×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
上がる呼吸を整える暇もなく走り続けた。
父に真相を知らされてから三日。
どうしても会いたくて居場所を探した人の手掛かりは、鬼道の息子としての権力を施行しても得れなかった。
学校を休んで心当たりのある場所は全て巡った。
まだ日本に居ることだけは保障してくれた父が黙認してくれるのを知りつつ学校をサボり、車や飛行機で彼女が居そうな場所を尋ねて回った。
寝食も満足に取らず、出来る限りのことをした。
三日間で四キロ痩せたがそんなのを気にする余裕もなかった。
探して探して探して探して、自分だけの力で探せないと理解した瞬間に、一番最初に足を運んだ場所に向かった。
雷門中の校門前に立つと、丁度授業が終わり下校しつつある生徒の間を駆け抜ける。
何事かと振り返る彼らの視線など気にならない。
張っていた意地は欠片も残っておらず、縋れるなら誰相手でも良かった。
上下する肩も、流れる汗もそのままに、ノック一つせず目の前のドアをこじ開ける。
勢い余って激しく音を立てたそれに唖然とする部員と、マネージャーの三人がこちらに視線を向けた。
ぐるりと視線でひと撫でして目的の人物が居ないと判るなり、床に膝を付いて瞼を閉じる。
やはり、ここにも居ない。
「・・・お兄ちゃん?どうしたの?」
「姉さんは・・・円堂守は、何処にいる?」
「円堂?あいつならこの三日学校に来てねぇぞ」
「家の都合だって言ってたから、お前も知ってるんじゃないのか?」
「何で鬼道が・・・ああ、そっか。そういや鬼道は円堂の『弟』なんだっけ?」
「馬鹿!音無の前でそれを言うなって言われてるだろ」
「あ、そうだった!今の無しな」
ざわりと騒ぎ出した部室で複雑そうな表情をする妹に目を細め、落胆のあまり床に手を付く。
彼らは何も知らされてない。
暢気な会話はこれが日常だと告げていて、得られぬ情報は胸を締め付けた。
まさかこのまま居なくなってしまうつもりなのだろうか。
仲間として戦った彼らに何も告げずに。
「そういや、一之瀬も三日前から休んでるよな?」
「あー・・・俺、メール貰ったけど、風邪引いたらしいぜ?」
「一之瀬君が風邪引くなんて珍しいからお見舞いに行くって言ったんだけど断られたのよね」
「うんうん。勝手に突撃しようかと思ったけど、良く考えたらあいつが日本で何処に住んでるか知らなかったんだよな、秋」
「私はてっきり土門君が知ってると思ってたんだけど」
「俺も秋なら知ってると思ってた。おじさんとおばさんはアメリカにまだ居るみたいだし、携帯は電源切られてて電話も繋がらないし、あいつ生きてんのかね?」
「縁起でもないこと言わないの!円堂君も一之瀬君も二人ともムードメーカーだから、いないと寂しいし早く部活に出てきてくれればいいんだけど」
緩く首を振った木野に、土門も苦笑した。
仲睦まじい様子から彼らが親しい間柄にあると察せれたが、そんな事実は今はどうでもいい。
心配そうに水を差し出してくれた妹の手を拒絶して、呼吸を整えた。
可能性は限りなく低い。
それでももう他に頼れる相手が居ない。
「・・・頼む、誰でもいい。姉さんの家を知っているやつが居たら、教えてくれ」
「!?ちょっと、お兄ちゃん!?」
「どうしたんだ、鬼道!?おい、止めろ」
「知らなくても、些細な情報でもいいんだ。───頼む」
床に額を押し付けるようにして頭を下げる。
土下座など生まれて初めてだが、形振り構う余裕はなかった。
何もしないまま失うのは、何も知らされないままに終わるのは、もう御免だった。
高いプライドを曲げてでも望むのは、ただ彼女の存在。
まさか帝国の鬼道がこんな真似をすると思ってもいなかった雷門の面々は必死に押し留めようとするが、体に触れる手を解いてまた頭を下げる。
「どうして、円堂の家を知りたがるんだ?」
「豪炎寺」
「円堂はこの間の試合後、お前と音無を残して帰った。だが、お前らは兄弟なんだよな?鬼道の家に帰れば会えるんじゃないのか?」
「姉さんはもう、鬼道の家に居場所はない」
「どういう意味だ。円堂はお前の姉だろう?どうして、居場所がないなんて」
「あの人は、自己紹介したとき何て言っていた?」
「そりゃ普通に、円堂守って言ってたけどよ。それがどうした?」
「それが全てだ。あの人は、鬼道家との養子縁組を解消している。そして、新たな養子候補として春奈を指名していたんだ」
「私を?」
「そうだ。自分が養子から抜けるからとお前を引き取るように告げ、また居なくなる気だ。今ここで逃がしたら、俺はもう二度とあの人に会えない。あの人は」
息を詰めた雷門サッカー部の様子に、絶望が脳裏を過ぎる。
項垂れて視線を下げれば、襟元を強引に掴まれ顔を上げさせられたと同時に左頬に衝撃が走った。
がつんとした痛みに抵抗すらしないでいると、赤褐色の瞳がこちらを射抜いている。
確か彼は、雷門サッカー部の前キャプテンの風丸。
特徴的な青緑の髪を一本で結い上げた端正な顔立ちを歪め、ぎらぎらとした目で射殺しそうな勢いでこちらを睨んでいた。
「ふざけるな!」
「止めろ、風丸!」
「まも姉が幸せに暮らしてると思っていたから、鬼道家で愛されてると信じたから、俺は何年も我慢していたんだ!あの人の話題がお前一色になっても、嬉しそうな顔をしてたから、だからあの人が『鬼道守』で居るのを許容していたのに・・・っ、それを、お前らは!」
「風丸、落ち着け!鬼道は何も知らなかったのは判るだろう!?」
「そんなの関係ない!あの人は、他に身寄りがないんだぞ!両親を事故で亡くし、祖父も、親戚も誰一人いなくて、身内と呼べる相手はもう誰も残っていないんだぞ!知らなかったのが言い訳になると思ってるのか!?何でお前ばっかり幸せになるんだ!何でまも姉から何もかも奪う!?お前にも音無にも家族は居るのに、どうしてまも姉から取り上げるんだ!」
「止めるんだ、風丸!円堂が一度でも二人を責めたか!?自分から奪ったと、音無や鬼道に一言でも言ったか?違うだろう?あいつはそんなこと一度でもしなかったはずだ。全てを選ぶのは円堂だ。円堂のためと鬼道を殴るのなら止めろ。そんなこと、あいつは望んでいない」
「うるさい、豪炎寺!!放せ、染岡ぁ!」
自分を押さえつける豪炎寺と染岡を振り切り再び鬼道へと手を伸ばしてきた風丸に、ぐっと奥歯を噛み締める。
抵抗など考え付かなかった。
殴られたかった。責められたかった。誰が相手でもいいから、糾弾して欲しかった。
姉の想いの上で胡坐を掻いていた自分を知り、それでも誰一人として鬼道に何も言わなかった。
あれほど姉を愛していた父は、貝のように口を噤み姉の名前を口にしようともしない。
気遣われたくなかった。いっそボロボロにして欲しかった。
それすら自分を満足させるためでしかないと、自己嫌悪に陥りながらも、風丸の行為に贖罪を促された気にすらなった。
二度とサッカーが出来ないくらい、痛めつけて欲しかった。
なのに。
「はーい、そこまで。喧嘩は止めような」
「円堂!」
「あっちゃー・・・こりゃ、腫れるね。鬼道家の坊ちゃんにやるなぁ、風丸」
「一之瀬!?」
ぱんぱんと手を鳴らす音に次いで、背後から聞こえた声にびくりと体を震わす。
雷門のサッカー部の面々はあからさまに安堵した表情を浮かべ、自分を殴ろうとしていた風丸は泣きそうに顔を歪めた。
緊張の糸が張り詰めていた空間は、暢気な口調により打ち破られた。
こつり、と近づく足音に身を強張らせ、───鬼道の姿などまるで目に入らないとばかりに素通りした背中に息を呑んだ。
まだ見慣れない短い髪にバンダナを巻いたその人は、黒縁の眼鏡を指の腹で押し上げると苦笑する。
仕方がないなと、懐かしさすら感じる笑顔でその人が触れたのは、自分ではなく風丸だった。
怒り心頭に発するとばかりに怒鳴っていた彼はそれだけで大人しくなり、ぐっと目の前の体に抱きつく。
ぽんぽんと手馴れた仕草で背中を叩きながら宥めると、くしゃくしゃになるまで髪を撫でる。
あっという間に落ち着いた風丸に胸を撫で下ろした雷門サッカー部の面々と違い、鬼道は目の前が真っ暗になった。
「ちろたは昔から案外と気が短いよなー。顔は綺麗で可愛いのに」
「可愛いとか綺麗とか言うな」
「気がつけば性格男前だ。昔は泣き虫ボンバーだったくせに」
「っ、子供の頃のことは言うな!」
「あーはいはい。ったく、手が掛かるなぁ、俺の幼馴染は」
親しげな会話から拾った内容は、全て初耳のものばかりだ。
姉に幼馴染と呼べる人が居るとしたら、それは自分も知る鬼道家関連の相手のみだと思い込んでいた。
だがどう見ても目の前の少年はサッカー部との試合が初顔合わせで、それまでは存在自体を知らされていなかった。
向けられる微笑みは優しく、触れる手は慈しみに溢れ、醸し出す雰囲気は極めて親しげだ。
天と地がひっくり返るような衝撃の中、ぽんと肩に手を置かれた。
にこにこと笑いながら自分に触れた少年は、アメリカ帰りの天才『一之瀬一哉』。
「大丈夫?氷か何か、持ってこようか?」
「俺は・・・」
「それとも、自分じゃない別の誰かを優先する守に、それどころじゃない?あはは、じゃあ今から慣れなきゃ駄目だね」
「お前は、何を」
「君はもう守とは何の関係もないんだから。音無っていう妹も居て、鬼道家に帰れば親御さんが居て、それで十分でしょ?守には守の世界があって、君には君の世界がある。それを邪魔する権利が、君にはあるの?」
「俺は、邪魔する気はなくて、ただ、話を」
「話・・・話、ねぇ。何の話をする気だったの?鬼道の家に戻れって?また、自分の姉として暮らせって、そうやって押し付けるの?」
「一之瀬先輩、止めてください!お兄ちゃんはまだ何も言ってません!」
「麗しい兄弟愛だな。さすが、血が繋がった本物だけあるよ」
「───何が言いたいんですか」
「別に、何も?ただ、血の繋がらない他人が兄貴の名前を呼ぶこともなくなって、良かったねってくらいかな」
「聞いて、いたんですか?」
顔を青褪めさせた妹に、一之瀬はにこりと微笑んだ。
その表情は確かに笑っている。笑っているが、底知れない闇がある。
怯えたように震える妹を抱きしめて、体を張って庇う。
すると益々一之瀬は笑みを深め、ぞくりと背筋を悪寒が走った。
「ほらほら、一哉もやめろ。ったく見ろよ、音無が怯えちゃってるじゃないか」
「だってさ、守ったら言われっぱなしなんだもん。一言くらい言い返してもいいでしょ」
「するかしないか決めるのは俺だ。お前らは余計なことをしなくていいの」
抱きついていた風丸を背中にくっつけたまま一之瀬の額を指先で弾いた姉は、微苦笑を浮かべるとこちらを向いた。
「悪いな、音無。こいつも悪気はないんだけど、いかんせん基礎の性格が悪いんだ。許してやってくれな」
「何、その言い草。俺は守ほど性格悪くないぞ」
「失礼な。俺も一哉には負けるぞ」
いやいやと額を付き合わせる彼らに、むっと唇を尖らせた風丸が無理やり距離を置かせた。
先ほどまでの偽りの笑顔ではなく、子供のように拗ねた態度で顔を逸らした一之瀬に肩を竦める。
「ホント、ごめんな音無。あんなアホの言うことなんて気にするなよ?」
「キャプテン、でも、私は」
「悪意があるかどうかくらい俺も判るよ。ずっと寂しくて悲しくて、だから混乱しちゃったんだよな?そんな泣きそうな顔するなよ。俺、女の子に泣かれるの弱いんだ」
「ごめんなさい、ごめ」
「あー、だから泣くなって。女の涙は武器になるけど、安売りするようなもんじゃないぞ?」
「音無が謝るのは卑怯だ。謝られたら守は許すしかなくなるじゃないか」
「一哉・・・いい加減にしろ。それ以上は、俺が許さない」
「・・・ごめん」
「俺に謝る必要はない。音無に謝れ」
「嫌だ」
「一哉!!」
「俺は謝らない!守が怒らないから俺が怒っただけだ!俺は悪いことはしてない!だから、絶対に謝らない!」
ぎっと瞳を吊り上げてこちらを睨んだ一之瀬は、すぐに踵を返して部室から出て行った。
その姿を呆然と見送る雷門の面々に、深々とため息を落とした人は頭を掻くと肩を竦める。
戸惑うように立ち竦む人間の中で唯一動いた豪炎寺は、彼女の肩を掴むと僅かに眉尻を下げて問いかけた。
「・・・いいのか?」
「少し頭を冷やさせた方がいいからな。時間がたったら迎えに行くよ。どうせ、何処に居るかは判ってる」
「違う。お前自身だ。お前は本当にいいのかと聞いてるんだ」
「意味がないことを聞くな?豪炎寺。判ってることしか言われてないのに、今更何を気にしてるんだ?お前にしても、風丸にしても、一哉にしても、ちょっと過保護だな」
