×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
それはまだ世界に異形の存在が共存し、天界と魔界、人間界は全てが一つであり個として存在していた頃の話。
千秋は魔界では数人存在する魔を統べるものの一人であった。
短い刈られた金の髪に、浅黒い肌。強気な瞳に自信ありげな不遜な表情がこの上なく似合う、人間であれば二十歳そこそこの姿をした魔の者だ。黒を基調とした肌を露出させる革の衣装に身を包み、あけられた背中からは蝙蝠と酷似した翼が一対存在する。
人であれば誰しも見惚れるような麗しい容貌をした彼は、美しいものこそ力を持つという天界と魔界のしきたり通りに強大な力を持っていた。どれ程かと言えば、指を一つ鳴らしただけで軽く国を一つ潰せる程度の力を持っている。だが、彼がこの力を振るうことは滅多になく、魔に属する者らしく自身の楽しみを追求する性質を持ちながらも破壊衝動に走ることはほとんどなかった。
それは衝動がないわけではなく、単純に人の世界を気に入っていたからだ。
魔に属する千秋たちを人は極端に差別する。天に属するものを崇めるのと対比して、何故か自分たちは彼らにとって悪に映るらしい。
主な理由は快楽を理由に殺戮を行ったり、人を惑わせ道を外させるかららしいが、千秋からすればそれは天の者と何の違いがあるのか判らない。
彼らには白い羽根があり、美しい容姿と洗練された物腰、そして奇跡を起こす力があるが、それは魔に属するものとて変わらない。奇跡と称する力で人を惑わし戯れに殺戮し、魂を糧に契約主の願いを叶える。彼らの行動と自分たちのそれと、一体何が違うというのか。
程度の低い理由をつけ人を味方につけた天の者も、その口車に乗せられた人間も同等に愚かだと思うが憎いとは思えなかった。
そもそも何かを憎むほど興味を持ったことはなく、相棒であり腹心の部下である男から言わせれば糸の切れた風船のように漂っているのと良く似た状態でいるのが千秋の常であった。
だからごく稀に気になったものは何を置いても優先し、好奇心の望むままに行動する。
それが千秋が千秋になった瞬間から変わらぬ習性だった。
その少女を見つけたのは偶然だった。
夜の散歩中、森の奥深くで見つけたあばら家。明かりも灯されることない部屋は薄暗い闇と共存し、窓枠は歪み少しの風でかたかたと揺れた。辛うじて屋根と呼べるトタンのそれは、所々が壁から剥がれ軋んだ音を立てている。
どう見ても人は住んで居なさそうな場所に、千秋の運命を変えた少女は住んでいた。
初めてそこに向かったのは単純な好奇心であった。
今にも風に吹かれて潰れてもおかしくないあばら家から聞こえてきた洗練された音。涼やかで軽やか。何物にも囚われぬ広がりを持ち、同時に何かに閉じ込めなければ砕けるのではないかと思える繊細な響き。
人の世界を長く渡り歩いた千秋はこれが何の音か知っていた。
誘われるようにそこに近づいたのは、その音色が今まで千秋が耳にしたどれよりも美しかったからだ。長い時を生きてきたが、これほど千秋の好みに合う音楽を聴いたのは初めてで、美しいものを好む性質を持つ人でないものなら誰しも魅了されるだろう。
否。これほど美しければ、ただ人ですら聞き惚れたかもしれない。 それほどに心弾かれる音色。持ち前の好奇心がうずうずと刺激され、壊れかけの窓からそっと顔を覗かせる。部屋には明かり一つないが、闇は千秋の領域。視界を遮る効果はない。
「・・・女?」
