい。
けれどよくよく観察すると言動は計算され、笑っているように見える姿も本当じゃないと気づく。
他の仲間は気づかないようだが、観察眼に優れていると自認する土門には判った。
円堂が仲間に寄せる信頼に嘘はない。
その態度も、優しさも、寛容さも本物だ。
ただ、本音を見せないだけ。それがどうしようもない違和感を生む。
性懲りもなくまた円堂の腰に懐き倒している幼馴染を一目し、また視線を鋭くする。
きっと土門の視線に気づいてるだろうに、一之瀬は優雅に無視をしていた。
夕暮れに暗くなりつつある室内で、牙を抜かれた獣のように、若しくは炬燵でまどろむ猫のようにゆったりとした雰囲気で甘える幼馴染は、土門が知る一之瀬と僅かに被らない。
彼は元々要領が良く甘え上手だが、誰かにここまで自分を晒すような行動はしなかった。
この姿を見せ付けられる分だけ、他の誰かよりもある意味において気は許してくれているのだろう。
それが喜ばしいかと問われれば、『是』と答えるのには間が空くだろうけれど。
複雑な想いの根底に流れるものの意味に気づきたくない。
目の前の幼馴染はいつだって自分の前を行き、追い付けっこなかったし勝てたためしもない。
だから、気がつかなければ、それで想いは収束する。
水に濡れた枯葉の下で燻る火種は、薄汚れた煙だけ立ち上らせて炎すら出さずに鎮火する。
土門はその時をただ待てばいい。
負けることには慣れている。こと、目の前の幼馴染に関しては特に。
「そういや、俺今日始めて円堂のお嬢様っぽい部分を見た気がする」
「ん?どういう意味」
「ピアノ、弾けたんだな。鬼道さんの『姉』って割りにお嬢様っぽい要素がないから驚いた」
「ははははは、さらりと失礼だな土門」
「だってさ、日頃からサッカーサッカー言ってるし。結局制服も男子のままだし、態度も豪快で男前だし。何より俺より女にもてる」
「まあな」
冗談交じりに訴えると、顔色も変えずに肯定された。
それはそれで男として複雑だ。
実際それが本当なので笑いしか漏れないが、同性相手なら何も考えないで居られる。
一之瀬の手前どうする気もないくせに、一丁前に嫉妬心を向けようとするなんて馬鹿らしい。
自嘲しつつもままならない心に反応するようのそりと一之瀬が体を起こした。
「お、一哉起きた?こいつに俺のお嬢様らしいとこ教えてやってよ」
「守のお嬢様らしいとこ?どこ?」
「・・・可愛い反応するじゃねえか。反抗期か、コラ」
腰にへばりついたままの一之瀬の首をヘッドロックして、ぐりぐりとこめかみに拳を押し付ける。
イタイイタイと叫ぶ彼に首を傾げた土門は、今日一日ついて回った疑問を口にした。
「ってか、一之瀬。お前今日ずっといらいらしてるな。どうしたんだ?」
「・・・別に」
ついっと視線を逸らした一之瀬の頬はぷっくりと膨らんでいた。
その頬を無遠慮に指先で突いて遊ぶ円堂に、土門は本気で感心した。
こう見えて彼は怒ると大変におっかないのだが、彼女は全く頓着していない。
「実はさ、こいつ昨日からずっとこんなんなんだよ。俺がさ、有人と話してたっつったら膨れちゃってさ。飽きもせず、ずーっと怒ってんの。おかげさまで朝食抜きだし昼飯なしだし、昼だってパフォーマンスに連れ出すまで朝からメール十五通も出させられた」
「・・・はぁ?何で一之瀬と円堂が喧嘩すると二人で飯抜きなわけ?」
「そりゃ俺たちが一緒に暮らしてるからだろ。あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてないな」
まさかの言葉に息を呑んで一之瀬を見れば、彼もこくりと頷いた。
日本に帰った一之瀬が何処に住んでいるかずっと疑問だったが、思わぬタイミングで疑問は氷解した。
口を開けて呆然としていると、思い切り何か突っ込まれた。
ふんがふっふと何処かのアニメ並みの声を出して租借すると、ふんわりと甘みが広まり柔らかな感触が美味だ。
「何これ」
「今日の戦利品。お前のクラスの女の子からの差し入れ」
「美味いな」
「だろ?それで、なんだっけ?俺のお嬢様らしいところ?あるぞー、とっておきの秘話が」
「秘話?」
「おう。これを聞くとお嬢様って納得だ。知りたいか?」
「・・・何?」
ぐっと顔を近づけられ、思わず息を呑んで問いかけると、にいっと円堂は意地の悪い笑みを浮かべた。
この表情は見せる相手やタイミングを選ぶものなので、実は結構気に入っていたりする。
曲がってるなと自分の嗜好に苦笑すると、声を潜めた彼女が内緒話をするように小声で囁いた。
「実はな、俺には許婚がいた」
「許婚ぇ!?」
「そう。イギリスの大財閥の一人息子。しかも出会いはパーティーで向こうの一目惚れの末、一年以上アプローチの結果俺が折れたんだぞ。ついでに奴は初恋だったらしいが、その想いは一週間で叩き折った。俺を許婚にするため態々日本語を覚えてきて鬼道の家に逗留しやがったんだけど、その時丁度俺には出来たばかりの弟ブームが来ててさ。つい、お嬢様ぶるのを忘れて素で相手したら、夢砕かれて打ちひしがれてた」
「・・・酷いな、それ。俺には円堂がお嬢様ぶってる仕草が想像できないけど、日本語まで覚えて追ってくるくらいにべた惚れだったんだろ?」
「おう。俺に一目惚れしたのが六歳で、親に頼み込んで一年間で日本語マスターするのを引き換えに鬼道の父さんに直接申し込みする権利を得て、俺がいいって言ったらって条件で日本に一月逗留して、その最初の一週間で夢砕かれた。超ウケる」
「ウケねぇよ。同情心で溢れるよ。誰だよ、その可哀想な財閥の御曹司。そんだけ酷いと顔を見たくなるだろ」
「そうだなぁ、土門なら会うかもな」
「へ?俺、お前と違ってパンピーだけど」
「あいつ、俺がサッカーしてるって聞いてサッカーやり始めたんだ。今じゃ趣味を超えるレベルだぞ。いつか、サッカーを通して顔を合わせるかもな」
まさか、と苦笑すると、わからないもんだぞとウィンクされた。
コケティッシュな笑顔を見て、益々見知らぬ男へ同情心が募る。
円堂がどれだけの勢いで化けていたか知らないが、それだけ努力した上で夢破れるとは男として憐れ過ぎる。
「ちなみに奴は六歳の俺のピアノを弾いてる姿に惚れた。真っ白なドレス着てにこやかに微笑んで、髪だって長かったからな。素で話した瞬間のあの顔ったらなかったぞ。普段は年以上に取り澄ましてたくせに、ぽかんと口を開けて間抜け面をさらしてやがった。思えば、あのときの写真を撮っておくべきだったな。約束の期間を大幅に縮めて帰ったくせに、何だかんだで意地になって一年も求婚し続けるから面倒になって受けたけど、関係が解消されるとあいつのツンデレすら懐かしくなるな」
腕を組んで頷く円堂に開いた口が塞がらない。
酷い初恋もあったものだ。
それでも求婚し続けたのだからきっと本気で彼女を好きだったんだろうけれど、どうにも流されている。
もしくは彼女の中では重要度がとても低いと言い換えた方が正しいだろうか。
どちらにせよ報われない顔も知らない相手に合掌していると、ぽんと肩を叩かれた。
「と、言うわけで、こいつの機嫌も朝よりはマシになったし、よかったら土門もうちに来るか?」
「へ?」
「今日は一哉と仲直りしようと朝からから揚げを仕込んでおいたからな。大量にあるし、お前も食ってけよ」
「・・・ホント?守、本当にから揚げ仕込んでおいてくれたのか?」
「おう。お前、好きだろ?それで仲直りしてよ。お前が笑っててくれないと、俺も調子狂う。何も言わずに居なくなって悪かったよ」
「───次は許さない。絶対に出掛ける時は連絡を入れておくこと。家に帰ってくるまで、本気で心配したんだ」
「ごめんな。音無から聞いてると思ってたんだ」
「・・・約束」
「うん、約束。嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
鬼道と和解したことに怒っているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
連絡なしで出かけていた円堂を単に心配したにしては過保護な気はしたが、口を出すと纏まりかけた話が拗れそうなので黙っておく。
小指を絡ませた二人は額をつき合わせ、ふわりと微笑み合った。
割り込めない空気を一瞬で作り出した二人に、胸がずきりと痛む。
昼間の豪炎寺も似たような感覚を得たのだろうか。
今の自分と同じように胸を押さえていたなと苦笑し、他人の感情までは構ってられないかと仮面をつけると痛みを隠した。
早く早くと密かに焦る。
この想いが消えてしまうように、火種が鎮火してしまうように。
見せ付けられる光景を目に焼きつけ、届かぬ宝を諦めようとそっと瞳を伏せて笑った。
部活後、残ってマネージャーから受け取った部活の日誌を読んでいた円堂に不貞腐れて訴える。
すると眉を下げて笑う土門に気がついた円堂が、くっと口角を持ち上げた。
まるで全てお見通しと言わんばかりの視線に自然と眉が寄る。
滅多に見せない表情だが、たまに見ることがある表情に緩く首を振った。
「・・・どう考えても、皆騙されてるよな」
「誰に?」
「お前に。───明るくて元気が良くて素直で」
「まんま俺じゃん」
「何処が。お前、一之瀬に似てる。腹に持った一物を滅多に見せないとことか、その性質の悪い笑顔とか」
そんでもって、嫌になるくらいたまに見せる部分が魅力的なところとか。
口外しなかった言葉はしっかりと届いていたらしい。
くつりと喉を震わせて笑った人は小首を傾げると、いっそ無邪気に見える笑顔を浮かべた。
「何それ?酷い言い草だな。俺、傷ついちゃいそうだ」
「嘘つき」
「どうした土門。なんか不機嫌だな」
「だとしたら円堂の所為だよ」
不機嫌な声を出したら、また笑われた。
土門が見る限り、『円堂守』はとても複雑な回路を持っている。
一見すると素直で陽気で面白いことが好きで子供っぽい。
けれどよくよく観察すると言動は計算され、笑っているように見える姿も本当じゃないと気づく。
他の仲間は気づかないようだが、観察眼に優れていると自認する土門には判った。
円堂が仲間に寄せる信頼に嘘はない。
その態度も、優しさも、寛容さも本物だ。
ただ、本音を見せないだけ。それがどうしようもない違和感を生む。
性懲りもなくまた円堂の腰に懐き倒している幼馴染を一目し、また視線を鋭くする。
きっと土門の視線に気づいてるだろうに、一之瀬は優雅に無視をしていた。
夕暮れに暗くなりつつある室内で、牙を抜かれた獣のように、若しくは炬燵でまどろむ猫のようにゆったりとした雰囲気で甘える幼馴染は、土門が知る一之瀬と僅かに被らない。
彼は元々要領が良く甘え上手だが、誰かにここまで自分を晒すような行動はしなかった。
この姿を見せ付けられる分だけ、他の誰かよりもある意味において気は許してくれているのだろう。
それが喜ばしいかと問われれば、『是』と答えるのには間が空くだろうけれど。
複雑な想いの根底に流れるものの意味に気づきたくない。
目の前の幼馴染はいつだって自分の前を行き、追い付けっこなかったし勝てたためしもない。
だから、気がつかなければ、それで想いは収束する。
水に濡れた枯葉の下で燻る火種は、薄汚れた煙だけ立ち上らせて炎すら出さずに鎮火する。
土門はその時をただ待てばいい。
負けることには慣れている。こと、目の前の幼馴染に関しては特に。
「そういや、俺今日始めて円堂のお嬢様っぽい部分を見た気がする」
「ん?どういう意味」
「ピアノ、弾けたんだな。鬼道さんの『姉』って割りにお嬢様っぽい要素がないから驚いた」
「ははははは、さらりと失礼だな土門」