「そうか。・・・俺は、お前が納得しているならいい」
「豪炎寺が一番聞き分けがいいな。よーしよし」
「やめろ。髪が乱れる」
「あはは、色気づいちゃって。どう思うよ、染岡。豪炎寺が軟派なこと言ってるぞー」
「どうして俺に振るんだよ」
「いや、何となく。染岡って硬派なイメージだし、軟弱なことを言うなってちゃぶ台返ししそうかなって」
「変な期待をすんな!大体部室にちゃぶ台はねぇし、俺は昭和のイメージか!?」
「いやぁ、俺の中の染岡はそんなんだし」
けらけらと笑う彼女に、部室内の空気が緩む。
雷門中のサッカー部の面々は和やかな雰囲気に徐々にペースを取り戻し、腕の中で固まっていた体が強張りを解く。
覚えている通りの姿に無意識に腕が伸びる。
だが、その手は、届く寸前に避けられた。
「それで、本当にどうしたんだ?俺には状況がさっぱりなんだけど」
「鬼道が、お前を探して尋ねて来たんだ。尋常じゃない様子で、いきなり土下座まで始めてよ。お前が何かしたんじゃないのか?」
「俺が?いや、俺は何もしてないぞ?」
「けど、鬼道の家の養子から外れたとか、また居なくなるとかなんとか言ってたぞ?」
「ああ、何だそのことか。態々それを聞きに来たのか、鬼道?」
「───っ、姉、さん?」
「姉さん?俺はもうお前の姉じゃない。聞いたんだろ?帝国との試合当日に鬼道家との養子関係は解消された」
「っ」
「変な奴だな、鬼道。俺たちは本物の兄弟じゃない。鬼道家という繋がりを失くした俺は、お前とはもう何の関係もない赤の他人だ。『鬼道守』はもう存在しない。ここに居るのは『円堂守』。それで、他に何が聞きたいんだっけ?養子を解消したのは教えたし、・・・居なくなるとか何とか?そりゃずっと中学に居続けるわけには行かないだろ。俺たちは成長するんだから。ノット中学浪人」
「そうじゃない、俺が言いたいのは」
「あのな、鬼道。俺とのサッカーは楽しかったか?」
「え?」
「影山は勝つためなら何でもしろと教えただろう?でも俺は昔からお前にそんなことは求めてなかった。お前は、この間の雷門とのサッカー、楽しかったか?」
「・・・楽し、かった。久し振りに全力で、前だけを見て、あなたとぶつかった。ボールを蹴るたびに胸がわくわくして、仲間とのパスで心が繋がる気がして、全力で戦った上での負けならば、俺はそれも認められる」
「そっか」
それは良かった、と微笑んだ人は酷く嬉しそうだった。
再び彼女に手を伸ばそうとして、やっぱり触れられなくて。
意図的によけられていると感じどくどくと心臓が早鐘を打つ。
「それならいい。やっぱ、サッカーは楽しいものじゃないとな。俺とお前は兄弟じゃくなったけど、サッカーをしてれば繋がってるさ。いい加減、俺も正義のヒーローごっこするのは恥ずかしいし、お互いそろそろ先に進もうぜ」
「・・・姉さん?」
「だーかーら、俺はもうお前の『姉』じゃねえっての。血の繋がらない姉貴の一人や二人いなくなったってお前には父さんがいる。妹も、支えてくれる仲間もいる。俺は俺の道を歩くから、お前もお前の道を行け。どっちにしろ一生一緒にいるなんて無理なんだし、姉離れするにはいい時期だろ」
にこにこと、掴みどころのない笑顔に、漸く気がついた。
彼女の笑顔は他人向けだ。
きっかりと引かれた一線は、踏み込んでくるなと言外に告げている。
「聞きたいことはそれだけか?なら、俺はもう行くな。一哉が俺を待ってる」
「おい、円堂!?お前この状態で放置する気か!?」
「これ以上放っておいたら本気で一哉がへそを曲げるからな。鬼道には音無が居るからいいだろ?・・・ほら、いい加減おんぶお化けはやめろ、風丸」
「嫌だ。俺も行く」
「お前も?おいおい、本気?」
「本気だ。お・れ・も・い・く!」
顔を押されてもしがみ付いて離れない相手に、妥協したのか肩を落とす。
諦めてそのまま風丸の鞄を壁山に取ってもらうと、腕を巻きつけたままの風丸を引き摺ってドアの前に立った。
「ってーわけで、一哉捜索隊行ってまいります。悪いけど、今日まで部活は休ませてな。キャプテンなのに、ごめんなー。風丸もこの通りだし、今日の部活は染岡の指示で練習してくれ。全国大会に向けて、基礎体力の訓練とフォーメーション確認を重点的に宜しく。それと染岡と豪炎寺はシュート練習に力を入れて、目金は目端が利くからシュート練習のときだけそいつらの技の成長度を書き留めておいてくれ。その間ディフェンス陣は残りのメンバー相手にグランドの半面使って防御練習。特に、土門を見習ってボールカットの強化な。木野と夏美は何でもいいから見てて気がついたことをノートにメモ。音無は・・・そうだな、兄貴が気になるだろうから、今日はお前も休め」
「・・・・・・」
「返事は?」
『は、はい!』
「それじゃ、皆本当に迷惑掛けてごめんな!しっかりと俺たちも特訓しとくから、許してくれ。明日には俺たちも復帰するし、練習も通常通りに戻すから、覚悟しておいてくれよ。ああ、そうだ鬼道。また一緒にサッカーやろうな!」
へらり、と気の抜けた笑顔で手を振ると、そのまま彼女は未練なく部室を後にした。
勢いで返事をしたが、どうすればいいのかと戸惑う雷門中のサッカー部に、ああ、迷惑を掛けていると頭のどこか冷静な部分が訴える。
去った姿に追い縋ることも出来なくて、立ち上がる気力すら持てなかった。
今のは俗に言う最後通牒というものなのだろうか。
それまで積み上げてきた関係はその程度でしかなく、あの日弟と呼んでくれたのは夢だったのだろうか。
苦しくて、悲しくて、悔しくて、それなのに全部自業自得だからと、納得しなくてはと理性は訴える。
何も知らない間は憎んでいて、全てを知った後に元の鞘に戻りたいと望むなど、厚かましいと叫んでる。
だから拒絶されても仕方ないと、捨てられても仕方ないと、自分じゃない自分が囁き、それでも納得出来ないと、心の奥が慟哭する。
「大丈夫か、鬼道?」
「・・・ああ」
「お兄ちゃん、顔色が悪いよ」
「そうか」
「保健室に連れて行ってやった方がいいんじゃねぇ?」
「そうだな。おい、肩を貸してやるから掴まれ」
「・・・・・・」
気を使ってくれているのか、周囲から優しい言葉が降ってくる。
言われるがままに豪炎寺に肩を借りて、体を持ち上げようとした瞬間全身の力が抜けた。
妹の叫び声や、慌てたように触れる手に、ぐっと瞼を閉じる。
「そうか・・・。俺はもう、一人なのか」
黒く染まる視界で漸く理解した現実は、涙も零せないほど呆気ないものだった。
兄弟という関係に依存した挙句、誰よりも執着した絆は崩壊していて、掌に掬い上げたのはその名残ともいえる残骸のみ。
薄れ行く意識の中で見つけた真実に、早く思考も及ばぬ闇へ落ちてしまえと強制的に記憶を閉じた。
父に真相を知らされてから三日。
どうしても会いたくて居場所を探した人の手掛かりは、鬼道の息子としての権力を施行しても得れなかった。
学校を休んで心当たりのある場所は全て巡った。
まだ日本に居ることだけは保障してくれた父が黙認してくれるのを知りつつ学校をサボり、車や飛行機で彼女が居そうな場所を尋ねて回った。
寝食も満足に取らず、出来る限りのことをした。
三日間で四キロ痩せたがそんなのを気にする余裕もなかった。
探して探して探して探して、自分だけの力で探せないと理解した瞬間に、一番最初に足を運んだ場所に向かった。
雷門中の校門前に立つと、丁度授業が終わり下校しつつある生徒の間を駆け抜ける。
何事かと振り返る彼らの視線など気にならない。
張っていた意地は欠片も残っておらず、縋れるなら誰相手でも良かった。
上下する肩も、流れる汗もそのままに、ノック一つせず目の前のドアをこじ開ける。
勢い余って激しく音を立てたそれに唖然とする部員と、マネージャーの三人がこちらに視線を向けた。
ぐるりと視線でひと撫でして目的の人物が居ないと判るなり、床に膝を付いて瞼を閉じる。
やはり、ここにも居ない。
「・・・お兄ちゃん?どうしたの?」
「姉さんは・・・円堂守は、何処にいる?」
「円堂?あいつならこの三日学校に来てねぇぞ」
「家の都合だって言ってたから、お前も知ってるんじゃないのか?」
「何で鬼道が・・・ああ、そっか。そういや鬼道は円堂の『弟』なんだっけ?」
「馬鹿!音無の前でそれを言うなって言われてるだろ」
「あ、そうだった!今の無しな」
ざわりと騒ぎ出した部室で複雑そうな表情をする妹に目を細め、落胆のあまり床に手を付く。
彼らは何も知らされてない。
暢気な会話はこれが日常だと告げていて、得られぬ情報は胸を締め付けた。
まさかこのまま居なくなってしまうつもりなのだろうか。
仲間として戦った彼らに何も告げずに。
「そういや、一之瀬も三日前から休んでるよな?」
「あー・・・俺、メール貰ったけど、風邪引いたらしいぜ?」
「一之瀬君が風邪引くなんて珍しいからお見舞いに行くって言ったんだけど断られたのよね」
「うんうん。勝手に突撃しようかと思ったけど、良く考えたらあいつが日本で何処に住んでるか知らなかったんだよな、秋」
「私はてっきり土門君が知ってると思ってたんだけど」
「俺も秋なら知ってると思ってた。おじさんとおばさんはアメリカにまだ居るみたいだし、携帯は電源切られてて電話も繋がらないし、あいつ生きてんのかね?」
「縁起でもないこと言わないの!円堂君も一之瀬君も二人ともムードメーカーだから、いないと寂しいし早く部活に出てきてくれればいいんだけど」
緩く首を振った木野に、土門も苦笑した。
仲睦まじい様子から彼らが親しい間柄にあると察せれたが、そんな事実は今はどうでもいい。
心配そうに水を差し出してくれた妹の手を拒絶して、呼吸を整えた。
可能性は限りなく低い。
それでももう他に頼れる相手が居ない。
「・・・頼む、誰でもいい。姉さんの家を知っているやつが居たら、教えてくれ」
「!?ちょっと、お兄ちゃん!?」
「どうしたんだ、鬼道!?おい、止めろ」
「知らなくても、些細な情報でもいいんだ。───頼む」
床に額を押し付けるようにして頭を下げる。
土下座など生まれて初めてだが、形振り構う余裕はなかった。
何もしないまま失うのは、何も知らされないままに終わるのは、もう御免だった。
高いプライドを曲げてでも望むのは、ただ彼女の存在。
まさか帝国の鬼道がこんな真似をすると思ってもいなかった雷門の面々は必死に押し留めようとするが、体に触れる手を解いてまた頭を下げる。
「どうして、円堂の家を知りたがるんだ?」
「豪炎寺」
「円堂はこの間の試合後、お前と音無を残して帰った。だが、お前らは兄弟なんだよな?鬼道の家に帰れば会えるんじゃないのか?」
「姉さんはもう、鬼道の家に居場所はない」
「どういう意味だ。円堂はお前の姉だろう?どうして、居場所がないなんて」
「あの人は、自己紹介したとき何て言っていた?」
「そりゃ普通に、円堂守って言ってたけどよ。それがどうした?」
「それが全てだ。あの人は、鬼道家との養子縁組を解消している。そして、新たな養子候補として春奈を指名していたんだ」
「私を?」
「そうだ。自分が養子から抜けるからとお前を引き取るように告げ、また居なくなる気だ。今ここで逃がしたら、俺はもう二度とあの人に会えない。あの人は」
息を詰めた雷門サッカー部の様子に、絶望が脳裏を過ぎる。
項垂れて視線を下げれば、襟元を強引に掴まれ顔を上げさせられたと同時に左頬に衝撃が走った。
がつんとした痛みに抵抗すらしないでいると、赤褐色の瞳がこちらを射抜いている。
確か彼は、雷門サッカー部の前キャプテンの風丸。
特徴的な青緑の髪を一本で結い上げた端正な顔立ちを歪め、ぎらぎらとした目で射殺しそうな勢いでこちらを睨んでいた。
「ふざけるな!」
「止めろ、風丸!」
「まも姉が幸せに暮らしてると思っていたから、鬼道家で愛されてると信じたから、俺は何年も我慢していたんだ!あの人の話題がお前一色になっても、嬉しそうな顔をしてたから、だからあの人が『鬼道守』で居るのを許容していたのに・・・っ、それを、お前らは!」
「風丸、落ち着け!鬼道は何も知らなかったのは判るだろう!?」
「そんなの関係ない!あの人は、他に身寄りがないんだぞ!両親を事故で亡くし、祖父も、親戚も誰一人いなくて、身内と呼べる相手はもう誰も残っていないんだぞ!知らなかったのが言い訳になると思ってるのか!?何でお前ばっかり幸せになるんだ!何でまも姉から何もかも奪う!?お前にも音無にも家族は居るのに、どうしてまも姉から取り上げるんだ!」