いや、女というより少女と呼ぶべきか。真っ暗な部屋の中、一心不乱に楽器を奏でる少女は、骨と皮で出来ているのかと思えるくらいに痩せている。こちらに背中を向けているため、顔を眺めることは出来ないが不揃いに切られた髪が肩の辺りでさらりと揺れ、纏う衣服は布、というよりぼろ布だ。さすがこんなあばら家に住んでいるだけあって、激貧生活を地でいっているらしい。だがその手に持つ楽器だけは、この家に似合わぬ一品だった。まずこの世界で楽器を持っているのは上流家庭の者だけで、それだけで異彩を放っている。少女が奏でるのはヴァイオリンと呼ばれるそれだ。良いとこの令嬢ですら習う人間は稀だというのに、息を吸うようにそれを弾きこなす。いいや、弾くなどという生温い表現は似つかわしくない。少女はその楽器を高らかと謳わせていた。
「大したものだな」
体全体を使い楽器を鳴らしていた少女は、不意に動きを止めた。奏でられていた曲も呆気ないほど唐突に終わる。中途半端な終焉に眉を寄せて舌打ちした。
「・・・そこに居るのは誰ですか?」
鈴を転がしたような愛らしい声。もしかしたら、千秋の予想より少女は遙かに幼いのかも知れない。そうであれば、あの発育不良な体型の説明がつくと些か失礼な納得の仕方をする。
暗闇の中、少女はこちらを振り返った。月明かりすら届かない暗闇で、千秋は目を丸くする。予想以上に少女がやせていた体とか、薄汚れていたからではない。確かに、都に居る女よりも愛らしい顔立ちをしていたが、千秋が驚いたのはそれが理由ではなかった。
「・・・お前、目が見えないのか」
少女の愛らしい容姿の中でも特に目を引く大きな目。長い睫毛が縁取るそれは、薄く白い膜を張っている。その瞳は確かに千秋が居る方向を向いているが、それでも千秋を見ていない。千秋から僅かに離れた何かを映すその瞳に、首を傾げた。
じっと薄汚れた顔を眺めていた千秋に、少女は淡く微笑む。その表情に目を見張った。ふわり、と。花が綻ぶように少しずつ緩んだそれは、派手さはないが何処かホッとする暖かさを持つ。例えるなら春の日差し。午睡に適した優しい時間。柔らかな笑みに目を奪われ、近づく少女に動けなかった。
手を伸ばし、周りを探るように足を進めていた少女は、千秋の顔に手を伸ばす。普段なら躊躇なく叩き落していたが、毒気を抜かれてぼうっとその手を眺めていた。ひやり、と冷たい感触が頬に当たる。魔の者の自分よりも冷たいのはどうなんだ、とじっとりと眉を寄せるが嫌悪感はない。可笑しなものだ。千秋は柔軟性は高いが、それに比例して矜持も高い。人間如きに無防備な醜態を晒す趣味はないというのに。己の行動に首を傾げながらも不躾な動きを許容する。
髪、目、鼻、口。そしてそのまま耳へと伸ばそうとした掌を掴んだ。嫌だったのではない。千秋の耳は人のものよりも長く尖っている。目が見えない少女は未だ千秋の正体に気づいてないようなのに、魔の者であるのを知らせたくなかった。
「・・・ごめんなさい」
「あ?」
「失礼・・・ですよね。私、つい癖で人を触っちゃうんです。目が見えないから、その分手で触って確かめようとしちゃって・・・。失礼なことしてごめんなさい」
「・・・いや。目が見えないんだろ?仕方がない」
するりと口をついた言葉に、千秋はぎょっと驚いた。意識しての言葉じゃなかったからこそ余計に。人を嫌ってなくとも千秋は魔の者だ。人間を庇護する言葉など吐いたことがない。
小さな掌を握ったまま家の中に入る所為で自分よりも少しだけ高い場所にある目をじっと見詰める。白く膜は張っているが、その瞳は蕩けるような琥珀色。何も映し出さないそれを、綺麗だ、と思う。そして綺麗だと思った自分に首を傾げた。
「私、かなでって言います。えと、身内はいないですけど、友達は何人か居て、今はこの家で一人暮らししてるんです」
「・・・そうか」
「それで・・・あの、もしよかったら私と友達になってくれませんか?」
「はぁ?」
突拍子もない言葉に目を瞬かせた。人間とは初対面の正体不明の男にこんな言葉を言うものだったか。千秋が覚えている人はもっと警戒心が強く臆病だった気がするが、この少女だけが異質なのだろうか。