「だってさ、日頃からサッカーサッカー言ってるし。結局制服も男子のままだし、態度も豪快で男前だし。何より俺より女にもてる」
「まあな」
冗談交じりに訴えると、顔色も変えずに肯定された。
それはそれで男として複雑だ。
実際それが本当なので笑いしか漏れないが、同性相手なら何も考えないで居られる。
一之瀬の手前どうする気もないくせに、一丁前に嫉妬心を向けようとするなんて馬鹿らしい。
自嘲しつつもままならない心に反応するようのそりと一之瀬が体を起こした。
「お、一哉起きた?こいつに俺のお嬢様らしいとこ教えてやってよ」
「守のお嬢様らしいとこ?どこ?」
「・・・可愛い反応するじゃねえか。反抗期か、コラ」
腰にへばりついたままの一之瀬の首をヘッドロックして、ぐりぐりとこめかみに拳を押し付ける。
イタイイタイと叫ぶ彼に首を傾げた土門は、今日一日ついて回った疑問を口にした。
「ってか、一之瀬。お前今日ずっといらいらしてるな。どうしたんだ?」
「・・・別に」
ついっと視線を逸らした一之瀬の頬はぷっくりと膨らんでいた。
その頬を無遠慮に指先で突いて遊ぶ円堂に、土門は本気で感心した。
こう見えて彼は怒ると大変におっかないのだが、彼女は全く頓着していない。
「実はさ、こいつ昨日からずっとこんなんなんだよ。俺がさ、有人と話してたっつったら膨れちゃってさ。飽きもせず、ずーっと怒ってんの。おかげさまで朝食抜きだし昼飯なしだし、昼だってパフォーマンスに連れ出すまで朝からメール十五通も出させられた」
「・・・はぁ?何で一之瀬と円堂が喧嘩すると二人で飯抜きなわけ?」
「そりゃ俺たちが一緒に暮らしてるからだろ。あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてないな」
まさかの言葉に息を呑んで一之瀬を見れば、彼もこくりと頷いた。
日本に帰った一之瀬が何処に住んでいるかずっと疑問だったが、思わぬタイミングで疑問は氷解した。
口を開けて呆然としていると、思い切り何か突っ込まれた。
ふんがふっふと何処かのアニメ並みの声を出して租借すると、ふんわりと甘みが広まり柔らかな感触が美味だ。
「何これ」
「今日の戦利品。お前のクラスの女の子からの差し入れ」
「美味いな」
「だろ?それで、なんだっけ?俺のお嬢様らしいところ?あるぞー、とっておきの秘話が」
「秘話?」
「おう。これを聞くとお嬢様って納得だ。知りたいか?」
「・・・何?」
ぐっと顔を近づけられ、思わず息を呑んで問いかけると、にいっと円堂は意地の悪い笑みを浮かべた。
この表情は見せる相手やタイミングを選ぶものなので、実は結構気に入っていたりする。
曲がってるなと自分の嗜好に苦笑すると、声を潜めた彼女が内緒話をするように小声で囁いた。
「実はな、俺には許婚がいた」
「許婚ぇ!?」
「そう。イギリスの大財閥の一人息子。しかも出会いはパーティーで向こうの一目惚れの末、一年以上アプローチの結果俺が折れたんだぞ。ついでに奴は初恋だったらしいが、その想いは一週間で叩き折った。俺を許婚にするため態々日本語を覚えてきて鬼道の家に逗留しやがったんだけど、その時丁度俺には出来たばかりの弟ブームが来ててさ。つい、お嬢様ぶるのを忘れて素で相手したら、夢砕かれて打ちひしがれてた」
「・・・酷いな、それ。俺には円堂がお嬢様ぶってる仕草が想像できないけど、日本語まで覚えて追ってくるくらいにべた惚れだったんだろ?」
「おう。俺に一目惚れしたのが六歳で、親に頼み込んで一年間で日本語マスターするのを引き換えに鬼道の父さんに直接申し込みする権利を得て、俺がいいって言ったらって条件で日本に一月逗留して、その最初の一週間で夢砕かれた。超ウケる」
「ウケねぇよ。同情心で溢れるよ。誰だよ、その可哀想な財閥の御曹司。そんだけ酷いと顔を見たくなるだろ」
「そうだなぁ、土門なら会うかもな」
「へ?俺、お前と違ってパンピーだけど」
「あいつ、俺がサッカーしてるって聞いてサッカーやり始めたんだ。今じゃ趣味を超えるレベルだぞ。いつか、サッカーを通して顔を合わせるかもな」
まさか、と苦笑すると、わからないもんだぞとウィンクされた。
コケティッシュな笑顔を見て、益々見知らぬ男へ同情心が募る。
円堂がどれだけの勢いで化けていたか知らないが、それだけ努力した上で夢破れるとは男として憐れ過ぎる。
「ちなみに奴は六歳の俺のピアノを弾いてる姿に惚れた。真っ白なドレス着てにこやかに微笑んで、髪だって長かったからな。素で話した瞬間のあの顔ったらなかったぞ。普段は年以上に取り澄ましてたくせに、ぽかんと口を開けて間抜け面をさらしてやがった。思えば、あのときの写真を撮っておくべきだったな。約束の期間を大幅に縮めて帰ったくせに、何だかんだで意地になって一年も求婚し続けるから面倒になって受けたけど、関係が解消されるとあいつのツンデレすら懐かしくなるな」
腕を組んで頷く円堂に開いた口が塞がらない。
酷い初恋もあったものだ。
それでも求婚し続けたのだからきっと本気で彼女を好きだったんだろうけれど、どうにも流されている。
もしくは彼女の中では重要度がとても低いと言い換えた方が正しいだろうか。
どちらにせよ報われない顔も知らない相手に合掌していると、ぽんと肩を叩かれた。
「と、言うわけで、こいつの機嫌も朝よりはマシになったし、よかったら土門もうちに来るか?」
「へ?」
「今日は一哉と仲直りしようと朝からから揚げを仕込んでおいたからな。大量にあるし、お前も食ってけよ」
「・・・ホント?守、本当にから揚げ仕込んでおいてくれたのか?」
「おう。お前、好きだろ?それで仲直りしてよ。お前が笑っててくれないと、俺も調子狂う。何も言わずに居なくなって悪かったよ」
「───次は許さない。絶対に出掛ける時は連絡を入れておくこと。家に帰ってくるまで、本気で心配したんだ」
「ごめんな。音無から聞いてると思ってたんだ」
「・・・約束」
「うん、約束。嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
鬼道と和解したことに怒っているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
連絡なしで出かけていた円堂を単に心配したにしては過保護な気はしたが、口を出すと纏まりかけた話が拗れそうなので黙っておく。
小指を絡ませた二人は額をつき合わせ、ふわりと微笑み合った。
割り込めない空気を一瞬で作り出した二人に、胸がずきりと痛む。
昼間の豪炎寺も似たような感覚を得たのだろうか。
今の自分と同じように胸を押さえていたなと苦笑し、他人の感情までは構ってられないかと仮面をつけると痛みを隠した。
早く早くと密かに焦る。
この想いが消えてしまうように、火種が鎮火してしまうように。
見せ付けられる光景を目に焼きつけ、届かぬ宝を諦めようとそっと瞳を伏せて笑った。
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その日、朝から円堂の様子がおかしかった。
いつもなら朝練に顔を出すなり元気良く挨拶をするのだが、今日の彼女は片手を上げて『おはよう』と静かなものだった。
部員たちが戸惑う空気にも気づいてるだろうに、部活中きっちりとメニューをこなしながらも、いつものような陽気さもない。
横を見れば、彼女と同じでムードメイカーの一之瀬もどんよりとした空気を背負っていた。
「・・・なぁ、豪炎寺」
「ああ」
「円堂から、なんか聞いてる?」
「いいや。問い詰めても大したことじゃないとかわされた。お前こそ、一之瀬から何か聞いてないか?」
「俺も同じ。土門は気にしなくていいから、の一言で終ったんだけどさ、あれってどういう感じなのかね?やっぱ、鬼道さんがらみか?」
「さぁな」
眉間に皺を寄せる土門に、豪炎寺は緩く首を振った。
何か心配事があるなら言ってくれればいいのに、と思いながら、何処まで踏み込んでいいか判らない。
いつだって笑っている彼女の表情が曇るだけで心のバランスが傾く。
笑っていて欲しい、と思うのはきっと友達なら当然で、肝心なことを口にしてくれない円堂にもどかしさを感じた。
隣に居る土門も同じようで、渋い顔をして二人を眺めている。
円堂と一之瀬の間には他人が割り込めない空気があるが、もっと心を開いてくれればいいのに、と嘆息した。
結局授業が始まっても円堂の様子は変わらず、悶々としている内に午前中の授業は終わる。
そして始まる昼食の時間。チャイムと同時に駆け出した円堂に瞳を丸くした。
普段なら何となく一緒にご飯を食べているのだが、今日に限って脇目もふらずに教室から一直線に出て行く。
何処に向かうのか知れないが、しばし呆然として席に座っていると、ひょこりと土門が入り口から顔を出した。
「おい、豪炎寺。こっちに一之瀬来なかったか?」
「いや・・・どうしてだ?」
「授業終了と同時に走って行っちまったからさ。円堂のとこに来てるのかと思って。でも、円堂も居ないみたいだな」
「ああ」
はんなりと眉を寄せて頷けば、首を傾げた土門も目を眇める。
結局円堂が口を割らなかったように、一之瀬も彼に口を割らなかったのだろう。
水臭いと思うが、それよりもどうしてという想いの方が強い。
信頼されていると思っていたのは勘違いだったのだろうか。
不意に疼痛を感じた胸を服の上から押さえ込むと、豪炎寺の様子を見た土門が苦笑した。
「ま、あんまり気にするなよ。もしかすると、本当に大したことないのかもしれないし」
「・・・ああ」
「風丸が居れば違うのかもしれないんだけどな。今日は法事で休みだっけか」
「ああ」
幼馴染と言うだけあって円堂の機微に聡い風丸なら何かわかったかもしれない。
そう考えると益々胸が痛み、違和感を不思議に思った瞬間、それは始まった。
『はーい、皆さん。お昼の時間、楽しんでる?』
室内に響いた声にびくりと体を揺らし顔を上げる。
音源はスピーカーで、普段なら昼食時は放送委員による穏やかなBGMなどが流れるそこからは良く知った声が流れていた。
『今日、昼食前の少しの時間、放送室をハイジャックさせていただきましたのは俺、円堂守と』
『一之瀬一哉でーす!』
朝から今までの時間、どちらかと言えば暗い雰囲気を醸し出していた二人の明るい声に、土門と顔を見合わせて瞬きを繰り返す。
サッカー部の連絡事項かと思ったが、それも違うようだ。
『実は今日俺たち昼飯がないんだよね。そこでカンパを募りたいと思います』
『今から五分後に体育館で俺たち二人でパフォーマンスを行います!そんで、それをもし気に入ったら、何か昼食のおかず差し入れください』
『放課後には部活もあるし、マジで死活問題なんだ。パンやおにぎり、お菓子もOK!』
『暇な人とお弁当に余裕がある人は宜しくねー』
一方的に告げると、ぶちりと放送は切れた。
教室内はしーんと静まり返り、誰一人として状況を理解していない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「何やってるんだ、あいつらは」
「まさか、朝から暗かったのって昼飯がなかったのが原因?」
ぽかん、と口を開けた土門の気持ちがよく判る。
まさか昼食がなくて朝から元気がなかったというのか。
何処かのクラスから『円堂ー!!一之瀬ー!!』と染岡の怒声がドップラー効果を得て遠ざかる。
それに釣られたような足音が響くと、あっという間に自教室からもクラスメイトが駆け足に出て行った。
「あー・・・俺たちも行く?」
「ああ」