「止めるんだ、風丸!円堂が一度でも二人を責めたか!?自分から奪ったと、音無や鬼道に一言でも言ったか?違うだろう?あいつはそんなこと一度でもしなかったはずだ。全てを選ぶのは円堂だ。円堂のためと鬼道を殴るのなら止めろ。そんなこと、あいつは望んでいない」
「うるさい、豪炎寺!!放せ、染岡ぁ!」
自分を押さえつける豪炎寺と染岡を振り切り再び鬼道へと手を伸ばしてきた風丸に、ぐっと奥歯を噛み締める。
抵抗など考え付かなかった。
殴られたかった。責められたかった。誰が相手でもいいから、糾弾して欲しかった。
姉の想いの上で胡坐を掻いていた自分を知り、それでも誰一人として鬼道に何も言わなかった。
あれほど姉を愛していた父は、貝のように口を噤み姉の名前を口にしようともしない。
気遣われたくなかった。いっそボロボロにして欲しかった。
それすら自分を満足させるためでしかないと、自己嫌悪に陥りながらも、風丸の行為に贖罪を促された気にすらなった。
二度とサッカーが出来ないくらい、痛めつけて欲しかった。
なのに。
「はーい、そこまで。喧嘩は止めような」
「円堂!」
「あっちゃー・・・こりゃ、腫れるね。鬼道家の坊ちゃんにやるなぁ、風丸」
「一之瀬!?」
ぱんぱんと手を鳴らす音に次いで、背後から聞こえた声にびくりと体を震わす。
雷門のサッカー部の面々はあからさまに安堵した表情を浮かべ、自分を殴ろうとしていた風丸は泣きそうに顔を歪めた。
緊張の糸が張り詰めていた空間は、暢気な口調により打ち破られた。
こつり、と近づく足音に身を強張らせ、───鬼道の姿などまるで目に入らないとばかりに素通りした背中に息を呑んだ。
まだ見慣れない短い髪にバンダナを巻いたその人は、黒縁の眼鏡を指の腹で押し上げると苦笑する。
仕方がないなと、懐かしさすら感じる笑顔でその人が触れたのは、自分ではなく風丸だった。
怒り心頭に発するとばかりに怒鳴っていた彼はそれだけで大人しくなり、ぐっと目の前の体に抱きつく。
ぽんぽんと手馴れた仕草で背中を叩きながら宥めると、くしゃくしゃになるまで髪を撫でる。
あっという間に落ち着いた風丸に胸を撫で下ろした雷門サッカー部の面々と違い、鬼道は目の前が真っ暗になった。
「ちろたは昔から案外と気が短いよなー。顔は綺麗で可愛いのに」
「可愛いとか綺麗とか言うな」
「気がつけば性格男前だ。昔は泣き虫ボンバーだったくせに」
「っ、子供の頃のことは言うな!」
「あーはいはい。ったく、手が掛かるなぁ、俺の幼馴染は」
親しげな会話から拾った内容は、全て初耳のものばかりだ。
姉に幼馴染と呼べる人が居るとしたら、それは自分も知る鬼道家関連の相手のみだと思い込んでいた。
だがどう見ても目の前の少年はサッカー部との試合が初顔合わせで、それまでは存在自体を知らされていなかった。
向けられる微笑みは優しく、触れる手は慈しみに溢れ、醸し出す雰囲気は極めて親しげだ。
天と地がひっくり返るような衝撃の中、ぽんと肩に手を置かれた。
にこにこと笑いながら自分に触れた少年は、アメリカ帰りの天才『一之瀬一哉』。
「大丈夫?氷か何か、持ってこようか?」
「俺は・・・」
「それとも、自分じゃない別の誰かを優先する守に、それどころじゃない?あはは、じゃあ今から慣れなきゃ駄目だね」
「お前は、何を」
「君はもう守とは何の関係もないんだから。音無っていう妹も居て、鬼道家に帰れば親御さんが居て、それで十分でしょ?守には守の世界があって、君には君の世界がある。それを邪魔する権利が、君にはあるの?」
「俺は、邪魔する気はなくて、ただ、話を」
「話・・・話、ねぇ。何の話をする気だったの?鬼道の家に戻れって?また、自分の姉として暮らせって、そうやって押し付けるの?」
「一之瀬先輩、止めてください!お兄ちゃんはまだ何も言ってません!」
「麗しい兄弟愛だな。さすが、血が繋がった本物だけあるよ」
「───何が言いたいんですか」
「別に、何も?ただ、血の繋がらない他人が兄貴の名前を呼ぶこともなくなって、良かったねってくらいかな」
「聞いて、いたんですか?」
顔を青褪めさせた妹に、一之瀬はにこりと微笑んだ。
その表情は確かに笑っている。笑っているが、底知れない闇がある。
怯えたように震える妹を抱きしめて、体を張って庇う。
すると益々一之瀬は笑みを深め、ぞくりと背筋を悪寒が走った。
「ほらほら、一哉もやめろ。ったく見ろよ、音無が怯えちゃってるじゃないか」
「だってさ、守ったら言われっぱなしなんだもん。一言くらい言い返してもいいでしょ」
「するかしないか決めるのは俺だ。お前らは余計なことをしなくていいの」
抱きついていた風丸を背中にくっつけたまま一之瀬の額を指先で弾いた姉は、微苦笑を浮かべるとこちらを向いた。
「悪いな、音無。こいつも悪気はないんだけど、いかんせん基礎の性格が悪いんだ。許してやってくれな」
「何、その言い草。俺は守ほど性格悪くないぞ」
「失礼な。俺も一哉には負けるぞ」
いやいやと額を付き合わせる彼らに、むっと唇を尖らせた風丸が無理やり距離を置かせた。
先ほどまでの偽りの笑顔ではなく、子供のように拗ねた態度で顔を逸らした一之瀬に肩を竦める。
「ホント、ごめんな音無。あんなアホの言うことなんて気にするなよ?」
「キャプテン、でも、私は」
「悪意があるかどうかくらい俺も判るよ。ずっと寂しくて悲しくて、だから混乱しちゃったんだよな?そんな泣きそうな顔するなよ。俺、女の子に泣かれるの弱いんだ」
「ごめんなさい、ごめ」
「あー、だから泣くなって。女の涙は武器になるけど、安売りするようなもんじゃないぞ?」
「音無が謝るのは卑怯だ。謝られたら守は許すしかなくなるじゃないか」
「一哉・・・いい加減にしろ。それ以上は、俺が許さない」
「・・・ごめん」
「俺に謝る必要はない。音無に謝れ」
「嫌だ」
「一哉!!」
「俺は謝らない!守が怒らないから俺が怒っただけだ!俺は悪いことはしてない!だから、絶対に謝らない!」
ぎっと瞳を吊り上げてこちらを睨んだ一之瀬は、すぐに踵を返して部室から出て行った。
その姿を呆然と見送る雷門の面々に、深々とため息を落とした人は頭を掻くと肩を竦める。
戸惑うように立ち竦む人間の中で唯一動いた豪炎寺は、彼女の肩を掴むと僅かに眉尻を下げて問いかけた。
「・・・いいのか?」
「少し頭を冷やさせた方がいいからな。時間がたったら迎えに行くよ。どうせ、何処に居るかは判ってる」
「違う。お前自身だ。お前は本当にいいのかと聞いてるんだ」
「意味がないことを聞くな?豪炎寺。判ってることしか言われてないのに、今更何を気にしてるんだ?お前にしても、風丸にしても、一哉にしても、ちょっと過保護だな」
「そうか。・・・俺は、お前が納得しているならいい」
「豪炎寺が一番聞き分けがいいな。よーしよし」
「やめろ。髪が乱れる」
「あはは、色気づいちゃって。どう思うよ、染岡。豪炎寺が軟派なこと言ってるぞー」
「どうして俺に振るんだよ」
「いや、何となく。染岡って硬派なイメージだし、軟弱なことを言うなってちゃぶ台返ししそうかなって」
「変な期待をすんな!大体部室にちゃぶ台はねぇし、俺は昭和のイメージか!?」
「いやぁ、俺の中の染岡はそんなんだし」
けらけらと笑う彼女に、部室内の空気が緩む。
雷門中のサッカー部の面々は和やかな雰囲気に徐々にペースを取り戻し、腕の中で固まっていた体が強張りを解く。
覚えている通りの姿に無意識に腕が伸びる。
だが、その手は、届く寸前に避けられた。
「それで、本当にどうしたんだ?俺には状況がさっぱりなんだけど」
「鬼道が、お前を探して尋ねて来たんだ。尋常じゃない様子で、いきなり土下座まで始めてよ。お前が何かしたんじゃないのか?」
「俺が?いや、俺は何もしてないぞ?」
「けど、鬼道の家の養子から外れたとか、また居なくなるとかなんとか言ってたぞ?」
「ああ、何だそのことか。態々それを聞きに来たのか、鬼道?」
「───っ、姉、さん?」
「姉さん?俺はもうお前の姉じゃない。聞いたんだろ?帝国との試合当日に鬼道家との養子関係は解消された」
「っ」
「変な奴だな、鬼道。俺たちは本物の兄弟じゃない。鬼道家という繋がりを失くした俺は、お前とはもう何の関係もない赤の他人だ。『鬼道守』はもう存在しない。ここに居るのは『円堂守』。それで、他に何が聞きたいんだっけ?養子を解消したのは教えたし、・・・居なくなるとか何とか?そりゃずっと中学に居続けるわけには行かないだろ。俺たちは成長するんだから。ノット中学浪人」
「そうじゃない、俺が言いたいのは」
「あのな、鬼道。俺とのサッカーは楽しかったか?」
「え?」
「影山は勝つためなら何でもしろと教えただろう?でも俺は昔からお前にそんなことは求めてなかった。お前は、この間の雷門とのサッカー、楽しかったか?」
「・・・楽し、かった。久し振りに全力で、前だけを見て、あなたとぶつかった。ボールを蹴るたびに胸がわくわくして、仲間とのパスで心が繋がる気がして、全力で戦った上での負けならば、俺はそれも認められる」
「そっか」
それは良かった、と微笑んだ人は酷く嬉しそうだった。
再び彼女に手を伸ばそうとして、やっぱり触れられなくて。
意図的によけられていると感じどくどくと心臓が早鐘を打つ。
「それならいい。やっぱ、サッカーは楽しいものじゃないとな。俺とお前は兄弟じゃくなったけど、サッカーをしてれば繋がってるさ。いい加減、俺も正義のヒーローごっこするのは恥ずかしいし、お互いそろそろ先に進もうぜ」
「・・・姉さん?」
「だーかーら、俺はもうお前の『姉』じゃねえっての。血の繋がらない姉貴の一人や二人いなくなったってお前には父さんがいる。妹も、支えてくれる仲間もいる。俺は俺の道を歩くから、お前もお前の道を行け。どっちにしろ一生一緒にいるなんて無理なんだし、姉離れするにはいい時期だろ」
にこにこと、掴みどころのない笑顔に、漸く気がついた。
彼女の笑顔は他人向けだ。
きっかりと引かれた一線は、踏み込んでくるなと言外に告げている。
「聞きたいことはそれだけか?なら、俺はもう行くな。一哉が俺を待ってる」
「おい、円堂!?お前この状態で放置する気か!?」
「これ以上放っておいたら本気で一哉がへそを曲げるからな。鬼道には音無が居るからいいだろ?・・・ほら、いい加減おんぶお化けはやめろ、風丸」
「嫌だ。俺も行く」
「お前も?おいおい、本気?」
「本気だ。お・れ・も・い・く!」
顔を押されてもしがみ付いて離れない相手に、妥協したのか肩を落とす。
諦めてそのまま風丸の鞄を壁山に取ってもらうと、腕を巻きつけたままの風丸を引き摺ってドアの前に立った。
「ってーわけで、一哉捜索隊行ってまいります。悪いけど、今日まで部活は休ませてな。キャプテンなのに、ごめんなー。風丸もこの通りだし、今日の部活は染岡の指示で練習してくれ。全国大会に向けて、基礎体力の訓練とフォーメーション確認を重点的に宜しく。それと染岡と豪炎寺はシュート練習に力を入れて、目金は目端が利くからシュート練習のときだけそいつらの技の成長度を書き留めておいてくれ。その間ディフェンス陣は残りのメンバー相手にグランドの半面使って防御練習。特に、土門を見習ってボールカットの強化な。木野と夏美は何でもいいから見てて気がついたことをノートにメモ。音無は・・・そうだな、兄貴が気になるだろうから、今日はお前も休め」
「・・・・・・」
「返事は?」
『は、はい!』
「それじゃ、皆本当に迷惑掛けてごめんな!しっかりと俺たちも特訓しとくから、許してくれ。明日には俺たちも復帰するし、練習も通常通りに戻すから、覚悟しておいてくれよ。ああ、そうだ鬼道。また一緒にサッカーやろうな!」
へらり、と気の抜けた笑顔で手を振ると、そのまま彼女は未練なく部室を後にした。
勢いで返事をしたが、どうすればいいのかと戸惑う雷門中のサッカー部に、ああ、迷惑を掛けていると頭のどこか冷静な部分が訴える。
去った姿に追い縋ることも出来なくて、立ち上がる気力すら持てなかった。
今のは俗に言う最後通牒というものなのだろうか。
それまで積み上げてきた関係はその程度でしかなく、あの日弟と呼んでくれたのは夢だったのだろうか。
苦しくて、悲しくて、悔しくて、それなのに全部自業自得だからと、納得しなくてはと理性は訴える。
何も知らない間は憎んでいて、全てを知った後に元の鞘に戻りたいと望むなど、厚かましいと叫んでる。
だから拒絶されても仕方ないと、捨てられても仕方ないと、自分じゃない自分が囁き、それでも納得出来ないと、心の奥が慟哭する。
「大丈夫か、鬼道?」
「・・・ああ」
「お兄ちゃん、顔色が悪いよ」
「そうか」
「保健室に連れて行ってやった方がいいんじゃねぇ?」