「私、友達は居るんですけど、ここ、村から離れてて何日か一度しか会えないんです。その間、ずっと一人で。だから、もし友達になってくれるなら嬉しいなって」
「・・・・・・」
無防備すぎるだろう、と眉を寄せる。人里から離れていて滅多に誰も来ないなら、こんな誘いはするべきじゃない。真夜中の訪問者など碌なものは居ないのだから。強盗、山賊、人攫い。何れも害を為す者ばかりで、益になる存在は居ない。眉間に皺を刻んで黙り込んだ千秋に何を勘違いしたのか、かなでと名乗った少女は悲しげに眉を下げた。ころころと表情が変わる、と腕を組む。百面相は見ているだけで厭きない。
「・・・あの、ごめんなさい」
「・・・」
「いきなり、友達になってっていっても難しいですよね。初対面ですし、私目も見えないし。厚かましいこといってすみません。あの、忘れてください。──村なら、家の前の道を真っ直ぐに行けば一時間ほどでつきますから」
「おい、待て。俺は村には用はない」
「そうなんですか?」
「ああ。大体、道など聞かずとも俺には判るしな」
「・・・じゃあ、ここには何を?村に用がなくて、私を知らないならどうしてそこにいたんですか?」
こてり、と首を傾げたかなでに苦笑する。やはりこの少女は少し、否、大分警戒心が枯渇してるらしい。そこまで行きついたのに、未だに無防備なままなのはいかなるものか。
腕を組み一つため息を落とす。随分ととろいが、まぁ別に嫌いではない。それによくよく見てみれば随分と綺麗な色をしていた。もちろん、見た目ではない。そんな見せ掛けのものではなく、もっとずっと奥にある根本的なものが。万物を個とたらしめるそれが、白金に輝き美しかったのだ。千秋は魔に属する者だ。それを欲し糧とする。そう───人はそれを魂と呼ぶ。
かなでの魂は混じりけのない、それ自体が発光する白。角度によっては金色にもなる。この色は人が持つものとしては随分と珍しい。生きとし生きるものは全て感情を持つ。動物も植物も極端に言えば道に転がっている石ころだってそうだ。感情は色を持ち魂を染め上げる。その色は歩んできた道により異なるが、基本的に何色かの色が交じり合う。なのに目の前の少女の魂は色がない。それは随分と希少価値があるもので、だからか、と納得する。
先ほどかなでが弾いたヴァイオリンの音は天上でも聴けない程のものだった。色に染まらぬ彼女が奏でた音だからこそ、色を映しだし輝いた。ふむ、と頷いた千秋にかなでは反対側に首を傾げた。リアクションが子供っぽい。
「お前、一人で暮らしているのか?」
「・・・?はい。私、子供の頃に両親を亡くしてしまって。ずっと幼馴染の家で面倒見てもらってたんですけど、今年に入ってここに越してきたんです。快適とは言えませんけど、不便ない生活を送らせてもらってるんですよ」
「不便ない、ねぇ」
笑うかなでに室内を見渡す。外観に比例するように室内もまた酷い。いつ腐れ落ちても不思議じゃない天上に、足が折れかかった椅子。机の上には苔が生え、ベッドと呼ぶのもおこがましい寝台は藁が引いてあった。明かりを灯すランプもなければ、台所も箪笥もない。着替えや風呂はどうしているのか。これを不便じゃないと言う目の前の少女はどんな生活を送っているのだろう。人でない千秋ですら不便だと判るのに。
「まぁ、いい。お前、ヴァイオリン弾けるだろう?」
「え?あ、はい。子供の頃おじいちゃんに教えてもらったんです。私、他に何も出来ないけど、これだけは得意なんですよ」
「もう一度」
「?」
「もう一度、弾け。俺はお前の音が気に入った」