困ったように眉を下げて問う土門に頷くと、きっちりと弁当箱を握って体育館へと向かった。
驚くことに、と言うべきか、それとも想像通りと言うべきか。
急な呼びかけにもかかわらず体育館には結構な人数が集まっていた。
ぐるりと見渡せば特徴的な色の頭をした染岡が、最前列で壁山や半田に押さえ込まれているのが見えそちらに足を向ける。
どうやらサッカー部の面々も全員集まっているらしく、豪炎寺と土門が最後のようだった。
「よ、お前らもやっぱ来たんだ」
「そりゃそうでしょ。あんな放送入っちゃ気になるし」
「一之瀬君も円堂君も言ってくれればご飯くらい分けてあげたのに」
「本当よ!全く、サッカー部の恥さらしだわ」
「って言いながら、何気なく雷門は一番最初に来てたよな」
「うんうん」
「うるさいわね!私は理事長代理として何が始まるか見届ける義務があるんです!」
松野と半田にからかわれて顔を真っ赤にして訴える夏未を秋が苦笑して宥める。
軽く会話をする内に五分はあっという間に経過したらしく、舞台袖から問題の二人が出てきた。
結構な人数が揃っているのに全く物怖じせずに、むしろマイクを持ってノリノリで舞台の上で手を振っている。
いっそ天晴れな強心臓だと感心していると、不意に一之瀬が口を開いた。
『皆、俺たちへの差し入れ持ってきてくれたー?』
「きゃー!!持って来ましたぁ!」
「面白い見せもんだったら、弁当全部やってもいいぜー!」
『あはは!よーし、今言ったの聞いたからな!後悔しても知らないぞ!』
ぱちり、とウィンクした一之瀬に、女子が奇声を上げる。
まるでアイドルのトークショーのようだ。
隣に立っていた円堂が一之瀬からマイクを取り上げると、視線をこちらに向けて悪戯っぽく笑う。
『んじゃ、そこのカワイコちゃん二人は舞台右端まで行ってもらえる?あそこに家庭科室から借りてきたお皿が置いてあるから、カンパの整理を宜しく』
「ええ!?いつの間にあんなの準備してたの!?」
「カワイコちゃんて、私も入るの?まさか、この私に手伝えと?」
『早く早く。準備が出来ないと余興も出来ないよー』
「・・・とりあえず、行ってきたら秋。周りの視線が痛い」
「雷門も早く」
戸惑いながら向かう秋に、憤然とした夏未。
二人が用意されたテーブルの前に着くと、円堂と一之瀬が顔を見合わせた。
盛り上がるテンションに、彼らの人気の高さを知る。
人懐っこい性格の二人だから誰とでも仲良くなれるのは知っていたが、驚きは隠せない。
呆然としている豪炎寺や染岡に、土門が苦笑した。
「あいつら、あれで結構人気があるんだよ。一之瀬も円堂も人好きがする性格だし、学年問わず顔見知りが多いし。気がつけば知らない奴と一緒に遊んでる、ってのも珍しくないんだぜ?」
「にしてもアイドルか何かみたいになってるぞ。何であいつらだけ」
「二人ともフェミニストで女の子に優しいし、男相手にも捌けた性格で人気あるんだ。購買とか行くと何気に上級生に奢ってもらったりしてる」
「・・・要領がいいやつらだな」
「本当に。羨ましくなるぜ。ファニーフェイスで可愛い雰囲気持ってるしな、本性がどうであれ」
染岡と土門の会話に耳を傾けている内に、舞台でも動きが始まる。
トークショー交じりにカンパの仕方などを説明していた彼らは、それが一通り終ったらしい。
気がつけば一之瀬はサッカーボールを持ちにこにこと笑顔を向けている。
二人で技でも披露するのかと思えば、円堂は一之瀬から離れて舞台袖まで歩き出した。
何をするのかと注視していると、彼女は体育館に置いてあるピアノの前まで行き蓋を開けるとカバーを取った。
制服の腕をまくり椅子に腰掛け、指慣らしとばかりに鍵盤に触れると舞台中央に居る一之瀬に頷く。
頷き返した一之瀬は、制服の上着を脱ぐと舞台下の土門へ投げて寄越した。
慌ててキャッチした土門に笑いかけると、マイクへ向かって一声。
『それじゃ、俺たちのパフォーマンス楽しんでいってね!』
にこにこと微笑むと、マイクのスイッチを切って脇へ避けた。
離れた場所に置かれたマイクを確認し、円堂が笑う。
「と、言うわけで行くぞ一哉」
「OK!」
「三、二、一」
軽い掛け声の後、流れるように円堂の指が動いた。
比喩表現でもなんでもなく、本当に。
ピアノの上を指が動き、どこかで聞いたことがある曲が流れる。
聞いたことはあるのだが曲名が出てこない、そんな有名曲。
「うわ、すげぇ・・・」
「超絶技巧曲の『剣の舞』だよね?円堂君、ピアノ弾けたんだ」
「マジパねぇな!一之瀬もこの曲に合わせてリフティングとか、どんだけだ」
複雑に音階が刻まれて、アップテンポなそれにあわせて一之瀬が動く。
踵、膝、腿、頭、背中、踝。
体全体を使って踊るようにボールを操る一之瀬は、フィールドの魔術師との呼び名が相応しい天才だった。
超絶技巧曲と呼ばれるだけあり、円堂の紡ぐ曲も凄い。
右と左の指がどう動いているのか不思議になるほど複雑な音がどんどんと溢れ体育館を埋め尽くす。
音楽教師ですら弾けるのかと首を傾げたくなる技術。
「何で円堂君サッカー部なの」
ぽつりと呟いたのは同じクラスの吹奏楽部の少女だ。
確かに、と頷きたくなるほど円堂のピアノは上手い。
一之瀬のサッカーテクニックも秀逸だが、同じくらい円堂のピアノテクニックにも見惚れるものがある。
これだけの曲を楽譜も見ずに弾くなど考えられない。
剣の代わりにサッカーボールを操り舞う一之瀬に、隣の土門がうなり声を上げた。
豪炎寺にもその気持ちはよく判る。
同じプレイヤーとして、彼の技術は嫉妬したくなる領域にあった。
天井に当たらぬ程度に上げられたボールが落ちてくる前にバク転を決め、最後の一音でポーズを取る。
暫くは体育館内は水を打ったように静まり、不意に大歓声が沸いた。
「円堂君、凄いー!!」
「一之瀬君格好いいー!!」
「マジ、すげえよお前ら!」
割れるような歓声に耳を押さえれば、サッカー部の面々は皆同じような反応をしていた。
しかしそんな周囲の様子にも全く余裕を崩さない彼らは、またマイク片手に壇上へ上がる。
『はーい、俺たちのパフォーマンス終了!』
『気に入ってくれた人は出口付近で受付してるカンパ所にお弁当カンパ宜しく!』
『俺たちの大切な昼飯待ってまーす!』
へらへらしながら手を振ると、二人とも夏未と秋がいる場所まで降りていく。
我先にと集まり並べられた皿にどんどんと積まれる差し入れに、豪炎寺は目を丸くした。
そして我先にと駆け寄った人数を要領よく捌く二人の手腕にも、呆れるより先に感心する。
あれだけ興奮していれば長々と捕まりそうなものだが、ものの五分で全員を体育館から追い出した彼らはちゃっかりそのまま入り口の鍵まで閉めた。
昼食後体育館へ足を伸ばす生徒もいるはずなのだが、全く遠慮ない行動だ。
「いやぁ、大量大量。これで俺たちは飢えを凌げるぞ、一哉」
「うんうん、良かった良かった。やっぱ、持つべきは一芸だな」
「・・・いや、確かに一芸だけどよ」
「呆れるくらいの強心臓だね。このてんこ盛りの料理、どうすんだよ」
「何気に手作りのマフィンとかクッキーとか混ざってるぞ」
「あ、こっちは購買限定パンっす!羨ましいっす!」
「俺たちも頑張れば集めれるかな」
「いや、無理でやんしょ。舞台に立ってあそこまで動けないでやんす」
肩を組んで笑いあう二人に、呆れるやら、感心するやらで複雑な視線が向けられる。
だが彼らは一切を気にせず、協力してくれたマネージャーに礼を言いながら自分が食べたいと思うものを物色して皿に取り分けていた。
厚かましいと言える図々しさなのに、憎めないのは彼らの雰囲気によるものだろう。
「・・・凄すぎるぜ、あいつら」
「全くだ」
多大に呆れを含んだ土門の声に頷くと、不意に円堂がこちらを振り向いた。
視線が絡み心臓が撥ねる。
そんな豪炎寺の様子に気づかないのか、箸を持って無邪気な笑みを浮かべた彼女は口を開いた。
「皆も食べようぜ!こんなにあると俺と一哉じゃ消費できねえし」
「早い者勝ちだよ」
笑顔で誘う二人に最初に乗ったのは一年生で、次いで二年の中堅組みも箸を伸ばす。
勢いに押されて豪炎寺も購買限定のパンを手に取ると、そのまま輪に加わった。
結局山と詰まれた食料は何とか昼の内に消化でき、余ったお菓子類は放課後へと回された。
その後二人が昼飯を忘れても差し入れをくれる人間が後を絶えず、一回きりのパフォーマンスで得た効果に彼らは一言こう語る。
『芸は身を助けるもんだ』
効果は立証できたが彼らの後に続こうとする猛者は当然おらず、固定ファンを得た彼らは今日もホクホクと差し入れを部員へ振舞っている。
ちなみに一週間ほどでマネージャーによりカロリーの過剰摂取と判断され、差し入れは一週間も続かずに終わったのは蛇足だろう。
いつもなら朝練に顔を出すなり元気良く挨拶をするのだが、今日の彼女は片手を上げて『おはよう』と静かなものだった。
部員たちが戸惑う空気にも気づいてるだろうに、部活中きっちりとメニューをこなしながらも、いつものような陽気さもない。
横を見れば、彼女と同じでムードメイカーの一之瀬もどんよりとした空気を背負っていた。
「・・・なぁ、豪炎寺」
「ああ」
「円堂から、なんか聞いてる?」
「いいや。問い詰めても大したことじゃないとかわされた。お前こそ、一之瀬から何か聞いてないか?」
「俺も同じ。土門は気にしなくていいから、の一言で終ったんだけどさ、あれってどういう感じなのかね?やっぱ、鬼道さんがらみか?」
「さぁな」
眉間に皺を寄せる土門に、豪炎寺は緩く首を振った。
何か心配事があるなら言ってくれればいいのに、と思いながら、何処まで踏み込んでいいか判らない。
いつだって笑っている彼女の表情が曇るだけで心のバランスが傾く。
笑っていて欲しい、と思うのはきっと友達なら当然で、肝心なことを口にしてくれない円堂にもどかしさを感じた。
隣に居る土門も同じようで、渋い顔をして二人を眺めている。
円堂と一之瀬の間には他人が割り込めない空気があるが、もっと心を開いてくれればいいのに、と嘆息した。
結局授業が始まっても円堂の様子は変わらず、悶々としている内に午前中の授業は終わる。
そして始まる昼食の時間。チャイムと同時に駆け出した円堂に瞳を丸くした。
普段なら何となく一緒にご飯を食べているのだが、今日に限って脇目もふらずに教室から一直線に出て行く。
何処に向かうのか知れないが、しばし呆然として席に座っていると、ひょこりと土門が入り口から顔を出した。
「おい、豪炎寺。こっちに一之瀬来なかったか?」
「いや・・・どうしてだ?」
「授業終了と同時に走って行っちまったからさ。円堂のとこに来てるのかと思って。でも、円堂も居ないみたいだな」
「ああ」
はんなりと眉を寄せて頷けば、首を傾げた土門も目を眇める。
結局円堂が口を割らなかったように、一之瀬も彼に口を割らなかったのだろう。
水臭いと思うが、それよりもどうしてという想いの方が強い。
信頼されていると思っていたのは勘違いだったのだろうか。
不意に疼痛を感じた胸を服の上から押さえ込むと、豪炎寺の様子を見た土門が苦笑した。
「ま、あんまり気にするなよ。もしかすると、本当に大したことないのかもしれないし」
「・・・ああ」
「風丸が居れば違うのかもしれないんだけどな。今日は法事で休みだっけか」
「ああ」
幼馴染と言うだけあって円堂の機微に聡い風丸なら何かわかったかもしれない。
そう考えると益々胸が痛み、違和感を不思議に思った瞬間、それは始まった。
『はーい、皆さん。お昼の時間、楽しんでる?』
室内に響いた声にびくりと体を揺らし顔を上げる。