「そうだな。おい、肩を貸してやるから掴まれ」
「・・・・・・」
気を使ってくれているのか、周囲から優しい言葉が降ってくる。
言われるがままに豪炎寺に肩を借りて、体を持ち上げようとした瞬間全身の力が抜けた。
妹の叫び声や、慌てたように触れる手に、ぐっと瞼を閉じる。
「そうか・・・。俺はもう、一人なのか」
黒く染まる視界で漸く理解した現実は、涙も零せないほど呆気ないものだった。
兄弟という関係に依存した挙句、誰よりも執着した絆は崩壊していて、掌に掬い上げたのはその名残ともいえる残骸のみ。
薄れ行く意識の中で見つけた真実に、早く思考も及ばぬ闇へ落ちてしまえと強制的に記憶を閉じた。
PR
ボールを持っていつも通りに基礎の練習をしようと人目につかない場所を探してうろついていた飛鷹は、目に入る意外な光景に心底驚いた。
木漏れ日の中で何かを必死に編む円堂。
何故人目につかない場所でやっているのか知れないが、それだけなら飛鷹もそう驚かなかった。
問題は彼女のすぐ隣で胎児のように背中を丸めて眠る不動だ。
いつも生意気な顔で挑戦的な目をしている印象が強い彼なのに、円堂の隣で眠る彼は寄せられていることが多い眉間の皺も解け随分と柔らかい表情をしていた。
まるで、そう、まるで絶対的に信頼できる相手の近くで眠る、安心しきった子供のようだ。
自分を傷つけるものはいない、だから警戒する必要もない、とばかりに健やかな寝息を立てていた。
呆然とボールを持ったまま間抜けな格好で立ち竦んでいると、前触れ無しに声を掛けられぱちりと意識を取り戻す。
こちらを振り向きもしないで手元だけを見ているのに、いつから気づかれていたのだろうか。
驚愕している飛鷹に、ゆっくりと顔を上げる円堂はいつも通りに笑っている。
そしてとんとんと不動とは反対側の場所を指で叩いた。
隣に来い、と言うことだろうか。
少しだけ躊躇い、そっと足音を立てぬように近寄る。
僅かでも音を立てれば眠っている不動が目を覚ましそうで、つい細心の注意を払った。
「また基礎練習か?精が出るな」
「そんなことないです。・・・俺は、他の奴らほど技術がねえから、きっちりと練習しねえと」
「そっか。うん、その調子で無理せず適当に頑張れ」
「適当・・・ですか?」
「そう。適当って言ってもいい加減に手抜きしろって意味じゃないぞ。自分の状況に相応しい量だけこなせって意味だ。求める以上をすれば体に負荷が掛かり過ぎる。努力は尊いがやり過ぎで体を壊したら元も子もないからな」
「はい」
噛み砕いて説明してくれた彼女に頷くと、にかっと笑ってまた視線を手元に戻した。
何となくつられて流れるような動きに見惚れていると、何本もの糸を器用に操りながらどんどんと柄が出来ていく。
「ミサンガですか」
「そ。黒とグレーをベースに赤がアクセント。白は柄を作るのに使ってるんだ。あ、何かわかる?」
「髑髏・・・っすか?」
「正解!いやぁ、良かった。久し振りに作るからちょっと自信がなかったんだよな」
「十分上手に見えますけど」
「お世辞でも嬉しいよ、サンキュ。一応プレゼント用だからな」
「・・・・・・」
髑髏柄のそれをプレゼントと聞き、僅かに首を傾げる。
スタイリッシュなデザインのそれは格好いいが、彼女の弟や豪炎寺にはイメージが違う気がした。
だからと言って他に仲のいい綱海や、一年生たちとも違う気がする。
マネージャーたちを思い浮かべたが、女性がするにはデザインが男性向けだ。
自分が知らない親しい相手にでも上げるのだろうか、と、つきりと痛む胸に眉を顰めると、白糸と黒糸を交互に編んだ彼女は器用に新しい柄を追加する。
しかし完成したそれは、柄ではなく文字だった。
「A・H?イニシャルですか?」
「うん。不動明王だからA・H。スカルはイメージじゃない?」
「いや・・・似合ってると思います」
言葉に嘘はない。
プレゼント相手を考えると、確かにそれは不動のイメージにピッタリだ。
甘さのないキツイ印象でスマートで無駄がない。だが何故か惹き付けられる。
まるで彼そのもので、だからこそ飛鷹は何とも言えない気分になった。
このミサンガは彼にプレゼントされるために作られた、不動のためだけの一品ものだ。
つまりこれを作ってる間はきっとずっと不動のことだけを考えていて、その間だけでも彼女の意識を独占できたということだろう。
彼女に特別な意味で好意を持っている飛鷹からすると、とても複雑で仕方ない。
他人を気に掛ける円堂の懐の大きさを好んでいるのに、相反して自分だけを見て欲しいと望みそうになる。
そんなこと絶対に言えっこないのに、何も言わなくても気に掛けてもらえる不動が羨ましい。
「ですが普通にプレゼントしても不動は絶対につけないと思います」
「だな。だから勝手につけてやる。しかも固結び。ふはははは、目覚めてから驚くがいい」
「・・・そんなに結んだら解けないんじゃ」
「ミサンガは普通解かないだろ。自然に切れるまで身に着けなきゃ意味ないじゃん」
「でも、鋏で切られたら」
「いいのいいの。それならそれで別にいい。俺がやりたいからやるだけだしな」
けど、もし不動が彼女のプレゼントをずさんな扱いをするなら、円堂が許したとしても自分は許せない。
彼女がどんな顔でこれを作ったか見てしまったから、だから絶対に赦せないだろう。
暴力沙汰は禁止されているが、その瞬間を見たら自分がどう出るか判らない。
黙り込んだ飛鷹に違和感を感じたのか、きょとんと瞬きをしてこちらを見た。
罪悪感からその視線を真っ直ぐに受け止められず俯くと、ぽんと肩を叩かれる。
「実は俺、確信しちゃってるんだ」
「何をです?」
「不動は絶対にこれを捨てないってね。案外に律儀だからな」
「・・・」
何も言わなかったのに全て見抜かれていて、かっと顔が赤くなった。
円堂守という人は、不思議だ。
口にしない思いを理解し、そして何気なく掬い上げる。
見透かされた想いが恥ずかしくて黙り込むと、彼女は自身の体で死角になっていた部分から紙袋を取り出し笑った。
「糸はまだまだあるんだ、飛鷹のも作らせてよ」
「俺の分を?」
「おう!飛鷹は何色が好きだ?お前は硬派なイメージがあるし、シンプルなのも似合いそうだよな。私服のときのイメージで黒地に一本の赤いラインとかいな。お前はどう思う?」
「俺は・・・円堂さんが選んでくれるなら何でも」
「何でもいいってのが一番難しいんだぞ。何選んでも絶対につけろよ」
「・・・はい」
唇を尖らせて訴える円堂が可愛くて、つい笑ってしまう。
瞳を丸めて飛鷹を見詰めた彼女は益々笑みを深めた。
「飛鷹って」
「何ですか?」
「笑うと幼くなるのな」
「───っ」
唐突な言葉に、意味を理解すると同時に顔が赤く染まった。
口元を覆い俯いて顔を隠そうにも、耳まで赤いから隠し切れない。
きっちりとセットしている髪に手を差し込まれくしゃくしゃにされたが怒るに怒れない。
照れくさくて恥ずかしくて、けれどやっぱり嬉しくて。
「練習が終る前までに作っとくから、ちゃんとつけろよ」
俯いていたから、にいっと意地悪く笑ったその表情に気づくことが出来なかった。
その後さらりと手渡されたミサンガが、ピンクと赤のハート飛び交うもので凍りつく。
折角彼女が作ってくれたのだから、とか、約束したし、とか考えながら動けないでいると、盛大に笑った彼女はもう一本別のミサンガを差し出してくれた。
自分の髪と良く似た色がベースのミサンガにはサッカーボールとイニシャルが入れられていて、普通のデザインにほっと息を吐く。
ちなみ最初に差し出されたミサンガもお守りとして櫛に結びつけたのだが、誰にも知られたくなくて予備のものに結ばれたそれは、ひっそりとトランクに隠された。
身に着けるミサンガに願うのは勿論サッカーのこと。
そして隠したミサンガには何も願わずに覚悟を結んだ。
いつかこのミサンガが切れた時、沢山溜まっているはずの覚悟で秘めた想いを伝えようと。
木漏れ日の中で何かを必死に編む円堂。
何故人目につかない場所でやっているのか知れないが、それだけなら飛鷹もそう驚かなかった。
問題は彼女のすぐ隣で胎児のように背中を丸めて眠る不動だ。
いつも生意気な顔で挑戦的な目をしている印象が強い彼なのに、円堂の隣で眠る彼は寄せられていることが多い眉間の皺も解け随分と柔らかい表情をしていた。
まるで、そう、まるで絶対的に信頼できる相手の近くで眠る、安心しきった子供のようだ。
自分を傷つけるものはいない、だから警戒する必要もない、とばかりに健やかな寝息を立てていた。
呆然とボールを持ったまま間抜けな格好で立ち竦んでいると、前触れ無しに声を掛けられぱちりと意識を取り戻す。
こちらを振り向きもしないで手元だけを見ているのに、いつから気づかれていたのだろうか。
驚愕している飛鷹に、ゆっくりと顔を上げる円堂はいつも通りに笑っている。
そしてとんとんと不動とは反対側の場所を指で叩いた。
隣に来い、と言うことだろうか。
少しだけ躊躇い、そっと足音を立てぬように近寄る。
僅かでも音を立てれば眠っている不動が目を覚ましそうで、つい細心の注意を払った。
「また基礎練習か?精が出るな」
「そんなことないです。・・・俺は、他の奴らほど技術がねえから、きっちりと練習しねえと」
「そっか。うん、その調子で無理せず適当に頑張れ」
「適当・・・ですか?」
「そう。適当って言ってもいい加減に手抜きしろって意味じゃないぞ。自分の状況に相応しい量だけこなせって意味だ。求める以上をすれば体に負荷が掛かり過ぎる。努力は尊いがやり過ぎで体を壊したら元も子もないからな」
「はい」
噛み砕いて説明してくれた彼女に頷くと、にかっと笑ってまた視線を手元に戻した。
何となくつられて流れるような動きに見惚れていると、何本もの糸を器用に操りながらどんどんと柄が出来ていく。
「ミサンガですか」
「そ。黒とグレーをベースに赤がアクセント。白は柄を作るのに使ってるんだ。あ、何かわかる?」
「髑髏・・・っすか?」
「正解!いやぁ、良かった。久し振りに作るからちょっと自信がなかったんだよな」
「十分上手に見えますけど」
「お世辞でも嬉しいよ、サンキュ。一応プレゼント用だからな」
「・・・・・・」
髑髏柄のそれをプレゼントと聞き、僅かに首を傾げる。
スタイリッシュなデザインのそれは格好いいが、彼女の弟や豪炎寺にはイメージが違う気がした。
だからと言って他に仲のいい綱海や、一年生たちとも違う気がする。
マネージャーたちを思い浮かべたが、女性がするにはデザインが男性向けだ。
自分が知らない親しい相手にでも上げるのだろうか、と、つきりと痛む胸に眉を顰めると、白糸と黒糸を交互に編んだ彼女は器用に新しい柄を追加する。
しかし完成したそれは、柄ではなく文字だった。
「A・H?イニシャルですか?」
「うん。不動明王だからA・H。スカルはイメージじゃない?」
「いや・・・似合ってると思います」
言葉に嘘はない。
プレゼント相手を考えると、確かにそれは不動のイメージにピッタリだ。
甘さのないキツイ印象でスマートで無駄がない。だが何故か惹き付けられる。
まるで彼そのもので、だからこそ飛鷹は何とも言えない気分になった。
このミサンガは彼にプレゼントされるために作られた、不動のためだけの一品ものだ。
つまりこれを作ってる間はきっとずっと不動のことだけを考えていて、その間だけでも彼女の意識を独占できたということだろう。
彼女に特別な意味で好意を持っている飛鷹からすると、とても複雑で仕方ない。
他人を気に掛ける円堂の懐の大きさを好んでいるのに、相反して自分だけを見て欲しいと望みそうになる。
そんなこと絶対に言えっこないのに、何も言わなくても気に掛けてもらえる不動が羨ましい。
「ですが普通にプレゼントしても不動は絶対につけないと思います」
「だな。だから勝手につけてやる。しかも固結び。ふはははは、目覚めてから驚くがいい」
「・・・そんなに結んだら解けないんじゃ」
「ミサンガは普通解かないだろ。自然に切れるまで身に着けなきゃ意味ないじゃん」
「でも、鋏で切られたら」
「いいのいいの。それならそれで別にいい。俺がやりたいからやるだけだしな」
けど、もし不動が彼女のプレゼントをずさんな扱いをするなら、円堂が許したとしても自分は許せない。
彼女がどんな顔でこれを作ったか見てしまったから、だから絶対に赦せないだろう。
暴力沙汰は禁止されているが、その瞬間を見たら自分がどう出るか判らない。
黙り込んだ飛鷹に違和感を感じたのか、きょとんと瞬きをしてこちらを見た。
罪悪感からその視線を真っ直ぐに受け止められず俯くと、ぽんと肩を叩かれる。
「実は俺、確信しちゃってるんだ」
「何をです?」
「不動は絶対にこれを捨てないってね。案外に律儀だからな」
「・・・」
何も言わなかったのに全て見抜かれていて、かっと顔が赤くなった。
円堂守という人は、不思議だ。
口にしない思いを理解し、そして何気なく掬い上げる。
見透かされた想いが恥ずかしくて黙り込むと、彼女は自身の体で死角になっていた部分から紙袋を取り出し笑った。
「糸はまだまだあるんだ、飛鷹のも作らせてよ」
「俺の分を?」
「おう!飛鷹は何色が好きだ?お前は硬派なイメージがあるし、シンプルなのも似合いそうだよな。私服のときのイメージで黒地に一本の赤いラインとかいな。お前はどう思う?」
「俺は・・・円堂さんが選んでくれるなら何でも」
「何でもいいってのが一番難しいんだぞ。何選んでも絶対につけろよ」
「・・・はい」
唇を尖らせて訴える円堂が可愛くて、つい笑ってしまう。
瞳を丸めて飛鷹を見詰めた彼女は益々笑みを深めた。
「飛鷹って」
「何ですか?」
「笑うと幼くなるのな」
「───っ」
唐突な言葉に、意味を理解すると同時に顔が赤く染まった。
口元を覆い俯いて顔を隠そうにも、耳まで赤いから隠し切れない。
きっちりとセットしている髪に手を差し込まれくしゃくしゃにされたが怒るに怒れない。
照れくさくて恥ずかしくて、けれどやっぱり嬉しくて。
「練習が終る前までに作っとくから、ちゃんとつけろよ」
俯いていたから、にいっと意地悪く笑ったその表情に気づくことが出来なかった。
その後さらりと手渡されたミサンガが、ピンクと赤のハート飛び交うもので凍りつく。
折角彼女が作ってくれたのだから、とか、約束したし、とか考えながら動けないでいると、盛大に笑った彼女はもう一本別のミサンガを差し出してくれた。
自分の髪と良く似た色がベースのミサンガにはサッカーボールとイニシャルが入れられていて、普通のデザインにほっと息を吐く。
ちなみ最初に差し出されたミサンガもお守りとして櫛に結びつけたのだが、誰にも知られたくなくて予備のものに結ばれたそれは、ひっそりとトランクに隠された。
身に着けるミサンガに願うのは勿論サッカーのこと。
そして隠したミサンガには何も願わずに覚悟を結んだ。
いつかこのミサンガが切れた時、沢山溜まっているはずの覚悟で秘めた想いを伝えようと。
「今日、雷門中と試合をしました」
淡々と報告する息子に目をやり、鬼道はゆっくりと瞼を閉じた。
いつかこんな日が来ると思っていた。
「父さんは姉さんの全てをご存知だったんですね?」
「・・・ああ。お前は何処までを聞いた?」
「二年前事故に合い、治療のためにアメリカに渡ったと。その際、事故の影響で二度とサッカーは出来ないと宣告されたと」
そうか、と呟き手を組んで瞼を閉じる。
最愛の娘である守が交通事故で入院したのは二年前。
そして彼女が昏睡状態なのを有人に伝えない方がいいと助言をくれたのは守の恩師である影山で、それに従ったのは有人がどれだけ守に依存していたか知っているからだ。
勉学においても運動においても、何においても守は優れた娘だった。
一回目にしたことは何でも覚え、鬼道家の娘として恥ずかしくない気品と教養を持ち、いつだって冷静で賢い子供だった。
何においても一通りこなした守は、中でも飛びぬけたサッカーの才能を持っていた。
九歳で日本とイタリアを行き来し、最年少でジュニアユースのメンバーに選ばれるなど、性別の壁も特例で乗り越えられたほどの天才プレイヤーだった。
ミッドフィルダーとしてイタリアで活躍する様子を、有人と一緒に応援に行った回数も数知れない。
フィールドを駆ける守を見るたびに、有人は守への尊敬を深め、誰よりも何よりも慕うようになっていた。
仲の良い兄弟は見ていて微笑ましく、息子も娘も愛しくて仕方ない。
思えばあの頃ほど幸せだった日々はなかった。
異変があったのは守が十二歳の時だった。
体調管理の一環として行われた検査で、守の胸部X線検査の結果に異変が見つかったのだ。
医者はすぐさま精密検査を勧め判った病状に目の前が暗くなった。
後天性の、詳しい要因も未だに解析されていない難病指定されている病気で、十年生存率も考えたくない数値のそれは、今のところ有効な治療法は心臓移植くらいだと言われている。
守の病状は天が味方したのか早期発見だったが、それでも絶望は容赦なく襲った。
すなわち、サッカーを二度としてはいけないという宣告だ。
天才でありながら努力を惜しまなかった守の体にはすでに微細ながら症状が現れており、このまま続ければただではすまないと申告された。
父としてサッカーはしないで欲しいと願った鬼道に、守は黙って俯いた。
それまで何を頼んでもすぐに『是』と頷いた守の遠まわしの拒否に、それでも鬼道は譲れなかった。
愛しい娘に、生きていて欲しかったのだ。
手術をすれば胸に傷が残る。一生痕が残るだろうが、勿論最高の医者を用意して最高のオペを受けさせてやるつもりだった。
日に日に口数が少なくなる守が唯一笑顔を見せるのは有人と一緒に居るときだけで、それ以外は部屋に篭るようになった。
どうしてか有人は守の帰国は帝国のサッカー部に入部するためと思い込んでいて、夕食で嬉しそうに守に話を振るたびに幾度叫びそうになっただろうか。
止めろと怒鳴りつける衝動を抑え切れたのは、『守本人』が有人に何も言わないでくれと願ったからだ。
せめて自分の口から伝えたいとそう言ったから、刻一刻と過ぎていく日々を確認しつつ鬼道も口を噤んだ。
そして更なる不幸は襲ってきた。
通いなれた病院での検診の帰り道、守は交通事故にあった。
病院の表で待機していた鬼道家の迎えの車を無視して何故か裏門から出て行った守は、交通違反をしていた車に撥ねられた。
衝撃により体中が傷だらけになり、心臓への負荷も凄まじいものだった。
今でも瞼を閉じるだけで思い出せる恐怖は、守を撥ねた車の運転手を刑務所に入れても薄まらない。
日本の病院で集中治療をさせて落ち着いたところで、更なる高度な治療をと影山に助言されアメリカの心臓移植も行う病院へと転院させた。
守の意識は一月も戻らず、アメリカで意識を取り戻したと聞いたときは、取るものも取らずに渡米したほどだ。
日本の病院で一週間付ききりで眺めた寝顔ではなく、横になったままでも瞳を開けた少女の姿に、身も世もなく泣きじゃくった。
尊い命が失われずに済んだことに神様に感謝した。
例え彼女が死にたかったのだとしても、感謝せずに居られなかった。
鬼道にとって、守は愛してやまない一人娘なのだから。
仕事の合間を縫い、一週間に一度は病院に顔を出した。
オーバーワークだと部下に諌められても全てを振り切り、少女の傍についていた。
守はほとんど眠って過ごしていたが、寝顔を見るだけで構わなかった。
上下する胸に何度安心しただろう。繰り返し喜びを噛み締めて───空いている時間に彼女が何を考えているかなど、想像もしていなかった。
『私を、鬼道家の養子から外してください』
『───守?』
『私は鬼道家の娘として役目を果たせません。父さんも聞いたでしょう?十年後、私が生きている確率は極めて低い。それに病院の近くで事故にあったからすぐにオペを受けれたし、先生が最良の治療をしてくれたけれど、この背中の傷は消えません』
『何を言ってるんだ、守。そんなもの気にしなくていい。私は傷跡などで娘を捨てたりしないし、お前は十年後も生きている』
『・・・・・・』
真っ直ぐにこちらを見る瞳に、鬼道は戦慄した。
あれほど光り輝いていた栗色の瞳は、暗く濁り何も映していない。
出来の悪いガラス玉のように、ただものを反射しているだけだ。
守はいつだって笑っている子供だった。
聡明で大人顔負けに肝が据わってどんな場面でも諦めずに物事に立ち向かう、誰にでも自慢できる素晴らしい娘だ。
美人ではないが愛嬌があって可愛らしい、そんな子なのに。
感情の一切を抜け落としたようにピクリとも表情を動かさない少女は、一体誰だろうか。
その瞳に希望はなく、深い絶望だけが横たわる。
どうしてこうなってしまったのかが判らずに動揺する鬼道の前で、守はゆっくりと瞼を閉ざす。
再び規則的に聞こえた寝息に、頭は混乱した。
始めは一時の気の迷いだと思い込んでいた発言は、幾度も繰り返される内に本気なのだと否応無しに納得させられた。
生気のない声で訴える守は、心臓の手術すら拒み、ただ自分の世界に閉じこもった。
サッカーと隔絶した世界に置いたと思い込んでいたアメリカで、守をサッカーに誘う少年が居たのを知ったのもその時期だった。
少年の名前は『一之瀬一哉』。何でもアメリカで有名な天才サッカー少年だったが、事故で二度とサッカーは出来ないと宣告された子供らしい。
守と酷似する状況に眉根を寄せて、彼がリハビリを受ける施設へ怒鳴り込んだのは、今では懐かしい思い出になる。
二度と守をサッカーに誘うなと怒鳴った自分に、彼は不思議そうに瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
『どうして、サッカーに誘ったらいけないの?鬼道守はイタリアジュニアユース代表の天才サッカープレイヤーじゃないか』
『守は二度とサッカーは出来ないと医者に宣告されている!リハビリをすれば続けられる君とは違うんだ!』
『俺も同じだよ』
『何?』
『俺も二度とサッカー出来ないって先生に言われた。でも、諦められなかった。努力したら絶対にもう一度プレイ出来る。そう信じているから、俺はリハビリをしてるんだ』
『・・・君と守は根本的に違う。あの子には心臓に疾患があって』
『だから、どうしておじさんがサッカーを出来ないって断言するの?鬼道守はサッカーを諦めたの?本人がもうやりたくないって、そう言ったの?』
『それは・・・』
『俺、毎日サッカーしようって誘うけど、いっつも断られるんだ。それっておじさんの所為?』
『何故、私の所為だと』
『あの子、俺がサッカーボール持っていくと一瞬だけ嬉しそうにして、次に泣きそうに顔を歪めるんだ。そうして感情を全部押し殺して、もうサッカーはしないって、二度と来るなって諦めたように目を閉じる。まるで世界そのものを拒絶して自分の殻の中に閉じこもってるみたいだ』
『君に何が判る!?あの子はサッカーを続ければこのままでは確実に死んでしまうんだぞ!?』
『今も死んでるのと同じだよ。少なくとも俺はそうだった。毎日毎日サッカーボールを抱いて泣いた。サッカーをしてない俺は、生きてないのと同じだ。───俺ね、あの子がサッカーしてるのテレビで見たよ。凄かった。天才ってこういう子を言うんだと思った。攻守に優れるミッドフィルダーで、天性の柔軟性を持っていて、どんな場面でも決して諦めないで、きらきらと光ってた。不屈のポラリスの呼び名どおりに』
憧れていると衒いもなく続けた少年は、だから信じてるんだと笑った。
『不屈のポラリス』。それは守がジュニアユースで走っていた頃の二つ名だ。
仲間の誰が諦めても絶対に勝利を諦めずに輝き続け、空に君臨する北極星のように惑う仲間の導となり続けた。
どん底に居ても仲間を自身の存在で奮い立たせた、自慢の娘の呼び名だった。
折れない心で勝利へと進む姿は、どれほど誇らしかったろう。
年齢も性別もハンデとせず、自分より大きな体の相手にも一歩も引かずに勝ちをもぎ取る守は、フィールドの上で輝いていた。
何故忘れていたのだろう。
愛しい娘はサッカーをしている最中が一番楽しそうだったのを。
一之瀬の言葉に心を揺さぶられた鬼道は、次に守の見舞いに来るときに、息子の勇姿を映したDVDを持参した。
それを見た守が再びサッカーを志すのであれば、今度こそ邪魔をしなと心に決めて。
結果的にサッカーをもう一度始めた彼女は、再び前を向いて歩き出した。
親として、子供の命を縮める選択をした自分が正しいのか、鬼道には未だ結論が出ない。
悩んで迷ってそれでも守の邪魔をしないのは、やはりサッカーを愛してやまない少女がその瞬間だけでも本当の笑顔を浮かべていたからだろう。
賢い守は自分を待ち受けている未来を正確に予想している。
そして、こちらが道を提示する前に選んでしまった。
器用でそれでいてこの上なく不器用な配慮は、鬼道の胸を締め付ける。
だがもう彼女にどうやって手を伸ばせばいいか判らず、せめて思うとおりに生かしてやりたかった。
ゆるゆると腹に溜まった思いを吐息として吐き出すと、自分を見詰める息子に視線をやる。