音源はスピーカーで、普段なら昼食時は放送委員による穏やかなBGMなどが流れるそこからは良く知った声が流れていた。
『今日、昼食前の少しの時間、放送室をハイジャックさせていただきましたのは俺、円堂守と』
『一之瀬一哉でーす!』
朝から今までの時間、どちらかと言えば暗い雰囲気を醸し出していた二人の明るい声に、土門と顔を見合わせて瞬きを繰り返す。
サッカー部の連絡事項かと思ったが、それも違うようだ。
『実は今日俺たち昼飯がないんだよね。そこでカンパを募りたいと思います』
『今から五分後に体育館で俺たち二人でパフォーマンスを行います!そんで、それをもし気に入ったら、何か昼食のおかず差し入れください』
『放課後には部活もあるし、マジで死活問題なんだ。パンやおにぎり、お菓子もOK!』
『暇な人とお弁当に余裕がある人は宜しくねー』
一方的に告げると、ぶちりと放送は切れた。
教室内はしーんと静まり返り、誰一人として状況を理解していない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「何やってるんだ、あいつらは」
「まさか、朝から暗かったのって昼飯がなかったのが原因?」
ぽかん、と口を開けた土門の気持ちがよく判る。
まさか昼食がなくて朝から元気がなかったというのか。
何処かのクラスから『円堂ー!!一之瀬ー!!』と染岡の怒声がドップラー効果を得て遠ざかる。
それに釣られたような足音が響くと、あっという間に自教室からもクラスメイトが駆け足に出て行った。
「あー・・・俺たちも行く?」
「ああ」
困ったように眉を下げて問う土門に頷くと、きっちりと弁当箱を握って体育館へと向かった。
驚くことに、と言うべきか、それとも想像通りと言うべきか。
急な呼びかけにもかかわらず体育館には結構な人数が集まっていた。
ぐるりと見渡せば特徴的な色の頭をした染岡が、最前列で壁山や半田に押さえ込まれているのが見えそちらに足を向ける。
どうやらサッカー部の面々も全員集まっているらしく、豪炎寺と土門が最後のようだった。
「よ、お前らもやっぱ来たんだ」
「そりゃそうでしょ。あんな放送入っちゃ気になるし」
「一之瀬君も円堂君も言ってくれればご飯くらい分けてあげたのに」
「本当よ!全く、サッカー部の恥さらしだわ」
「って言いながら、何気なく雷門は一番最初に来てたよな」
「うんうん」
「うるさいわね!私は理事長代理として何が始まるか見届ける義務があるんです!」
松野と半田にからかわれて顔を真っ赤にして訴える夏未を秋が苦笑して宥める。
軽く会話をする内に五分はあっという間に経過したらしく、舞台袖から問題の二人が出てきた。
結構な人数が揃っているのに全く物怖じせずに、むしろマイクを持ってノリノリで舞台の上で手を振っている。
いっそ天晴れな強心臓だと感心していると、不意に一之瀬が口を開いた。
『皆、俺たちへの差し入れ持ってきてくれたー?』
「きゃー!!持って来ましたぁ!」
「面白い見せもんだったら、弁当全部やってもいいぜー!」
『あはは!よーし、今言ったの聞いたからな!後悔しても知らないぞ!』
ぱちり、とウィンクした一之瀬に、女子が奇声を上げる。
まるでアイドルのトークショーのようだ。
隣に立っていた円堂が一之瀬からマイクを取り上げると、視線をこちらに向けて悪戯っぽく笑う。
『んじゃ、そこのカワイコちゃん二人は舞台右端まで行ってもらえる?あそこに家庭科室から借りてきたお皿が置いてあるから、カンパの整理を宜しく』
「ええ!?いつの間にあんなの準備してたの!?」
「カワイコちゃんて、私も入るの?まさか、この私に手伝えと?」
『早く早く。準備が出来ないと余興も出来ないよー』
「・・・とりあえず、行ってきたら秋。周りの視線が痛い」
「雷門も早く」
戸惑いながら向かう秋に、憤然とした夏未。
二人が用意されたテーブルの前に着くと、円堂と一之瀬が顔を見合わせた。
盛り上がるテンションに、彼らの人気の高さを知る。
人懐っこい性格の二人だから誰とでも仲良くなれるのは知っていたが、驚きは隠せない。
呆然としている豪炎寺や染岡に、土門が苦笑した。
「あいつら、あれで結構人気があるんだよ。一之瀬も円堂も人好きがする性格だし、学年問わず顔見知りが多いし。気がつけば知らない奴と一緒に遊んでる、ってのも珍しくないんだぜ?」
「にしてもアイドルか何かみたいになってるぞ。何であいつらだけ」
「二人ともフェミニストで女の子に優しいし、男相手にも捌けた性格で人気あるんだ。購買とか行くと何気に上級生に奢ってもらったりしてる」
「・・・要領がいいやつらだな」
「本当に。羨ましくなるぜ。ファニーフェイスで可愛い雰囲気持ってるしな、本性がどうであれ」
染岡と土門の会話に耳を傾けている内に、舞台でも動きが始まる。
トークショー交じりにカンパの仕方などを説明していた彼らは、それが一通り終ったらしい。
気がつけば一之瀬はサッカーボールを持ちにこにこと笑顔を向けている。
二人で技でも披露するのかと思えば、円堂は一之瀬から離れて舞台袖まで歩き出した。
何をするのかと注視していると、彼女は体育館に置いてあるピアノの前まで行き蓋を開けるとカバーを取った。
制服の腕をまくり椅子に腰掛け、指慣らしとばかりに鍵盤に触れると舞台中央に居る一之瀬に頷く。
頷き返した一之瀬は、制服の上着を脱ぐと舞台下の土門へ投げて寄越した。
慌ててキャッチした土門に笑いかけると、マイクへ向かって一声。
『それじゃ、俺たちのパフォーマンス楽しんでいってね!』
にこにこと微笑むと、マイクのスイッチを切って脇へ避けた。
離れた場所に置かれたマイクを確認し、円堂が笑う。
「と、言うわけで行くぞ一哉」
「OK!」
「三、二、一」
軽い掛け声の後、流れるように円堂の指が動いた。
比喩表現でもなんでもなく、本当に。
ピアノの上を指が動き、どこかで聞いたことがある曲が流れる。
聞いたことはあるのだが曲名が出てこない、そんな有名曲。
「うわ、すげぇ・・・」
「超絶技巧曲の『剣の舞』だよね?円堂君、ピアノ弾けたんだ」
「マジパねぇな!一之瀬もこの曲に合わせてリフティングとか、どんだけだ」
複雑に音階が刻まれて、アップテンポなそれにあわせて一之瀬が動く。
踵、膝、腿、頭、背中、踝。
体全体を使って踊るようにボールを操る一之瀬は、フィールドの魔術師との呼び名が相応しい天才だった。
超絶技巧曲と呼ばれるだけあり、円堂の紡ぐ曲も凄い。
右と左の指がどう動いているのか不思議になるほど複雑な音がどんどんと溢れ体育館を埋め尽くす。
音楽教師ですら弾けるのかと首を傾げたくなる技術。
「何で円堂君サッカー部なの」
ぽつりと呟いたのは同じクラスの吹奏楽部の少女だ。
確かに、と頷きたくなるほど円堂のピアノは上手い。
一之瀬のサッカーテクニックも秀逸だが、同じくらい円堂のピアノテクニックにも見惚れるものがある。
これだけの曲を楽譜も見ずに弾くなど考えられない。
剣の代わりにサッカーボールを操り舞う一之瀬に、隣の土門がうなり声を上げた。
豪炎寺にもその気持ちはよく判る。
同じプレイヤーとして、彼の技術は嫉妬したくなる領域にあった。
天井に当たらぬ程度に上げられたボールが落ちてくる前にバク転を決め、最後の一音でポーズを取る。
暫くは体育館内は水を打ったように静まり、不意に大歓声が沸いた。
「円堂君、凄いー!!」
「一之瀬君格好いいー!!」
「マジ、すげえよお前ら!」
割れるような歓声に耳を押さえれば、サッカー部の面々は皆同じような反応をしていた。
しかしそんな周囲の様子にも全く余裕を崩さない彼らは、またマイク片手に壇上へ上がる。
『はーい、俺たちのパフォーマンス終了!』
『気に入ってくれた人は出口付近で受付してるカンパ所にお弁当カンパ宜しく!』
『俺たちの大切な昼飯待ってまーす!』
へらへらしながら手を振ると、二人とも夏未と秋がいる場所まで降りていく。
我先にと集まり並べられた皿にどんどんと積まれる差し入れに、豪炎寺は目を丸くした。
そして我先にと駆け寄った人数を要領よく捌く二人の手腕にも、呆れるより先に感心する。
あれだけ興奮していれば長々と捕まりそうなものだが、ものの五分で全員を体育館から追い出した彼らはちゃっかりそのまま入り口の鍵まで閉めた。
昼食後体育館へ足を伸ばす生徒もいるはずなのだが、全く遠慮ない行動だ。
「いやぁ、大量大量。これで俺たちは飢えを凌げるぞ、一哉」
「うんうん、良かった良かった。やっぱ、持つべきは一芸だな」
「・・・いや、確かに一芸だけどよ」
「呆れるくらいの強心臓だね。このてんこ盛りの料理、どうすんだよ」
「何気に手作りのマフィンとかクッキーとか混ざってるぞ」
「あ、こっちは購買限定パンっす!羨ましいっす!」
「俺たちも頑張れば集めれるかな」
「いや、無理でやんしょ。舞台に立ってあそこまで動けないでやんす」
肩を組んで笑いあう二人に、呆れるやら、感心するやらで複雑な視線が向けられる。
だが彼らは一切を気にせず、協力してくれたマネージャーに礼を言いながら自分が食べたいと思うものを物色して皿に取り分けていた。
厚かましいと言える図々しさなのに、憎めないのは彼らの雰囲気によるものだろう。
「・・・凄すぎるぜ、あいつら」
「全くだ」
多大に呆れを含んだ土門の声に頷くと、不意に円堂がこちらを振り向いた。
視線が絡み心臓が撥ねる。
そんな豪炎寺の様子に気づかないのか、箸を持って無邪気な笑みを浮かべた彼女は口を開いた。
「皆も食べようぜ!こんなにあると俺と一哉じゃ消費できねえし」
「早い者勝ちだよ」
笑顔で誘う二人に最初に乗ったのは一年生で、次いで二年の中堅組みも箸を伸ばす。
勢いに押されて豪炎寺も購買限定のパンを手に取ると、そのまま輪に加わった。
結局山と詰まれた食料は何とか昼の内に消化でき、余ったお菓子類は放課後へと回された。
その後二人が昼飯を忘れても差し入れをくれる人間が後を絶えず、一回きりのパフォーマンスで得た効果に彼らは一言こう語る。
『芸は身を助けるもんだ』
効果は立証できたが彼らの後に続こうとする猛者は当然おらず、固定ファンを得た彼らは今日もホクホクと差し入れを部員へ振舞っている。
ちなみに一週間ほどでマネージャーによりカロリーの過剰摂取と判断され、差し入れは一週間も続かずに終わったのは蛇足だろう。
最早帝国学園専用といっても過言ではないレベルで埋め尽くされた病室に、キャプテンと呼べる人は居ない。
彼は自分たちとは違い、個室をとって入院していた。
怪我の状態も程度に差があり、彼が倒れたのはそれまでの連日の苦行とも言える練習の所為だ。
佐久間や源田、他の面々のように蹴られたボールや激しいチャージが原因ではないので、身体的なダメージは少ないだろう。
けど、と佐久間は思う。
けれど、きっと、精神面でもどん底に落ちているのだろう、と。
自分たちのキャプテンである鬼道有人は、人の何倍も責任感が強い。
冷静沈着な仮面の下には熱い想いを抱えており、本質は誰より情熱的だ。
並々ならぬ自制心で押さえ込んでいる豊かな感性は、今はきっと彼を責める方向に向いている。
ここ数日の鬼道の様子は明らかにおかしかった。
試合前だというのにオーバーワークどころではなく、取り付かれたようにサッカーをしていた。
気絶寸前まで体を痛めつけ、ふらふらになりながら帰宅していた。
クラスが違うため授業風景までは知らないが、充血した目や痩せた頬を見れば状態も想像できる。
夜もあまり眠れて居ないのだろう。
手負いの獣が周囲を警戒するように、常に神経を尖らせていた。
どうして、と不思議に思った。
ほんの数日前、『姉』である彼女との試合で、彼は変わったように見えた。
鬼道だけじゃない。
自分たちも、彼女たちとの試合で変わり、『自分たちのサッカー』を始めたばかりだった。
それなのに翌日にはもう鬼道の様子は鬼気迫るものになっており、部活を休んだかと思えば、更に次の日には尋常じゃない雰囲気でサッカーをしていた。
どうしたのかと問い詰めても決して口は割らず、ただサッカーだけを希求して。
それは影山の教えるサッカーをしているときより酷い有様だった。
自らを傷つけることを目的としていて、それ以外を望んでいなかった。
あれは鬼道のサッカーじゃない。
「横になった方がいいぞ、佐久間」
「・・・源田」
隣のベッドの男に声を掛けられ、自然と眉が寄った。
他の帝国の面々より、彼と自分は鬼道に近い。
ぐっとベッドの上で拳を握ると、震える声を絞り出した。
「鬼道さんは、どうしてるんだろうか」
「経過は良好らしい。俺たちとは違い体に受けた傷は少ないから、検査入院程度で済むと」
「そうじゃない!体じゃなく、心だ!!」
確かに、体の傷はほとんどないだろう。
勝手な判断でポジションを捨てて彼を守るのを優先させたのは、佐久間たち帝国学園のサッカー部の面々だ。
勝つことよりも、彼の無事を優先させた。
鬼道は、あんなところで終る人間ではない。
絶対に終わらせてはいけない人だ。
幸いにして連日の酷使で碌に体も動かせないくせに試合に出場していた人は、最初の一撃で倒れてしまった。
動かせぬ体で意識を保つ彼を庇い、佐久間たちは自己満足を得た。
けれど。
「俺たちは勝手にあの人を庇った。だが、俺たちが斃れ行く様を見たあの人は、大丈夫なのか?本当に、大丈夫だと言えるのか!?」
やめろ、と悲痛な声で叫んでいた。
一人、また一人と勝負を捨てて体を張る部員に、喉も張り裂けよと悲鳴を上げていた。
あんな声、一度しか聞いたことがない。
つい先日、彼の『姉』に向かい鉄骨が降り注いだ瞬間の、あの悲鳴。
「俺たちには彼を守ったという自己満足が残った。けれど、あの人には?俺たちに庇われたあの人は、五体満足でありながら試合に出ることも出来ない。常勝無敗を誇る帝国学園は、無名のチームに負けたんだ。───負けたんだっ!」
その敗北は、先日の雷門中のものと比べて遥かに意味が異なる。
得るものは何もなく、文字通り、叩き潰された。
帝国学園のサッカー部としての誇りも、プレイヤーとしての矜持も、勝って再び彼らと試合をするという野望も、何もかもを徹底的に磨り潰された。
これほど悔しい思いをしたことはない。
負けないために帝国サッカー部に入部したのに、呆気なさ過ぎる結果は最後まで試合を続けることすら出来なかった。
けど、何より悔しいのは。
「俺たちはあのフィールドへ、ただ一人だけあの人を残した。・・・誇り高いあの人に、自ら敗北を宣言させた。それが、悔しくて仕方ない・・・っ」
渾身の想いを吐露すれば、隣の男も息を呑んだ。
自分たちの中でただ一人意識を保っていた鬼道は、キャプテンとして試合の放棄を宣言した。
その屈辱はいかほどだろう。
敗北を認めた瞬間を思えば、情けなくて涙が出てくる。
「俺たちは負けた。もっとも最悪な形で、負けたんだ」
つんと鼻の奥が熱くなり、涙を堪えるために喉に力を入れた。
不自然に呼吸が乱れ、溢れる感情のままにベッドを拳で殴りつけた。
どれだけ誇りを傷つけただろう。
傷つく仲間を眺めるだけで、全てが終ってしまっていた。
自分たちはあの試合で、『サッカー』なんてしていない。
ただの絶対的な敗北者。
「・・・それでも、鬼道なら大丈夫だ」
淡々とした口調で語る男に、勢いよく顔を上げる。
怒りを宿した鋭い眼差しを向けても一切怯まず正面から受け止めた彼は、固めた拳を胸に当てた。
「鬼道は強い男だ。踏み躙られても、誇りを折られても、絶対に立ち上がる。諦めたりなんかしない。それが俺たちの、帝国学園サッカー部のキャプテン、鬼道有人だ」
「・・・源田」
「俺たちが居なくとも、あいつは一人なんかじゃない。一人なんかに、ならないさ」
ふっと笑った源田は、どこか悟ったような空気を纏う。
その意味が判らずに首を傾げると、判らないのかと苦笑された。
何となく沈黙が訪れて、視線を窓の外へ寄越す。
病室にノックの音が響いたのは、その僅か後。
「───お前たちに、話しておきたいことがある」
現れた人は、つい先日の絶望を瞳から消して、代わりに強い決意を宿していた。
迷いがない真っ直ぐな眼差しは、彼の心のありようを何より明確に教えてくれる。
「俺は雷門へ行く。そうして、お前たちの敵を取る」
誰より辛酸を舐めさせられた男は、それでも立ち上がることを諦めておらず、その心と同じに真っ直ぐと立っていた。
勝つために下した彼の判断は信じられないほどイレギュラー。
成した瞬間にブーイングを受け、悪意ある視線に晒されるだろう。
あの帝国の鬼道が、とくちがさない連中に後ろ指を指され、見下されるに違いない。
それでも。
「俺は勝つ。お前たちのために。そして、俺自身の誇りのために」
源田の言葉通り、彼は一人じゃなかった。
病室の入り口に背を凭せ掛け、腕を組んでいる人は何も言わずにただ見守っている。
彼女の入れ知恵かと視線を眇めれば、苦笑して肩を竦めた人は緩く首を振った。
「俺は何一つ意見してねぇよ。そいつが勝手に決めたんだ。誰に何を言われても、後ろ指を差されてもいい。お前らの敵を取る方法を選びたい、と。一応、これでも止めたんだ。けど帝国のキャプテンとして、お前らに勝利を捧げたいんだとさ」
飄々とした口調だが、その言葉に嘘はないと信じられた。
あるいは、信じたかったのかもしれない。
「待っていてくれ。必ず、俺は勝ってくる」
そうして背中を向けた人は、確かに一人ではなかった。
彼は自分たちとは違い、個室をとって入院していた。
怪我の状態も程度に差があり、彼が倒れたのはそれまでの連日の苦行とも言える練習の所為だ。
佐久間や源田、他の面々のように蹴られたボールや激しいチャージが原因ではないので、身体的なダメージは少ないだろう。
けど、と佐久間は思う。
けれど、きっと、精神面でもどん底に落ちているのだろう、と。
自分たちのキャプテンである鬼道有人は、人の何倍も責任感が強い。
冷静沈着な仮面の下には熱い想いを抱えており、本質は誰より情熱的だ。
並々ならぬ自制心で押さえ込んでいる豊かな感性は、今はきっと彼を責める方向に向いている。
ここ数日の鬼道の様子は明らかにおかしかった。
試合前だというのにオーバーワークどころではなく、取り付かれたようにサッカーをしていた。
気絶寸前まで体を痛めつけ、ふらふらになりながら帰宅していた。
クラスが違うため授業風景までは知らないが、充血した目や痩せた頬を見れば状態も想像できる。
夜もあまり眠れて居ないのだろう。
手負いの獣が周囲を警戒するように、常に神経を尖らせていた。
どうして、と不思議に思った。
ほんの数日前、『姉』である彼女との試合で、彼は変わったように見えた。
鬼道だけじゃない。
自分たちも、彼女たちとの試合で変わり、『自分たちのサッカー』を始めたばかりだった。
それなのに翌日にはもう鬼道の様子は鬼気迫るものになっており、部活を休んだかと思えば、更に次の日には尋常じゃない雰囲気でサッカーをしていた。
どうしたのかと問い詰めても決して口は割らず、ただサッカーだけを希求して。
それは影山の教えるサッカーをしているときより酷い有様だった。
自らを傷つけることを目的としていて、それ以外を望んでいなかった。
あれは鬼道のサッカーじゃない。
「横になった方がいいぞ、佐久間」
「・・・源田」
隣のベッドの男に声を掛けられ、自然と眉が寄った。
他の帝国の面々より、彼と自分は鬼道に近い。
ぐっとベッドの上で拳を握ると、震える声を絞り出した。
「鬼道さんは、どうしてるんだろうか」
「経過は良好らしい。俺たちとは違い体に受けた傷は少ないから、検査入院程度で済むと」
「そうじゃない!体じゃなく、心だ!!」
確かに、体の傷はほとんどないだろう。
勝手な判断でポジションを捨てて彼を守るのを優先させたのは、佐久間たち帝国学園のサッカー部の面々だ。
勝つことよりも、彼の無事を優先させた。
鬼道は、あんなところで終る人間ではない。
絶対に終わらせてはいけない人だ。
幸いにして連日の酷使で碌に体も動かせないくせに試合に出場していた人は、最初の一撃で倒れてしまった。
動かせぬ体で意識を保つ彼を庇い、佐久間たちは自己満足を得た。
けれど。
「俺たちは勝手にあの人を庇った。だが、俺たちが斃れ行く様を見たあの人は、大丈夫なのか?本当に、大丈夫だと言えるのか!?」
やめろ、と悲痛な声で叫んでいた。
一人、また一人と勝負を捨てて体を張る部員に、喉も張り裂けよと悲鳴を上げていた。
あんな声、一度しか聞いたことがない。
つい先日、彼の『姉』に向かい鉄骨が降り注いだ瞬間の、あの悲鳴。
「俺たちには彼を守ったという自己満足が残った。けれど、あの人には?俺たちに庇われたあの人は、五体満足でありながら試合に出ることも出来ない。常勝無敗を誇る帝国学園は、無名のチームに負けたんだ。───負けたんだっ!」
その敗北は、先日の雷門中のものと比べて遥かに意味が異なる。
得るものは何もなく、文字通り、叩き潰された。
帝国学園のサッカー部としての誇りも、プレイヤーとしての矜持も、勝って再び彼らと試合をするという野望も、何もかもを徹底的に磨り潰された。
これほど悔しい思いをしたことはない。
負けないために帝国サッカー部に入部したのに、呆気なさ過ぎる結果は最後まで試合を続けることすら出来なかった。
けど、何より悔しいのは。
「俺たちはあのフィールドへ、ただ一人だけあの人を残した。・・・誇り高いあの人に、自ら敗北を宣言させた。それが、悔しくて仕方ない・・・っ」
渾身の想いを吐露すれば、隣の男も息を呑んだ。
自分たちの中でただ一人意識を保っていた鬼道は、キャプテンとして試合の放棄を宣言した。
その屈辱はいかほどだろう。
敗北を認めた瞬間を思えば、情けなくて涙が出てくる。
「俺たちは負けた。もっとも最悪な形で、負けたんだ」
つんと鼻の奥が熱くなり、涙を堪えるために喉に力を入れた。
不自然に呼吸が乱れ、溢れる感情のままにベッドを拳で殴りつけた。
どれだけ誇りを傷つけただろう。
傷つく仲間を眺めるだけで、全てが終ってしまっていた。
自分たちはあの試合で、『サッカー』なんてしていない。
ただの絶対的な敗北者。
「・・・それでも、鬼道なら大丈夫だ」
淡々とした口調で語る男に、勢いよく顔を上げる。
怒りを宿した鋭い眼差しを向けても一切怯まず正面から受け止めた彼は、固めた拳を胸に当てた。
「鬼道は強い男だ。踏み躙られても、誇りを折られても、絶対に立ち上がる。諦めたりなんかしない。それが俺たちの、帝国学園サッカー部のキャプテン、鬼道有人だ」
「・・・源田」
「俺たちが居なくとも、あいつは一人なんかじゃない。一人なんかに、ならないさ」
ふっと笑った源田は、どこか悟ったような空気を纏う。
その意味が判らずに首を傾げると、判らないのかと苦笑された。
何となく沈黙が訪れて、視線を窓の外へ寄越す。
病室にノックの音が響いたのは、その僅か後。
「───お前たちに、話しておきたいことがある」
現れた人は、つい先日の絶望を瞳から消して、代わりに強い決意を宿していた。
迷いがない真っ直ぐな眼差しは、彼の心のありようを何より明確に教えてくれる。
「俺は雷門へ行く。そうして、お前たちの敵を取る」