気がつけば普段からつけられるようになっていたゴーグル越しの瞳は見えないが、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
姉が居なければ年齢よりも落ち着いた少年だったが、こと守に関しては喜怒哀楽の激しい子供だったから。
だから守は最後の最後で本当にサッカーを出来ないと宣告された理由を隠した。
誰よりも弟を可愛がり愛しんだ少女は、全てを口にしないと選択した。
娘ならそうすると判っていたが、それだけに鬼道はやりきれない思いで一杯になる。
何もかもを抱え込み、それでいて再び笑っている少女は、彼女が抱え込んだ想いは、一体何処へ消えていくのか。
こんなときでも甘えさせてやれない自分は、だからこそ拒絶されたのだろうか。
目の前で泣きそうに眉を顰める息子をじっと見詰め、鬼道は彼にとって残酷な事実を口にした。
「有人」
「はい」
「厳密な意味では、もうお前に姉は居ない」
「・・・え?」
「彼女は自分を『円堂守』と名乗ったのだろう?それは、そのままの意味だ。『鬼道守』との養子縁組は今日を持って解消した」
「そんな・・・。何故ですか、父さん!!姉さんは誰よりも優秀な人です。今日共にプレイして確信しました。二度と出来ないと宣告されたとは思えないサッカーの腕も、人を惹き付けるカリスマ性も、常に冷静な判断力も、状況を見抜く目も何もかも備わっている。あの人ほど鬼道の跡取りに相応しい人は居ないでしょう!?それなのに、どうして・・・っ?」
「鬼道の跡取りはお前だ、有人。私はもう決めた。翻ることはないからお前も今から覚悟を決めておきなさい」
「父さん!!」
「そしてお前に朗報だ。お前の妹の『春奈』を養子として迎える準備を整えた。あとはお前の妹の了承と、確認だけだ」
「・・・何故ですか?俺はまだ約束を果たしていません。フットボールフロンティアで三年間優勝する条件の三分の一しか満たしていません」
「それが『鬼道守』の最後の願いだからだ。再びフィールドに立つことを決めた守はお前に負けない自分を知っていた」
いや、正確に言えばそれも本当ではない。
自分が勝つことで有人に何かを教えたかったのだろう。
きっとそれは鬼道が見逃してしまっている『何か』で、彼女じゃなければ気づかせれない『何か』。
血は繋がっていないが、二人は互いを本当に大事にしていた『兄弟』だった。
「私はお前の妹を娘にする。それが、私が愛する娘の願いだから。それをお前の望みだと笑い、娘を失う父への購いと思い込んだ我が子の願いだから」
「・・・違う。俺は、ずっと、姉さんと、春奈と三人で、ただ一緒に暮らしたかっただけなのに。家族として、今度こそ一緒に・・・俺は、姉さんは」
「守は近い内にまた留学するつもりだ。そうすれば今度こそ、お前とは二度と顔を合わせることはないだろう。あの子に日本は狭すぎる」
まるで死期を悟った猫のように、その姿を隠すつもりの少女は生きることを諦めている。
サッカーに執着し望んだ癖に、病状を理解している故に生命を放棄した。
口では医者になるために勉強したいと言っているが、それが何処まで本心か鬼道は見抜けない。
あの子が感情を制御出来なかったのは入院していた初期の状態の頃だけで、大多数の大人と接している鬼道ですら笑顔の奥に隠れた想いは触れさせてくれない。
ならばせめて、残りの時間を思うままに生きさせてやりたい。
日本は狭すぎると口にしたのは嘘ではなく、羽が生えたように軽やかな少女は世界を舞台とした方が似つかわしい。
傷だらけでぼろぼろの羽でも羽ばたきを諦めずに行くのなら、せめてその先で祝福を。
何もしてやれない親として、娘を愛する父として、尽くしてくれた我が子にしてやれる最後の手段。
選んだ道が間違っているとしても、もう自分は止められない。
笑って歩き出した少女は、鬼道では止められない。
日本へ帰国して学校に通いたいと願い出た守は、有人が居る帝国学園ではなく、自分が幼い頃暮らしていた稲妻町にある雷門中学へ編入した。
あの子の学力であれば日本のどの進学校でもトップで入学できたはずなのに、あえてその場所を選んだ。
アメリカで守を変えた少年、一之瀬に日本へ来てくれるよう頼んだのは鬼道だ。
いつ発作が起こってもおかしくない守のお目付け役を快く引き受けてくれた少年は、今もあの時と同じように少女の傍に居続ける。
断られても断られても幾度も守をサッカーに誘い続けた自分の咎だと、命を削り続ける守から離れようとしない。
避けられぬ別れを予感しながら、花火のように短い時間でも輝こうと足掻く娘に恋した子供は、気がつけば男の目をしていた。
以前ならそんな目で娘を見る人間を同居させたりしなかったろうが、今は違う。
何をおいてでも娘の命を優先すると確信出来るから、『一之瀬一哉』を選んだ。
彼の将来を思えば良策ではないが、選択は間違ってなかったと信じている。
目の前で深い混乱に陥る息子に、全てを話す日は来るのだろうか。
守が留学すれば、有人は何も知らずに二度とあの子に関われなくなる。
それは果たしてこの子にとって本当にいい事か、鬼道には判らない。
もし守の現状を理解すれば、誰よりも傷を負うのは全身で彼女を慕う有人だろう。
遠い異国を死地と定めた守は、その命が尽きる瞬間も、否、尽きた後も何も教えぬ気だ。
飛びぬけて秀でた頭脳を誇る彼女だからこそ出来る手段だが、何も知らされないのは幸せなのだろうか。
傷つく権利すら与えて貰えぬ子供は生涯を捧げてでも姉を探そうとするだろう。
周到な守の所在を奇跡的に突き止めることがあれば、彼は今度こそ壊れてしまうのではないか。
声すら上げずに知らぬ内に切られていた縁に慟哭する子供は、自らに触れる手を本能で拒絶している。
もう二年も悩み続けているのに、いい道が何か、鬼道は見つけることは出来ない。
淡々と報告する息子に目をやり、鬼道はゆっくりと瞼を閉じた。
いつかこんな日が来ると思っていた。
「父さんは姉さんの全てをご存知だったんですね?」
「・・・ああ。お前は何処までを聞いた?」
「二年前事故に合い、治療のためにアメリカに渡ったと。その際、事故の影響で二度とサッカーは出来ないと宣告されたと」
そうか、と呟き手を組んで瞼を閉じる。
最愛の娘である守が交通事故で入院したのは二年前。
そして彼女が昏睡状態なのを有人に伝えない方がいいと助言をくれたのは守の恩師である影山で、それに従ったのは有人がどれだけ守に依存していたか知っているからだ。
勉学においても運動においても、何においても守は優れた娘だった。
一回目にしたことは何でも覚え、鬼道家の娘として恥ずかしくない気品と教養を持ち、いつだって冷静で賢い子供だった。
何においても一通りこなした守は、中でも飛びぬけたサッカーの才能を持っていた。
九歳で日本とイタリアを行き来し、最年少でジュニアユースのメンバーに選ばれるなど、性別の壁も特例で乗り越えられたほどの天才プレイヤーだった。
ミッドフィルダーとしてイタリアで活躍する様子を、有人と一緒に応援に行った回数も数知れない。
フィールドを駆ける守を見るたびに、有人は守への尊敬を深め、誰よりも何よりも慕うようになっていた。
仲の良い兄弟は見ていて微笑ましく、息子も娘も愛しくて仕方ない。
思えばあの頃ほど幸せだった日々はなかった。
異変があったのは守が十二歳の時だった。
体調管理の一環として行われた検査で、守の胸部X線検査の結果に異変が見つかったのだ。
医者はすぐさま精密検査を勧め判った病状に目の前が暗くなった。
後天性の、詳しい要因も未だに解析されていない難病指定されている病気で、十年生存率も考えたくない数値のそれは、今のところ有効な治療法は心臓移植くらいだと言われている。
守の病状は天が味方したのか早期発見だったが、それでも絶望は容赦なく襲った。
すなわち、サッカーを二度としてはいけないという宣告だ。
天才でありながら努力を惜しまなかった守の体にはすでに微細ながら症状が現れており、このまま続ければただではすまないと申告された。
父としてサッカーはしないで欲しいと願った鬼道に、守は黙って俯いた。
それまで何を頼んでもすぐに『是』と頷いた守の遠まわしの拒否に、それでも鬼道は譲れなかった。
愛しい娘に、生きていて欲しかったのだ。
手術をすれば胸に傷が残る。一生痕が残るだろうが、勿論最高の医者を用意して最高のオペを受けさせてやるつもりだった。
日に日に口数が少なくなる守が唯一笑顔を見せるのは有人と一緒に居るときだけで、それ以外は部屋に篭るようになった。
どうしてか有人は守の帰国は帝国のサッカー部に入部するためと思い込んでいて、夕食で嬉しそうに守に話を振るたびに幾度叫びそうになっただろうか。
止めろと怒鳴りつける衝動を抑え切れたのは、『守本人』が有人に何も言わないでくれと願ったからだ。
せめて自分の口から伝えたいとそう言ったから、刻一刻と過ぎていく日々を確認しつつ鬼道も口を噤んだ。
そして更なる不幸は襲ってきた。
通いなれた病院での検診の帰り道、守は交通事故にあった。
病院の表で待機していた鬼道家の迎えの車を無視して何故か裏門から出て行った守は、交通違反をしていた車に撥ねられた。
衝撃により体中が傷だらけになり、心臓への負荷も凄まじいものだった。
今でも瞼を閉じるだけで思い出せる恐怖は、守を撥ねた車の運転手を刑務所に入れても薄まらない。
日本の病院で集中治療をさせて落ち着いたところで、更なる高度な治療をと影山に助言されアメリカの心臓移植も行う病院へと転院させた。
守の意識は一月も戻らず、アメリカで意識を取り戻したと聞いたときは、取るものも取らずに渡米したほどだ。
日本の病院で一週間付ききりで眺めた寝顔ではなく、横になったままでも瞳を開けた少女の姿に、身も世もなく泣きじゃくった。
尊い命が失われずに済んだことに神様に感謝した。
例え彼女が死にたかったのだとしても、感謝せずに居られなかった。
鬼道にとって、守は愛してやまない一人娘なのだから。
仕事の合間を縫い、一週間に一度は病院に顔を出した。
オーバーワークだと部下に諌められても全てを振り切り、少女の傍についていた。
守はほとんど眠って過ごしていたが、寝顔を見るだけで構わなかった。
上下する胸に何度安心しただろう。繰り返し喜びを噛み締めて───空いている時間に彼女が何を考えているかなど、想像もしていなかった。
『私を、鬼道家の養子から外してください』
『───守?』
『私は鬼道家の娘として役目を果たせません。父さんも聞いたでしょう?十年後、私が生きている確率は極めて低い。それに病院の近くで事故にあったからすぐにオペを受けれたし、先生が最良の治療をしてくれたけれど、この背中の傷は消えません』
『何を言ってるんだ、守。そんなもの気にしなくていい。私は傷跡などで娘を捨てたりしないし、お前は十年後も生きている』
『・・・・・・』
真っ直ぐにこちらを見る瞳に、鬼道は戦慄した。
あれほど光り輝いていた栗色の瞳は、暗く濁り何も映していない。
出来の悪いガラス玉のように、ただものを反射しているだけだ。
守はいつだって笑っている子供だった。
聡明で大人顔負けに肝が据わってどんな場面でも諦めずに物事に立ち向かう、誰にでも自慢できる素晴らしい娘だ。
美人ではないが愛嬌があって可愛らしい、そんな子なのに。
感情の一切を抜け落としたようにピクリとも表情を動かさない少女は、一体誰だろうか。
その瞳に希望はなく、深い絶望だけが横たわる。
どうしてこうなってしまったのかが判らずに動揺する鬼道の前で、守はゆっくりと瞼を閉ざす。
再び規則的に聞こえた寝息に、頭は混乱した。
始めは一時の気の迷いだと思い込んでいた発言は、幾度も繰り返される内に本気なのだと否応無しに納得させられた。
生気のない声で訴える守は、心臓の手術すら拒み、ただ自分の世界に閉じこもった。
サッカーと隔絶した世界に置いたと思い込んでいたアメリカで、守をサッカーに誘う少年が居たのを知ったのもその時期だった。
少年の名前は『一之瀬一哉』。何でもアメリカで有名な天才サッカー少年だったが、事故で二度とサッカーは出来ないと宣告された子供らしい。
守と酷似する状況に眉根を寄せて、彼がリハビリを受ける施設へ怒鳴り込んだのは、今では懐かしい思い出になる。
二度と守をサッカーに誘うなと怒鳴った自分に、彼は不思議そうに瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
『どうして、サッカーに誘ったらいけないの?鬼道守はイタリアジュニアユース代表の天才サッカープレイヤーじゃないか』