誰より辛酸を舐めさせられた男は、それでも立ち上がることを諦めておらず、その心と同じに真っ直ぐと立っていた。
勝つために下した彼の判断は信じられないほどイレギュラー。
成した瞬間にブーイングを受け、悪意ある視線に晒されるだろう。
あの帝国の鬼道が、とくちがさない連中に後ろ指を指され、見下されるに違いない。
それでも。
「俺は勝つ。お前たちのために。そして、俺自身の誇りのために」
源田の言葉通り、彼は一人じゃなかった。
病室の入り口に背を凭せ掛け、腕を組んでいる人は何も言わずにただ見守っている。
彼女の入れ知恵かと視線を眇めれば、苦笑して肩を竦めた人は緩く首を振った。
「俺は何一つ意見してねぇよ。そいつが勝手に決めたんだ。誰に何を言われても、後ろ指を差されてもいい。お前らの敵を取る方法を選びたい、と。一応、これでも止めたんだ。けど帝国のキャプテンとして、お前らに勝利を捧げたいんだとさ」
飄々とした口調だが、その言葉に嘘はないと信じられた。
あるいは、信じたかったのかもしれない。
「待っていてくれ。必ず、俺は勝ってくる」
そうして背中を向けた人は、確かに一人ではなかった。
ベッド脇の明かりだけが灯された室内は静かだった。
そのお陰で、普段なら気にならないだろう大きさのすうすうとした微かな寝息が耳まで届く。
靴音を立てないようにゆっくりとベッドに近寄れば、こちらを振り向かない背中がぴくりと揺れた。
「・・・ごめんなさい、父さん」
息子の手をきゅっと握った少女は、今にも消え入りそうな声で囁いた。
心から罪悪感を搾り出したらこんな声になるのではないだろうか。
少なくとも、まだ十五歳の少女が出すようなものではないだろう、鎮痛で重苦しい雰囲気を持っていた。
「ごめんなさい、父さん。私は、最後の最後で振り切れなかった。サッカー以外は望まないと決めたのに、この子の伸ばす手を拒みきれなかった。有人を本当に想うなら、この手を取ってはいけなかったのに。そのために、鬼道の家から出たのに、ごめんなさい・・・我侭を通してもらって、結局私は」
「───守」
「この子は鬼道財閥の跡取りで、私はその補助すら出来ないのに、十年後、隣に立っていることすら出来ないのに、無責任な真似をして、ごめんなさい」
「守」
「父さん・・・私は、あなたに何の恩返しも出来ません。孤児だった私を引き取り、留学までさせてもらって、色々と良くしていただいたのに、新しい娘も、鬼道のお役に立つことも、有人の手を放すことも、何一つ満足に出来ない。ごめんなさ」
「やめなさい、守」
震える声で懺悔する娘の背中はとても小さく、泣きたくなるような哀切を運ぶ。
いつだって完璧で、誇らしかった自慢の娘。
与える全てを吸収し、自制心に優れ、臨機応変に長けた娘は、女の身であっても自分の後継者に指名したいほの天賦の才の持ち主だった。
特にサッカーに関して言えば神に愛されたとしかいいようのない才能を有し、将来的には財閥の一員になってもらうとしても、留学すらさせても惜しくなかった。
親馬鹿と言われようと誰に向けても自慢で、愛しく可愛い我が子。
「お前は何も悪くない。謝らなくていい。───謝らなくて、いいんだ」
「でも」
「鬼道の家を出てもお前は私の可愛い一人娘だ。有人の妹ではなく、お前が私の娘なんだ。娘は、お前だけでいい」
「・・・父さんっ」
「娘のために何かしたいと思うのは、父として当然だ。例え籍が抜けたとしても、守は私の娘であるのに変わりはない。何、恩ならたっぷり返してもらう。お前は、十年後だって生きている。私の娘は天寿を全うして、大往生してもらう。いつか最高の伴侶を得て、子供をなし、孫に囲まれて、そうしてお前は人生を終える」
背中から抱きしめた体は、また一段と痩せたようだった。
口にした言葉は何の根拠もない、彼女に言わせると妄言に入る部類だろう。
それでも鬼道は信じている。
今まで幾度もサッカーをする上で奇跡と呼ばれる行為を起こした娘だ。
きっと、今回だって、諦めなければ先はある。
こんなときでもやっぱり涙を流さない子供は、抱きしめる鬼道の腕に空いていた手を添えた。
きゅうっと手に力を篭めてしがみ付くなど、いつ以来だろう。
早熟な子供は甘えるのをやめるのも早かった。
空気を読み、先を読み、動くのが常だった。
鬼道の娘としては良い傾向だが、父親としては複雑だった。
「神がお前を欲したとしても、私は渡す気はない。私はお前のバージンロードをエスコートする夢がある。お前を手に入れる幸運な男を一発殴り、お前の子供を腕に抱く野望がある。私がぼけたら面倒見てもらい、死に際も看取ってもらうつもりだ」
「・・・父さんったら」
気が早いよ、と笑った娘を強い力で抱きしめた。
そう、神が望んだとしてもくれてやる気はない。
この子は、娘は、他の何を差し出したとしても、絶対に与えてやらない。
「ごめんなさい、父さん。私は本当に親不孝な娘です。───あなたの些細な夢は、私では叶えられないけれど、でも、悔いがない人生を送ります。差し伸べてくださる手を取れなくてごめんなさい。でも、私には、サッカーが必要で」
「それがなければ生きているとは言えない、か」
「はい」
漸くこちらを見た守は、昔のような笑顔を見せた。
サッカーは二度と出来ないと、宣告される前の、庭で弟と戯れていたときのような、明るく穏やかな笑顔。
猛烈に泣きたくなった。
二年ぶりに笑った娘は最愛の弟と手を繋ぎ、それでも自分の『生きる未来』を欠片も信じていない。
夢物語と朽ちた希望に縋ることもせず、諦念を抱いて消える日を待っている。
ちらり、と姉の手を握り眠り込む息子に視線を向けた。
有人が守に抱く想いなら、『守』を変えてくれるのだろうか。
ただ一人、守が特別と定めた子供は、頑固な心を解せるだろうか。
「覚えておきなさい、守。お前は私の娘で、掛け替えのない家族だ」
「はい」
素直に頷いた少女の頭を優しく撫ぜる。
縋りつく手は小さくて、まだ本当に子供なのだと腕の中にかき抱いた。
「ねえ、父さん。もし、私が」
続く囁きに、きつく瞼を閉じて息を呑む。
もしも、この子が変わらなければ。
「───判った」
果たさねばならない約束は、親としての義務なのだろう。
それがどれだけ鬼道の心を刻むものでも、子を守る親として、果たさねばいけない義務なのだろう。
そのお陰で、普段なら気にならないだろう大きさのすうすうとした微かな寝息が耳まで届く。
靴音を立てないようにゆっくりとベッドに近寄れば、こちらを振り向かない背中がぴくりと揺れた。
「・・・ごめんなさい、父さん」
息子の手をきゅっと握った少女は、今にも消え入りそうな声で囁いた。
心から罪悪感を搾り出したらこんな声になるのではないだろうか。
少なくとも、まだ十五歳の少女が出すようなものではないだろう、鎮痛で重苦しい雰囲気を持っていた。
「ごめんなさい、父さん。私は、最後の最後で振り切れなかった。サッカー以外は望まないと決めたのに、この子の伸ばす手を拒みきれなかった。有人を本当に想うなら、この手を取ってはいけなかったのに。そのために、鬼道の家から出たのに、ごめんなさい・・・我侭を通してもらって、結局私は」
「───守」
「この子は鬼道財閥の跡取りで、私はその補助すら出来ないのに、十年後、隣に立っていることすら出来ないのに、無責任な真似をして、ごめんなさい」
「守」
「父さん・・・私は、あなたに何の恩返しも出来ません。孤児だった私を引き取り、留学までさせてもらって、色々と良くしていただいたのに、新しい娘も、鬼道のお役に立つことも、有人の手を放すことも、何一つ満足に出来ない。ごめんなさ」
「やめなさい、守」
震える声で懺悔する娘の背中はとても小さく、泣きたくなるような哀切を運ぶ。
いつだって完璧で、誇らしかった自慢の娘。
与える全てを吸収し、自制心に優れ、臨機応変に長けた娘は、女の身であっても自分の後継者に指名したいほの天賦の才の持ち主だった。
特にサッカーに関して言えば神に愛されたとしかいいようのない才能を有し、将来的には財閥の一員になってもらうとしても、留学すらさせても惜しくなかった。
親馬鹿と言われようと誰に向けても自慢で、愛しく可愛い我が子。
「お前は何も悪くない。謝らなくていい。───謝らなくて、いいんだ」
「でも」
「鬼道の家を出てもお前は私の可愛い一人娘だ。有人の妹ではなく、お前が私の娘なんだ。娘は、お前だけでいい」
「・・・父さんっ」
「娘のために何かしたいと思うのは、父として当然だ。例え籍が抜けたとしても、守は私の娘であるのに変わりはない。何、恩ならたっぷり返してもらう。お前は、十年後だって生きている。私の娘は天寿を全うして、大往生してもらう。いつか最高の伴侶を得て、子供をなし、孫に囲まれて、そうしてお前は人生を終える」
背中から抱きしめた体は、また一段と痩せたようだった。
口にした言葉は何の根拠もない、彼女に言わせると妄言に入る部類だろう。
それでも鬼道は信じている。
今まで幾度もサッカーをする上で奇跡と呼ばれる行為を起こした娘だ。
きっと、今回だって、諦めなければ先はある。
こんなときでもやっぱり涙を流さない子供は、抱きしめる鬼道の腕に空いていた手を添えた。
きゅうっと手に力を篭めてしがみ付くなど、いつ以来だろう。
早熟な子供は甘えるのをやめるのも早かった。
空気を読み、先を読み、動くのが常だった。
鬼道の娘としては良い傾向だが、父親としては複雑だった。
「神がお前を欲したとしても、私は渡す気はない。私はお前のバージンロードをエスコートする夢がある。お前を手に入れる幸運な男を一発殴り、お前の子供を腕に抱く野望がある。私がぼけたら面倒見てもらい、死に際も看取ってもらうつもりだ」
「・・・父さんったら」
気が早いよ、と笑った娘を強い力で抱きしめた。
そう、神が望んだとしてもくれてやる気はない。
この子は、娘は、他の何を差し出したとしても、絶対に与えてやらない。
「ごめんなさい、父さん。私は本当に親不孝な娘です。───あなたの些細な夢は、私では叶えられないけれど、でも、悔いがない人生を送ります。差し伸べてくださる手を取れなくてごめんなさい。でも、私には、サッカーが必要で」
「それがなければ生きているとは言えない、か」
「はい」
漸くこちらを見た守は、昔のような笑顔を見せた。
サッカーは二度と出来ないと、宣告される前の、庭で弟と戯れていたときのような、明るく穏やかな笑顔。
猛烈に泣きたくなった。
二年ぶりに笑った娘は最愛の弟と手を繋ぎ、それでも自分の『生きる未来』を欠片も信じていない。
夢物語と朽ちた希望に縋ることもせず、諦念を抱いて消える日を待っている。
ちらり、と姉の手を握り眠り込む息子に視線を向けた。
有人が守に抱く想いなら、『守』を変えてくれるのだろうか。
ただ一人、守が特別と定めた子供は、頑固な心を解せるだろうか。
「覚えておきなさい、守。お前は私の娘で、掛け替えのない家族だ」
「はい」
素直に頷いた少女の頭を優しく撫ぜる。
縋りつく手は小さくて、まだ本当に子供なのだと腕の中にかき抱いた。
「ねえ、父さん。もし、私が」
続く囁きに、きつく瞼を閉じて息を呑む。
もしも、この子が変わらなければ。
「───判った」
果たさねばならない約束は、親としての義務なのだろう。
それがどれだけ鬼道の心を刻むものでも、子を守る親として、果たさねばいけない義務なのだろう。
『俺はもうお前の姉じゃない』
その言葉を残酷と感じるのはきっと自分勝手だからだ。
『俺たちは本物の兄弟じゃない』
笑顔で告げられた内容に、頭の奥がずきりと痛む。
『鬼道家という繋がりを失くした俺は、お前とはもう何の関係もない赤の他人だ』
あくまでさり気無く、他に何もないだろうと柔らかく微笑んで。
『俺とお前は兄弟じゃくなったけど、サッカーをしてれば繋がってるさ』
でも、それだけじゃ足りない。他の誰にでも与えられるような簡易な繋がりは望んでいない。
毎日毎日繋がりを感じるために死に物狂いでサッカーをしたけれど、欠漏が上回り希求する心が育つだけ。
ひゅっと息を呑み、緊張で震える体を宥めようと脳裏で数を数える。
これから願うのは自分の都合のみで相手の意思や主義を握りこむ酷いもの。
こんなのは間違っている。間違っていると判ってる。
判っていても、それでも愚かにも望んでしまう。
ごめんなさい。
手放せなくて、ごめんなさい。
どうしたって、無理なんです。あなたがいる世界を知れば、失った時間を思い出せない。
「父さん、お願いがあります。───もしも俺が優勝出来たら、あの人に勝つことが出来たなら」
だから、これは罰なのだ。
どうしたってあの人しか望めなかった自分への、神が下した断罪だろう。
「・・・・・・」
鬼道家の息子に与えられた個室の窓のカーテンは開きっぱなしで、目に眩しい夕日が容赦なく世界を照らす。
日差しだけでは薄暗く、電気をつけるには明るい時間。
一人で過ごす時間に思い返すのは、圧倒的な敗北を与えられた試合のみ。
真っ白なシーツを握り、ぎりぎりと歯を食いしばる。
きつく閉じた瞼の裏に浮かぶのは、両腕を広げて立ちはだかった仲間の姿。
『・・・あなたは、ここで終っちゃいけない』
微笑を浮かべ、彼らは自分を庇って全員倒れた。
全くノーマークのチームだった。
無名で、情報すら出回ってない、注目の集まってない相手。
油断していた、としか言いようがない。
連日の酷使で錆付いた体は思い通りに動かず、目の前で倒れてく仲間の姿だけが嫌になるくらい明確に記憶された。
『あなただけは、絶対に守る!』
一人、また一人と、動けない自分の盾となり仲間が失われる。
もっと冷静になっていたら。
どんな相手だろうと、一切の手抜き無しで挑まねばならないと知っていたのに。
何故、と思考が空回りする。
格下の相手だろうが、ノーマークの出場校だろうが、獅子が全力で獲物を狩るように本気で闘わねばならなかったのに。
今日の鬼道は司令塔としてもキャプテンとしても失格だった。
勝つためのゲームメイクをするどころか、チームを機能させる前に全てが終っていた。
苦しくて、悔しくて仕方ない。
自分のことしか考えてなかったのに、仲間は鬼道を想ってくれていた。
これでは駄目だ。
先日からずっと空回りしてばかりで、挙句の果てに全て失った。
サッカーを通して取り戻すどころか、薄い絆も仲間の信頼も、全て掌から零れ落ちる。
不自然に喉が鳴る。
空が茜色から藍色へと変わり、鬼道は嗚咽が零れそうになるのを堪え、ゆるゆると唇を持ち上げた。
「───どうして、ですか」
不自然に歪んだ問いかけは、それでもきっちりと音になった。
唇をきつく噛みすぎたのか口内に鉄錆臭い味が広がり、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。
全てを振り払うように瞼を閉じて、泣きたい気持ちを堪えた。
「何故、あなたがここにいるんです・・・っ」
個室の入り口に背を凭せ掛け、腕を組んでこちらを見る人に問いかける。
いつの間に入り込んだのか知らないが、気がつけばその人はそこにいた。
今、一番傍に居て欲しくて、一番近寄りたくない人。
押さえ込みたい感情は、激しく揺さぶられ表に出たいと心を震わす。
傍に居てくれるだけで溢れそうになる想いに蓋をし、駄目だと上半身をベッドへ埋める。
姿は見えなくなったのに、声だって何も聞こえないのに、それでも全身で存在を感じ取る自分は、なんて浅ましいのだろう。
かさり、と衣ずれの音がして、床を鳴らして気配が近づく。
一歩一歩距離が縮まるたびに体が強張って、押さえ込もうとする心が歓喜する。
噎せ返るほどの想いに、涙が零れそうになり、噛み切った唇を更に噛み締める。
「───泣き落としだよ」
「・・・」
「お前の妹に泣き落とされた。授業が終わって部活を始めましょうって時に、『お兄ちゃんが・・・っ』って走りこまれてさ。『涙が女の武器ならば、今使わせてもらいます』ってさ。全く、先が恐ろしいな」
必死な形相の妹が脳裏に浮かび、情けなさに消えたくなる。
こんな醜態、この人だけには見られたくなかった。
誰よりも格好つけて見栄を張りたい相手なのに、無防備な様子ばかり見られてる。
「本当にお前ら兄弟は嫌になる。俺の都合なんて考えないで、馬鹿みたいに縋ってくる。勘弁してくれよ」
「・・・すみ、ません」
「お前は鬼道の跡取りだ。判ってんだろ?いつまでも俺に甘えてちゃ駄目なんだ。俺はお前の傍に居続けることは出来ないんだぞ?正義のヒーローはマントを外して仮面も取ってもう隠居生活を送ってるんだよ。自分の生活をまったり楽しんでるの。それなのにどうしてお前らは俺を引っ張り出そうとするんだ?」
「ごめ、なさ」
「いい加減にしてくれよ。何でそうなんだよ。どうしてお前はいつまでも手が掛かるんだ───有人」
「ごめ・・・っ」
反射的に出た謝罪が中途半端なところで止まる。
何を言われたか理解できず、暫く脳が活動を停止した。
脳が答えを弾き出す前に、体が勝手に反応し、ゆっくりと視界が色を取り戻す。
布団に蹲っていた体を伸ばして前を見ると、痛みを堪えるような表情をした人が、瞳に悲しみを湛えていた。
「どうして俺なんだ。どうして俺じゃなきゃいけないんだ。お前は俺を選べば不幸になる。お前は、俺だけは選んじゃいけないんだぞ『有人』」
ふっくらとした唇から呼ばれた名前に、瞬きすると目尻から涙が零れ落ちた。
ゴーグルは外してベッド脇に置いてあるので、雫は顎を伝ってシーツへ落ちる。
はたはたと止め処なく流れる涙は、喜びの証だった。
少しだけ放れた場所にいる彼女へ自然と腕が伸び、それでも彼女は眉間の皺を深くしただけで避けようとしない。
思うままに動かない体を叱咤して、ベッドに片腕をついて四つんばいになる。
「俺を求めるな、有人。俺を求めれば、お前は今まで以上の地獄を見る。お前が俺を欲するほどに、絶望の淵に叩き落され今度こそ立ち直れなくなる」
空が藍色からより濃い色へ変色する。
室内も徐々に闇に包まれ、すぐ傍のその人の姿すら消えてしまいそうだった。
言葉の意味は理解できない。
昔から姉は自分より遥かに賢く、及ばない場所に立ってる人だ。
そして正しい目を持ち、判断はいつだって的確だった。
きっと、その姉が言うのだから、今彼女を捕まえれば地獄を見るのかもしれない。
目先の欲に駆られ縋れば、酷い絶望が待っているのかもしれない。
けれど。
「もし、俺が優勝したら」
「・・・」
「俺は、あなたをもう一度鬼道へ引き取るように父さんに願い出ました。あなたの意思なんて関係ない。どうしても、俺の傍に居て欲しかった。望まぬ強さで縛り付けて、雁字搦めにして身動き取れないようにして、怨まれても、憎まれてもいいから、今度こそ解けない絆で結び付けようとしてました。俺には出来なくても、父さんにはきっとその力があるはずだから」
「・・・・・・」
「俺は、最低です。倒れていく仲間を見ながら、それでもあなたを想った。勝たなければあなたを得られないのにと、仲間に庇われながら考えたんです。最低です。俺は、最悪です。あなたが言うとおりに、自分のことしか考えてない」
ぽろぽろと涙が零れシーツに染みが広がる、
視認するのすら難しくなった人に、それでも必死に手を伸ばす。
後どれくらい進めばベッドの端なのか、落ちたらきっと受身も取れないだろうとか、どうでもいい考えが脳裏に浮かんで消えていく。
「俺は今あなたを求めることで将来地獄を見るのかもしれない。酷い絶望に叩き落されるのかもしれない。でも───それは、ここであなたを捕まえなくても同じなんです」
伸ばした手が何かに触れると同時に、がくりと体がバランスを崩す。
来るべき衝撃に身を強張らせるが、柔らかな感触にしっかりと受け止められた。
「あなたじゃなきゃ駄目なんです。あなたがいいんです。俺の世界は大切なものは幾つかあるけれど、あなたはその中でも特別なんです。我侭だって判ってます。負担に思われるのも当然です。嫌がられたって理解できます。けどそれでもどうしたってあなたを求めずにいられない。鬼道の家に引き取られたその日から、俺の心はあなたを希求してやまないんです」
暖かな体にぎゅっとしがみ付く。
昔は身長差があって、良く抱き上げてもらっていた。
ほのかな香りは昔と変わらず、懐かしさに鼻0の奥がつんとなる。
他の誰にも見せれない心の柔らかな部分は、彼女の前でだけ無防備になった。
さらけ出した弱さは苦笑と共に受け止められ、触れる優しさに幾度安堵したことか。
こんな想いは迷惑にしかならない。
それでも、ずっと捨てれなかった。
兄弟として暮らしていた間は、ずっと気づかないふりが出来た。
二年前に捨てられたと思い込んでからも、憎しみの裏には強い想いがあった。
やっと再会して、解かれた手に絶望した。
何でもいいから縋るものが欲しいと、相手の都合も鑑みずに動くほどに。
「ごめんなさい・・・あなたを望んで、ごめんなさい」
ごめんなさいと繰り返す。
ただただ涙が零れ落ち、酷い奴だと自分を詰る。
仲間が斃れたというのに、試合に負けたというのに、それでもこの人がいるだけでどうしたって幸せなのだ。
迷惑だと拒絶されても、勘弁してくれと訴えられても、この人が良くて、この人じゃなきゃ駄目なのだ。
歓ぶ自分に嫌気がさす。
呆れるくらいに勝手すぎる。
嫌悪と羞恥で死にたくなるのに、この腕は絶対に放せない。
「俺はまだ子供です。だから我侭を言わせてください。俺の我侭を聞いてください。───お願いです、姉さん」
最低な言い草だ。
鬼道家の人間とは思えない甘ったれた態度に、同情を誘うような引きつった声。
縋りつく腕に力を篭めて、柔らかな体に頬を摺り寄せる。
「お前は馬鹿だ」
「・・・はい」
「俺が思ってたよりも、ずっと大馬鹿だよ有人」
「はい」
「その上甘ったれで泣き虫で、ちっとも成長していない。本当に手が掛かる、俺の『弟』」
抱きつくだけだった体が抱きしめられぎゅっと力を篭められた。
連日の暴挙も合わせ体が軋んで悲鳴を訴えているが、それでも拒絶しようと思えない。
むしろもっときつく抱きしめて欲しかった。
久し振りに感じる温もり。
大好きな人からの抱擁に、涙腺は決壊し益々勢いを増して涙が溢れる。
馬鹿だ馬鹿だと繰り返す声は優しくて、我を通したことを後悔できない。
「ごめんなさい、姉さん。あなたを自由にしてあげれなくてごめんなさい」
「もういい。お前は絶対いつか俺の手を取ったことを後悔する日が来るだろうけど、居られる間は傍にいてやる。お前が───俺以外の誰かを見つけられるまで、その間はお前の傍に居てやるよ」
俺の負けだ、と苦笑する人に、口の端が上がった。
それは永遠に俺の傍に居てくれるという意味ですか、と聞かなかったのは、最後の理性が働いたからに違いない。
倒れた仲間も、負けた試合も決して忘れはしない。
けれど今だけは。
取り戻した温もりに甘えれば、優しい手のひらが髪を梳いた。
久方ぶりの安息に、徐々に意識が闇へと落ちる。
懐かしい闇は、彼女に包まれて眠った幼いあの日と同じものだった。
その言葉を残酷と感じるのはきっと自分勝手だからだ。
『俺たちは本物の兄弟じゃない』
笑顔で告げられた内容に、頭の奥がずきりと痛む。