『守は二度とサッカーは出来ないと医者に宣告されている!リハビリをすれば続けられる君とは違うんだ!』
『俺も同じだよ』
『何?』
『俺も二度とサッカー出来ないって先生に言われた。でも、諦められなかった。努力したら絶対にもう一度プレイ出来る。そう信じているから、俺はリハビリをしてるんだ』
『・・・君と守は根本的に違う。あの子には心臓に疾患があって』
『だから、どうしておじさんがサッカーを出来ないって断言するの?鬼道守はサッカーを諦めたの?本人がもうやりたくないって、そう言ったの?』
『それは・・・』
『俺、毎日サッカーしようって誘うけど、いっつも断られるんだ。それっておじさんの所為?』
『何故、私の所為だと』
『あの子、俺がサッカーボール持っていくと一瞬だけ嬉しそうにして、次に泣きそうに顔を歪めるんだ。そうして感情を全部押し殺して、もうサッカーはしないって、二度と来るなって諦めたように目を閉じる。まるで世界そのものを拒絶して自分の殻の中に閉じこもってるみたいだ』
『君に何が判る!?あの子はサッカーを続ければこのままでは確実に死んでしまうんだぞ!?』
『今も死んでるのと同じだよ。少なくとも俺はそうだった。毎日毎日サッカーボールを抱いて泣いた。サッカーをしてない俺は、生きてないのと同じだ。───俺ね、あの子がサッカーしてるのテレビで見たよ。凄かった。天才ってこういう子を言うんだと思った。攻守に優れるミッドフィルダーで、天性の柔軟性を持っていて、どんな場面でも決して諦めないで、きらきらと光ってた。不屈のポラリスの呼び名どおりに』
憧れていると衒いもなく続けた少年は、だから信じてるんだと笑った。
『不屈のポラリス』。それは守がジュニアユースで走っていた頃の二つ名だ。
仲間の誰が諦めても絶対に勝利を諦めずに輝き続け、空に君臨する北極星のように惑う仲間の導となり続けた。
どん底に居ても仲間を自身の存在で奮い立たせた、自慢の娘の呼び名だった。
折れない心で勝利へと進む姿は、どれほど誇らしかったろう。
年齢も性別もハンデとせず、自分より大きな体の相手にも一歩も引かずに勝ちをもぎ取る守は、フィールドの上で輝いていた。
何故忘れていたのだろう。
愛しい娘はサッカーをしている最中が一番楽しそうだったのを。
一之瀬の言葉に心を揺さぶられた鬼道は、次に守の見舞いに来るときに、息子の勇姿を映したDVDを持参した。
それを見た守が再びサッカーを志すのであれば、今度こそ邪魔をしなと心に決めて。
結果的にサッカーをもう一度始めた彼女は、再び前を向いて歩き出した。
親として、子供の命を縮める選択をした自分が正しいのか、鬼道には未だ結論が出ない。
悩んで迷ってそれでも守の邪魔をしないのは、やはりサッカーを愛してやまない少女がその瞬間だけでも本当の笑顔を浮かべていたからだろう。
賢い守は自分を待ち受けている未来を正確に予想している。
そして、こちらが道を提示する前に選んでしまった。
器用でそれでいてこの上なく不器用な配慮は、鬼道の胸を締め付ける。
だがもう彼女にどうやって手を伸ばせばいいか判らず、せめて思うとおりに生かしてやりたかった。
ゆるゆると腹に溜まった思いを吐息として吐き出すと、自分を見詰める息子に視線をやる。
気がつけば普段からつけられるようになっていたゴーグル越しの瞳は見えないが、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
姉が居なければ年齢よりも落ち着いた少年だったが、こと守に関しては喜怒哀楽の激しい子供だったから。
だから守は最後の最後で本当にサッカーを出来ないと宣告された理由を隠した。
誰よりも弟を可愛がり愛しんだ少女は、全てを口にしないと選択した。
娘ならそうすると判っていたが、それだけに鬼道はやりきれない思いで一杯になる。
何もかもを抱え込み、それでいて再び笑っている少女は、彼女が抱え込んだ想いは、一体何処へ消えていくのか。
こんなときでも甘えさせてやれない自分は、だからこそ拒絶されたのだろうか。
目の前で泣きそうに眉を顰める息子をじっと見詰め、鬼道は彼にとって残酷な事実を口にした。
「有人」
「はい」
「厳密な意味では、もうお前に姉は居ない」
「・・・え?」
「彼女は自分を『円堂守』と名乗ったのだろう?それは、そのままの意味だ。『鬼道守』との養子縁組は今日を持って解消した」
「そんな・・・。何故ですか、父さん!!姉さんは誰よりも優秀な人です。今日共にプレイして確信しました。二度と出来ないと宣告されたとは思えないサッカーの腕も、人を惹き付けるカリスマ性も、常に冷静な判断力も、状況を見抜く目も何もかも備わっている。あの人ほど鬼道の跡取りに相応しい人は居ないでしょう!?それなのに、どうして・・・っ?」
「鬼道の跡取りはお前だ、有人。私はもう決めた。翻ることはないからお前も今から覚悟を決めておきなさい」
「父さん!!」
「そしてお前に朗報だ。お前の妹の『春奈』を養子として迎える準備を整えた。あとはお前の妹の了承と、確認だけだ」
「・・・何故ですか?俺はまだ約束を果たしていません。フットボールフロンティアで三年間優勝する条件の三分の一しか満たしていません」
「それが『鬼道守』の最後の願いだからだ。再びフィールドに立つことを決めた守はお前に負けない自分を知っていた」
いや、正確に言えばそれも本当ではない。
自分が勝つことで有人に何かを教えたかったのだろう。
きっとそれは鬼道が見逃してしまっている『何か』で、彼女じゃなければ気づかせれない『何か』。
血は繋がっていないが、二人は互いを本当に大事にしていた『兄弟』だった。
「私はお前の妹を娘にする。それが、私が愛する娘の願いだから。それをお前の望みだと笑い、娘を失う父への購いと思い込んだ我が子の願いだから」
「・・・違う。俺は、ずっと、姉さんと、春奈と三人で、ただ一緒に暮らしたかっただけなのに。家族として、今度こそ一緒に・・・俺は、姉さんは」
「守は近い内にまた留学するつもりだ。そうすれば今度こそ、お前とは二度と顔を合わせることはないだろう。あの子に日本は狭すぎる」
まるで死期を悟った猫のように、その姿を隠すつもりの少女は生きることを諦めている。
サッカーに執着し望んだ癖に、病状を理解している故に生命を放棄した。
口では医者になるために勉強したいと言っているが、それが何処まで本心か鬼道は見抜けない。
あの子が感情を制御出来なかったのは入院していた初期の状態の頃だけで、大多数の大人と接している鬼道ですら笑顔の奥に隠れた想いは触れさせてくれない。
ならばせめて、残りの時間を思うままに生きさせてやりたい。
日本は狭すぎると口にしたのは嘘ではなく、羽が生えたように軽やかな少女は世界を舞台とした方が似つかわしい。
傷だらけでぼろぼろの羽でも羽ばたきを諦めずに行くのなら、せめてその先で祝福を。
何もしてやれない親として、娘を愛する父として、尽くしてくれた我が子にしてやれる最後の手段。
選んだ道が間違っているとしても、もう自分は止められない。
笑って歩き出した少女は、鬼道では止められない。
日本へ帰国して学校に通いたいと願い出た守は、有人が居る帝国学園ではなく、自分が幼い頃暮らしていた稲妻町にある雷門中学へ編入した。
あの子の学力であれば日本のどの進学校でもトップで入学できたはずなのに、あえてその場所を選んだ。
アメリカで守を変えた少年、一之瀬に日本へ来てくれるよう頼んだのは鬼道だ。
いつ発作が起こってもおかしくない守のお目付け役を快く引き受けてくれた少年は、今もあの時と同じように少女の傍に居続ける。
断られても断られても幾度も守をサッカーに誘い続けた自分の咎だと、命を削り続ける守から離れようとしない。
避けられぬ別れを予感しながら、花火のように短い時間でも輝こうと足掻く娘に恋した子供は、気がつけば男の目をしていた。
以前ならそんな目で娘を見る人間を同居させたりしなかったろうが、今は違う。
何をおいてでも娘の命を優先すると確信出来るから、『一之瀬一哉』を選んだ。
彼の将来を思えば良策ではないが、選択は間違ってなかったと信じている。
目の前で深い混乱に陥る息子に、全てを話す日は来るのだろうか。
守が留学すれば、有人は何も知らずに二度とあの子に関われなくなる。
それは果たしてこの子にとって本当にいい事か、鬼道には判らない。
もし守の現状を理解すれば、誰よりも傷を負うのは全身で彼女を慕う有人だろう。
遠い異国を死地と定めた守は、その命が尽きる瞬間も、否、尽きた後も何も教えぬ気だ。
飛びぬけて秀でた頭脳を誇る彼女だからこそ出来る手段だが、何も知らされないのは幸せなのだろうか。
傷つく権利すら与えて貰えぬ子供は生涯を捧げてでも姉を探そうとするだろう。
周到な守の所在を奇跡的に突き止めることがあれば、彼は今度こそ壊れてしまうのではないか。
声すら上げずに知らぬ内に切られていた縁に慟哭する子供は、自らに触れる手を本能で拒絶している。
もう二年も悩み続けているのに、いい道が何か、鬼道は見つけることは出来ない。
「せーんせ、こんにちは」
ひょこりと唐突に顔を出した少女は、明るい笑顔を勝也に向けた。
晴れ晴れとして清々しい表情は何かを吹っ切ったように嬉しげで、眩しいものを見るように目を細める。
笑顔らしきものを見たことはあったが、こんなに幸せそうのは初めてだ。
時間帯は平日の昼。学校をサボって来たのだろう、赤いパーカーとジーパンはスタイリッシュな彼女に良く似合っている。
休憩中でありながらパソコンに向かい仕事をこなしていた勝也は、その手を止めると小さな客人に微笑みかけた。
「こんにちは。何かいいことがあったのかね?」
「うん!あのね、弟と一緒にサッカーの試合したんだ!あいつ凄く上手くなってて驚いちゃった」
「・・・試合を?君も、選手としてサッカーをプレイしたのか?」
「うん」
「鬼道さんは、知っているのか?」
「さあ、どうだろう?言ってないけれど、知ってるんじゃないかな?」
言葉を聞いて、勝也は衝撃で息が詰まった。
彼女がどれほど才能豊かな選手だったか話は聞いている。
自分の息子もそこそこだと思うが、彼女は遥かにそれを超えていた。
イタリアでサッカー留学し、最年少でジュニアユースに上がるほど、性別の壁を押し越える特例を作るほどの有り余る才能。
それを自慢気に話してくれたのは、彼女自身の父である鬼道だったのに。
彼はサッカーを二度と娘にさせたくないと、この病院に初めて現れたときに語っていなかったか。
もしかして彼女の名前が『鬼道』ではなく『円堂』なのは、それに関連するのだろうか。
どちらにせよ、そんな無理をすれば、彼女は。
「君は死にたいのか?」
「俺が?」
「リハビリ程度ならともかく、試合でサッカーをするという意味を、聡明な君が判らないはずがないだろう?何を考えているんだ!」
「・・・でもさ、先生。俺からサッカーを取り上げたら、本当に何も残らなくなる。俺にはサッカー以外何もないもん」
「っ!?」
子供らしくない深い感情を覗かせる瞳。
先ほどまでの歓喜など一瞬で消し飛び、一切の感情を消して首を傾げた。
淡々としているだけに嫌でも彼女の闇が理解でき、勝也はぞっと背筋を凍らせた。
この子は、何という重さを抱えているのか。
ずば抜けた知性、一度見せたことは覚える記憶力、それを自分のものにする技術、豊か過ぎる感性。
何でも出来る子供は、代わりに何も執着していない。
天才とは紙一重な存在だというが、彼女以上にその言葉に相応しい存在を目にしたことはなかった。
「父さんの名前を借りてFXやネット株でお金は稼げる。そこそこ資産も溜まったし、もう独立だって出来る。法律により後見人が必要だから父さんにお願いしたけど、本当ならあの人とはもう繋がりも無くなってるはずなんだ。俺の才能に投資してくれるって言ってたけど、鬼道の娘にはもうなれない。傷が残ったこの体じゃ将来性のある男に嫁ぐのも無理だし、鬼道家には有人っていう有能な跡継ぎも居る。俺が居たら派閥が生まれる可能性が高いから、本当なら全部の縁を切りたいところだ」
「君は」
「二年前、父さんに言われて病院に来たとき先生に病名を知らされて、どうしてって思ったよ。どうして俺なんだって思ったよ。人間なんて世界中に溢れんばかりにいるのに、どうして神様は俺を選んだんだろうって悩んだよ。でも誰を怨めばいいのか、何を憎めばいいのか判らなかった。サッカーを続けるのは無理だって宣告されて、生きている意味を最初に考えた」
「・・・・・・」