『鬼道家という繋がりを失くした俺は、お前とはもう何の関係もない赤の他人だ』
あくまでさり気無く、他に何もないだろうと柔らかく微笑んで。
『俺とお前は兄弟じゃくなったけど、サッカーをしてれば繋がってるさ』
でも、それだけじゃ足りない。他の誰にでも与えられるような簡易な繋がりは望んでいない。
毎日毎日繋がりを感じるために死に物狂いでサッカーをしたけれど、欠漏が上回り希求する心が育つだけ。
ひゅっと息を呑み、緊張で震える体を宥めようと脳裏で数を数える。
これから願うのは自分の都合のみで相手の意思や主義を握りこむ酷いもの。
こんなのは間違っている。間違っていると判ってる。
判っていても、それでも愚かにも望んでしまう。
ごめんなさい。
手放せなくて、ごめんなさい。
どうしたって、無理なんです。あなたがいる世界を知れば、失った時間を思い出せない。
「父さん、お願いがあります。───もしも俺が優勝出来たら、あの人に勝つことが出来たなら」
だから、これは罰なのだ。
どうしたってあの人しか望めなかった自分への、神が下した断罪だろう。
「・・・・・・」
鬼道家の息子に与えられた個室の窓のカーテンは開きっぱなしで、目に眩しい夕日が容赦なく世界を照らす。
日差しだけでは薄暗く、電気をつけるには明るい時間。
一人で過ごす時間に思い返すのは、圧倒的な敗北を与えられた試合のみ。
真っ白なシーツを握り、ぎりぎりと歯を食いしばる。
きつく閉じた瞼の裏に浮かぶのは、両腕を広げて立ちはだかった仲間の姿。
『・・・あなたは、ここで終っちゃいけない』
微笑を浮かべ、彼らは自分を庇って全員倒れた。
全くノーマークのチームだった。
無名で、情報すら出回ってない、注目の集まってない相手。
油断していた、としか言いようがない。
連日の酷使で錆付いた体は思い通りに動かず、目の前で倒れてく仲間の姿だけが嫌になるくらい明確に記憶された。
『あなただけは、絶対に守る!』
一人、また一人と、動けない自分の盾となり仲間が失われる。
もっと冷静になっていたら。
どんな相手だろうと、一切の手抜き無しで挑まねばならないと知っていたのに。
何故、と思考が空回りする。
格下の相手だろうが、ノーマークの出場校だろうが、獅子が全力で獲物を狩るように本気で闘わねばならなかったのに。
今日の鬼道は司令塔としてもキャプテンとしても失格だった。
勝つためのゲームメイクをするどころか、チームを機能させる前に全てが終っていた。
苦しくて、悔しくて仕方ない。
自分のことしか考えてなかったのに、仲間は鬼道を想ってくれていた。
これでは駄目だ。
先日からずっと空回りしてばかりで、挙句の果てに全て失った。
サッカーを通して取り戻すどころか、薄い絆も仲間の信頼も、全て掌から零れ落ちる。
不自然に喉が鳴る。
空が茜色から藍色へと変わり、鬼道は嗚咽が零れそうになるのを堪え、ゆるゆると唇を持ち上げた。
「───どうして、ですか」
不自然に歪んだ問いかけは、それでもきっちりと音になった。
唇をきつく噛みすぎたのか口内に鉄錆臭い味が広がり、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。
全てを振り払うように瞼を閉じて、泣きたい気持ちを堪えた。
「何故、あなたがここにいるんです・・・っ」
個室の入り口に背を凭せ掛け、腕を組んでこちらを見る人に問いかける。
いつの間に入り込んだのか知らないが、気がつけばその人はそこにいた。
今、一番傍に居て欲しくて、一番近寄りたくない人。
押さえ込みたい感情は、激しく揺さぶられ表に出たいと心を震わす。
傍に居てくれるだけで溢れそうになる想いに蓋をし、駄目だと上半身をベッドへ埋める。
姿は見えなくなったのに、声だって何も聞こえないのに、それでも全身で存在を感じ取る自分は、なんて浅ましいのだろう。
かさり、と衣ずれの音がして、床を鳴らして気配が近づく。
一歩一歩距離が縮まるたびに体が強張って、押さえ込もうとする心が歓喜する。
噎せ返るほどの想いに、涙が零れそうになり、噛み切った唇を更に噛み締める。
「───泣き落としだよ」
「・・・」
「お前の妹に泣き落とされた。授業が終わって部活を始めましょうって時に、『お兄ちゃんが・・・っ』って走りこまれてさ。『涙が女の武器ならば、今使わせてもらいます』ってさ。全く、先が恐ろしいな」
必死な形相の妹が脳裏に浮かび、情けなさに消えたくなる。
こんな醜態、この人だけには見られたくなかった。
誰よりも格好つけて見栄を張りたい相手なのに、無防備な様子ばかり見られてる。
「本当にお前ら兄弟は嫌になる。俺の都合なんて考えないで、馬鹿みたいに縋ってくる。勘弁してくれよ」
「・・・すみ、ません」
「お前は鬼道の跡取りだ。判ってんだろ?いつまでも俺に甘えてちゃ駄目なんだ。俺はお前の傍に居続けることは出来ないんだぞ?正義のヒーローはマントを外して仮面も取ってもう隠居生活を送ってるんだよ。自分の生活をまったり楽しんでるの。それなのにどうしてお前らは俺を引っ張り出そうとするんだ?」
「ごめ、なさ」
「いい加減にしてくれよ。何でそうなんだよ。どうしてお前はいつまでも手が掛かるんだ───有人」
「ごめ・・・っ」
反射的に出た謝罪が中途半端なところで止まる。
何を言われたか理解できず、暫く脳が活動を停止した。
脳が答えを弾き出す前に、体が勝手に反応し、ゆっくりと視界が色を取り戻す。
布団に蹲っていた体を伸ばして前を見ると、痛みを堪えるような表情をした人が、瞳に悲しみを湛えていた。
「どうして俺なんだ。どうして俺じゃなきゃいけないんだ。お前は俺を選べば不幸になる。お前は、俺だけは選んじゃいけないんだぞ『有人』」
ふっくらとした唇から呼ばれた名前に、瞬きすると目尻から涙が零れ落ちた。
ゴーグルは外してベッド脇に置いてあるので、雫は顎を伝ってシーツへ落ちる。
はたはたと止め処なく流れる涙は、喜びの証だった。
少しだけ放れた場所にいる彼女へ自然と腕が伸び、それでも彼女は眉間の皺を深くしただけで避けようとしない。
思うままに動かない体を叱咤して、ベッドに片腕をついて四つんばいになる。
「俺を求めるな、有人。俺を求めれば、お前は今まで以上の地獄を見る。お前が俺を欲するほどに、絶望の淵に叩き落され今度こそ立ち直れなくなる」
空が藍色からより濃い色へ変色する。
室内も徐々に闇に包まれ、すぐ傍のその人の姿すら消えてしまいそうだった。
言葉の意味は理解できない。
昔から姉は自分より遥かに賢く、及ばない場所に立ってる人だ。
そして正しい目を持ち、判断はいつだって的確だった。
きっと、その姉が言うのだから、今彼女を捕まえれば地獄を見るのかもしれない。
目先の欲に駆られ縋れば、酷い絶望が待っているのかもしれない。
けれど。
「もし、俺が優勝したら」
「・・・」
「俺は、あなたをもう一度鬼道へ引き取るように父さんに願い出ました。あなたの意思なんて関係ない。どうしても、俺の傍に居て欲しかった。望まぬ強さで縛り付けて、雁字搦めにして身動き取れないようにして、怨まれても、憎まれてもいいから、今度こそ解けない絆で結び付けようとしてました。俺には出来なくても、父さんにはきっとその力があるはずだから」
「・・・・・・」
「俺は、最低です。倒れていく仲間を見ながら、それでもあなたを想った。勝たなければあなたを得られないのにと、仲間に庇われながら考えたんです。最低です。俺は、最悪です。あなたが言うとおりに、自分のことしか考えてない」
ぽろぽろと涙が零れシーツに染みが広がる、
視認するのすら難しくなった人に、それでも必死に手を伸ばす。
後どれくらい進めばベッドの端なのか、落ちたらきっと受身も取れないだろうとか、どうでもいい考えが脳裏に浮かんで消えていく。
「俺は今あなたを求めることで将来地獄を見るのかもしれない。酷い絶望に叩き落されるのかもしれない。でも───それは、ここであなたを捕まえなくても同じなんです」
伸ばした手が何かに触れると同時に、がくりと体がバランスを崩す。
来るべき衝撃に身を強張らせるが、柔らかな感触にしっかりと受け止められた。
「あなたじゃなきゃ駄目なんです。あなたがいいんです。俺の世界は大切なものは幾つかあるけれど、あなたはその中でも特別なんです。我侭だって判ってます。負担に思われるのも当然です。嫌がられたって理解できます。けどそれでもどうしたってあなたを求めずにいられない。鬼道の家に引き取られたその日から、俺の心はあなたを希求してやまないんです」
暖かな体にぎゅっとしがみ付く。
昔は身長差があって、良く抱き上げてもらっていた。
ほのかな香りは昔と変わらず、懐かしさに鼻0の奥がつんとなる。
他の誰にも見せれない心の柔らかな部分は、彼女の前でだけ無防備になった。
さらけ出した弱さは苦笑と共に受け止められ、触れる優しさに幾度安堵したことか。
こんな想いは迷惑にしかならない。
それでも、ずっと捨てれなかった。
兄弟として暮らしていた間は、ずっと気づかないふりが出来た。
二年前に捨てられたと思い込んでからも、憎しみの裏には強い想いがあった。
やっと再会して、解かれた手に絶望した。
何でもいいから縋るものが欲しいと、相手の都合も鑑みずに動くほどに。
「ごめんなさい・・・あなたを望んで、ごめんなさい」
ごめんなさいと繰り返す。
ただただ涙が零れ落ち、酷い奴だと自分を詰る。
仲間が斃れたというのに、試合に負けたというのに、それでもこの人がいるだけでどうしたって幸せなのだ。
迷惑だと拒絶されても、勘弁してくれと訴えられても、この人が良くて、この人じゃなきゃ駄目なのだ。
歓ぶ自分に嫌気がさす。
呆れるくらいに勝手すぎる。
嫌悪と羞恥で死にたくなるのに、この腕は絶対に放せない。
「俺はまだ子供です。だから我侭を言わせてください。俺の我侭を聞いてください。───お願いです、姉さん」
最低な言い草だ。
鬼道家の人間とは思えない甘ったれた態度に、同情を誘うような引きつった声。
縋りつく腕に力を篭めて、柔らかな体に頬を摺り寄せる。
「お前は馬鹿だ」
「・・・はい」
「俺が思ってたよりも、ずっと大馬鹿だよ有人」
「はい」
「その上甘ったれで泣き虫で、ちっとも成長していない。本当に手が掛かる、俺の『弟』」
抱きつくだけだった体が抱きしめられぎゅっと力を篭められた。
連日の暴挙も合わせ体が軋んで悲鳴を訴えているが、それでも拒絶しようと思えない。
むしろもっときつく抱きしめて欲しかった。
久し振りに感じる温もり。
大好きな人からの抱擁に、涙腺は決壊し益々勢いを増して涙が溢れる。
馬鹿だ馬鹿だと繰り返す声は優しくて、我を通したことを後悔できない。
「ごめんなさい、姉さん。あなたを自由にしてあげれなくてごめんなさい」
「もういい。お前は絶対いつか俺の手を取ったことを後悔する日が来るだろうけど、居られる間は傍にいてやる。お前が───俺以外の誰かを見つけられるまで、その間はお前の傍に居てやるよ」
俺の負けだ、と苦笑する人に、口の端が上がった。
それは永遠に俺の傍に居てくれるという意味ですか、と聞かなかったのは、最後の理性が働いたからに違いない。
倒れた仲間も、負けた試合も決して忘れはしない。
けれど今だけは。
取り戻した温もりに甘えれば、優しい手のひらが髪を梳いた。
久方ぶりの安息に、徐々に意識が闇へと落ちる。
懐かしい闇は、彼女に包まれて眠った幼いあの日と同じものだった。
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