「何回死にたいって思ったか判らない。何回絶望したか覚えてない。でも笑ってられたのは、有人が居てくれて、あいつがボールを持って笑ってたからだ。サッカーは楽しいって、嬉しそうにしてたからだ。・・・俺は事故に合わなくとも、どうせサッカーは出来なくなってたはずだった。それでも諦めきれずに努力したのは、サッカーが俺とみんなの縁を結んでくれたものだったからだ。俺にとってサッカーは命と同じだよ。やっててもやらなくても死ぬんなら、全力でやって死にたい」
年よりも遥かに大人びた少女だと知っていた。
けれど抱えた闇の深さに決められた覚悟は、もう誰が何を言っても拒否されるのだろう。
彼女に病名を告げたのは、主治医として選ばれた勝也本人。
そして少女の華奢な体が過度の運動に耐えられないのを本人より理解しているのも、きっと医者である自分だ。
子供を持つ親として、彼女の言葉を否定したい。
同時に病気と折り合いをつける患者として、どうあっても彼女を止めたい。
「弟とサッカーをプレイしたとき、楽しかった。今の俺は試合中に昔ほど動けないけれど、動悸が激しくて眩暈がして苦しくて、それでもとても嬉しかった。───きっと、あの瞬間に死んだとしても、俺は後悔しなかった」
「───それでも。それでも、私も鬼道さんも、君にまだ生きていて欲しい。私が君の父親なら、何が何でもサッカーを止めてもらいたい」
「心配してくれてありがとう、先生。でも俺はもう選んだんだ。親不孝をするって決めたとき、もっといい娘を父さんに作ってあげたいって。俺みたいな欠陥品じゃなくて、ちゃんとしたいいお嬢さんを見つけてあげたいって」
微笑んだ少女に緩く首を振る。
この子は自分の価値を理解していない。
どんな親にとっても、我が子に代わる相手など居ないと判っていないのだ。
二年前、彼女が病院帰りに事故にあったと聞いた鬼道の青褪めた顔は、その錯乱振りは一生忘れないだろう。
無常な宣告を下されたばかりの娘に心を痛めていた彼は、自分の命を与えてもいいから娘を助けてくれと懇願してきた。
普段の鬼道家の当主としての冷静さはそこになく、仕事もせずに意識の戻らない娘から離れようとしなかった。
影山の勧めでアメリカに病院を移しても足蹴く通い、意識を取り戻したと報告があったときの喜びようはなかった。
ぼろぼろと大の大人が涙を零し、失われずに済んだ命に神に土下座して感謝せんばかりだった。
同じ娘を持つ親として、勝也も涙して喜んだほどだったのに。
「父さんには感謝している。俺に最高の治療を受けさせてくれて、養子から外してくれって我侭も聞いてくれて、それなのに後見人になってくれるばかりか分不相応な家まで与えてくれた。この恩は感謝しても仕切れなくて、一生掛かってでも返したい。けどね、だからこそ負担になりたくないんだ」
「君は間違っている。鬼道さんは」
「父さんにはもうすぐ新しい娘が出来るよ。俺と違って可愛くていい子だ。有人の本当の妹なんだ」
「違う、鬼道さんが欲しいのは新しい娘なんかじゃなくて」
「俺はまた留学するつもり。アメリカか、ドイツか迷ってるけど、近い内に国外へ渡るつもりだ。特待生制度を設けている学校で、勉強をする気だよ。俺は先生みたいな医者になりたい。サッカーは止めないけどね」
微笑む少女に絶望する。
もう何もかも決めてしまっているように見えた。
部外者の勝也が何を言っても、初めから届かないのだ。
サッカーがなくとも頭脳のみで留学権利を持つ彼女は、それでも自分を欠陥品だと見下している。
本当は違うのに。
彼女の父親が望むのは新しい娘じゃなくて、彼女自身であるというのに、どうして想いは届かない。
もし鬼道がサッカーをしているのを知った上で口を出さないなら、それこそが答えだと何故気がつかない。
「夕香ちゃん、早く目を覚ますといいね」
「・・・・・・」
「それじゃ、薬も貰ったから俺は帰るよ。またね、豪炎寺先生」
ぺこりと頭を下げた少女は、未練なく部屋を出て行った。
二年前にサッカーを続けれないと宣告したのは自分自身だ。
勝也はサッカーをしたいと望む少女より、サッカーを止めて欲しいと願った父親に共感した。
今だってそれは変わらない。
自分の子供が命を削ってまでプレイする価値をサッカーに見出せない。
事故にあいながらも奇跡的に命を取り留めた少女に残った病状は、今も尚解決していない。
ひょこりと唐突に顔を出した少女は、明るい笑顔を勝也に向けた。
晴れ晴れとして清々しい表情は何かを吹っ切ったように嬉しげで、眩しいものを見るように目を細める。
笑顔らしきものを見たことはあったが、こんなに幸せそうのは初めてだ。
時間帯は平日の昼。学校をサボって来たのだろう、赤いパーカーとジーパンはスタイリッシュな彼女に良く似合っている。
休憩中でありながらパソコンに向かい仕事をこなしていた勝也は、その手を止めると小さな客人に微笑みかけた。
「こんにちは。何かいいことがあったのかね?」
「うん!あのね、弟と一緒にサッカーの試合したんだ!あいつ凄く上手くなってて驚いちゃった」
「・・・試合を?君も、選手としてサッカーをプレイしたのか?」
「うん」
「鬼道さんは、知っているのか?」
「さあ、どうだろう?言ってないけれど、知ってるんじゃないかな?」
言葉を聞いて、勝也は衝撃で息が詰まった。
彼女がどれほど才能豊かな選手だったか話は聞いている。
自分の息子もそこそこだと思うが、彼女は遥かにそれを超えていた。
イタリアでサッカー留学し、最年少でジュニアユースに上がるほど、性別の壁を押し越える特例を作るほどの有り余る才能。
それを自慢気に話してくれたのは、彼女自身の父である鬼道だったのに。
彼はサッカーを二度と娘にさせたくないと、この病院に初めて現れたときに語っていなかったか。
もしかして彼女の名前が『鬼道』ではなく『円堂』なのは、それに関連するのだろうか。
どちらにせよ、そんな無理をすれば、彼女は。
「君は死にたいのか?」
「俺が?」
「リハビリ程度ならともかく、試合でサッカーをするという意味を、聡明な君が判らないはずがないだろう?何を考えているんだ!」
「・・・でもさ、先生。俺からサッカーを取り上げたら、本当に何も残らなくなる。俺にはサッカー以外何もないもん」
「っ!?」
子供らしくない深い感情を覗かせる瞳。
先ほどまでの歓喜など一瞬で消し飛び、一切の感情を消して首を傾げた。
淡々としているだけに嫌でも彼女の闇が理解でき、勝也はぞっと背筋を凍らせた。
この子は、何という重さを抱えているのか。
ずば抜けた知性、一度見せたことは覚える記憶力、それを自分のものにする技術、豊か過ぎる感性。
何でも出来る子供は、代わりに何も執着していない。
天才とは紙一重な存在だというが、彼女以上にその言葉に相応しい存在を目にしたことはなかった。
「父さんの名前を借りてFXやネット株でお金は稼げる。そこそこ資産も溜まったし、もう独立だって出来る。法律により後見人が必要だから父さんにお願いしたけど、本当ならあの人とはもう繋がりも無くなってるはずなんだ。俺の才能に投資してくれるって言ってたけど、鬼道の娘にはもうなれない。傷が残ったこの体じゃ将来性のある男に嫁ぐのも無理だし、鬼道家には有人っていう有能な跡継ぎも居る。俺が居たら派閥が生まれる可能性が高いから、本当なら全部の縁を切りたいところだ」
「君は」
「二年前、父さんに言われて病院に来たとき先生に病名を知らされて、どうしてって思ったよ。どうして俺なんだって思ったよ。人間なんて世界中に溢れんばかりにいるのに、どうして神様は俺を選んだんだろうって悩んだよ。でも誰を怨めばいいのか、何を憎めばいいのか判らなかった。サッカーを続けるのは無理だって宣告されて、生きている意味を最初に考えた」
「・・・・・・」
「何回死にたいって思ったか判らない。何回絶望したか覚えてない。でも笑ってられたのは、有人が居てくれて、あいつがボールを持って笑ってたからだ。サッカーは楽しいって、嬉しそうにしてたからだ。・・・俺は事故に合わなくとも、どうせサッカーは出来なくなってたはずだった。それでも諦めきれずに努力したのは、サッカーが俺とみんなの縁を結んでくれたものだったからだ。俺にとってサッカーは命と同じだよ。やっててもやらなくても死ぬんなら、全力でやって死にたい」
年よりも遥かに大人びた少女だと知っていた。
けれど抱えた闇の深さに決められた覚悟は、もう誰が何を言っても拒否されるのだろう。
彼女に病名を告げたのは、主治医として選ばれた勝也本人。
そして少女の華奢な体が過度の運動に耐えられないのを本人より理解しているのも、きっと医者である自分だ。
子供を持つ親として、彼女の言葉を否定したい。
同時に病気と折り合いをつける患者として、どうあっても彼女を止めたい。
「弟とサッカーをプレイしたとき、楽しかった。今の俺は試合中に昔ほど動けないけれど、動悸が激しくて眩暈がして苦しくて、それでもとても嬉しかった。───きっと、あの瞬間に死んだとしても、俺は後悔しなかった」
「───それでも。それでも、私も鬼道さんも、君にまだ生きていて欲しい。私が君の父親なら、何が何でもサッカーを止めてもらいたい」
「心配してくれてありがとう、先生。でも俺はもう選んだんだ。親不孝をするって決めたとき、もっといい娘を父さんに作ってあげたいって。俺みたいな欠陥品じゃなくて、ちゃんとしたいいお嬢さんを見つけてあげたいって」
微笑んだ少女に緩く首を振る。
この子は自分の価値を理解していない。
どんな親にとっても、我が子に代わる相手など居ないと判っていないのだ。
二年前、彼女が病院帰りに事故にあったと聞いた鬼道の青褪めた顔は、その錯乱振りは一生忘れないだろう。
無常な宣告を下されたばかりの娘に心を痛めていた彼は、自分の命を与えてもいいから娘を助けてくれと懇願してきた。
普段の鬼道家の当主としての冷静さはそこになく、仕事もせずに意識の戻らない娘から離れようとしなかった。
影山の勧めでアメリカに病院を移しても足蹴く通い、意識を取り戻したと報告があったときの喜びようはなかった。
ぼろぼろと大の大人が涙を零し、失われずに済んだ命に神に土下座して感謝せんばかりだった。
同じ娘を持つ親として、勝也も涙して喜んだほどだったのに。
「父さんには感謝している。俺に最高の治療を受けさせてくれて、養子から外してくれって我侭も聞いてくれて、それなのに後見人になってくれるばかりか分不相応な家まで与えてくれた。この恩は感謝しても仕切れなくて、一生掛かってでも返したい。けどね、だからこそ負担になりたくないんだ」
「君は間違っている。鬼道さんは」
「父さんにはもうすぐ新しい娘が出来るよ。俺と違って可愛くていい子だ。有人の本当の妹なんだ」
「違う、鬼道さんが欲しいのは新しい娘なんかじゃなくて」
「俺はまた留学するつもり。アメリカか、ドイツか迷ってるけど、近い内に国外へ渡るつもりだ。特待生制度を設けている学校で、勉強をする気だよ。俺は先生みたいな医者になりたい。サッカーは止めないけどね」
微笑む少女に絶望する。
もう何もかも決めてしまっているように見えた。
部外者の勝也が何を言っても、初めから届かないのだ。
サッカーがなくとも頭脳のみで留学権利を持つ彼女は、それでも自分を欠陥品だと見下している。
本当は違うのに。
彼女の父親が望むのは新しい娘じゃなくて、彼女自身であるというのに、どうして想いは届かない。
もし鬼道がサッカーをしているのを知った上で口を出さないなら、それこそが答えだと何故気がつかない。
「夕香ちゃん、早く目を覚ますといいね」
「・・・・・・」
「それじゃ、薬も貰ったから俺は帰るよ。またね、豪炎寺先生」
ぺこりと頭を下げた少女は、未練なく部屋を出て行った。
二年前にサッカーを続けれないと宣告したのは自分自身だ。
勝也はサッカーをしたいと望む少女より、サッカーを止めて欲しいと願った父親に共感した。
今だってそれは変わらない。
自分の子供が命を削ってまでプレイする価値をサッカーに見出せない。
事故にあいながらも奇跡的に命を取り留めた少女に残った病状は、今も尚解決していない。
更新内容
|
(06/28)
(04/07)
(04/07)
(04/07)
(03/31)
(03/30)
(03/30)
(03/30)
(03/30)
(03/25)
(03/25)
(03/25)
(03/25)
(03/24)
(03/24)
(03/24)
(03/23)
(03/14)
(03/14)
(03/13)
(03/13)
(03/13)
(03/11)
(03/10)
(03/08)
カテゴリー
|
リンク
|
フリーエリア
|