ばさり、と翼を広げると部屋の中に居るかなでの腕を掴む。ヴァイオリンを持ったままの少女は、簡単に持ち上げられる程に軽かった。暗闇の中から無理やりに引き出し、窓の外へ下ろす。
「・・・っ」
「?!お前、靴は」
「持ってないんです。その、あまり外に出ないから必要ないし」
「・・・たく」
一つため息を吐き指を鳴らす。闇が収束しかなでの白い足に絡み付くと漆黒のブーツになった。一見革製に見えるが、これは千秋の力の具現なので材質は異なる。一時的に少女の足を守るには上等だろう。
「あ・・・足が痛くなくなりました」
「そうか。なら、俺の為に弾け。───いいや、弾くんじゃないな。その楽器を謳わせろ」
「ヴァイオリンをですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
苛立ち強い口調を浴びせれば、かなでは慌ててヴァイオリンを構えた。左肩に乗せたヴァイオリンに顎を置く。目を瞑ると弦に弓を滑らせた。
途端に溢れる高音。流星群のように煌くそれは、一瞬の輝きを見せ次々と落ちていく。全てが消える前に滑らかな低音が撓み音を拾うと投げ返した。先ほどまでの早弾きから一転して落ち着いた響きがゆったりと包み込む。穏やかでどこか暖かい音。心地よさにうっとりと目を細めて聞き入る。かなでの魂を映した色は、随分と魅力的だ。人のような愚鈍な生き物にはぱっと判らないかもしれないが、森に住む動物たちはそれが判るらしい。先ほど千秋が降りて逃げていったはずの彼らが、そこかしこから顔を覗かせている。草葉にはウサギ、キツネ、木陰にはシカ、オオカミ。木の上にはリス、モモンガ、フクロウ。他にもぽつぽつ気配を感じる。中には相容れぬ存在も少なくなく、それほどこの音色が恋しいか、と微かに唇を持ち上げた。
月明かりをスポットライトに、少女はただ一人の舞台で楽器を謳わせる。高らかに何処までも、優しく澄んだ音色を。その音楽は春の日差し柔らかな午後のように、気持ちを緩めさせた。もっともっとと望むのに、曲は終焉へと進んでいる。この曲を千秋は知らなかったが、周りの動物たちの気配からそれを察し眉を寄せた。だがどれ程惜しんでも終わりないものは存在せず、かなでは最後の一音一呼吸に弾き切った。
「・・・・・・」
余韻が夜空に吸い込まれ、すっと息を吸う。先ほども思ったが改めてこんなにも心地よい音色は始めてだと、深く深く吐き出した。
曲が終わっても何も言わない千秋を不思議に思ったのだろう。首を傾げたかなでが、手探りで距離を詰める。弓が当たりそうになり慌てて腕を掴めばほっと安心したように胸を下ろす。そして持っていた弓をヴァイオリンと同じ手に持ちかえると、そのまま掌を千秋の頬に押し当てた。
一瞬びくり、と身体を震わせて己の失態に舌打ちする。目が見えない少女は触れるのが癖だと言っていたのに、無防備な子供と同じ態度をとってしまったのが腹立たしい。だが、次の瞬間に千秋の苛立ちは吹っ飛んだ。
「・・・泣いて、いるんですか?」
「はぁ?」
「頬、濡れてます」
慌てて少女の掌を弾くと己の頬に触れてみる。すると、なるほど。驚愕すべきことに千秋は涙を流していた。存在が誕生して始めての行為に目を丸くする。ためしに舐めてみれば、以前人の子から聞いた通りに何処か塩辛い。人と魔の者は違うのに、成分はどうなっているのか。空回りする頭でぼんやりと考える。
「あの、私の曲、駄目でしたか?」
「え?」
「気に障りましたか?だから、泣いてるんですか?」
ぽつぽつと肩を落としたかなでに、千秋は黙り込んだ。
そんな事はない。むしろ今まで聞いた中で一等いい演奏だった。心を揺さぶる音色、というのを千秋は始めて耳にしたのだ。そこまで考え、漸く気づく。
「・・・いや。いい、演奏だった」
かなでが思う以上にずっと。口に出さず胸の中だけで続ける。反応できなかったのは、こんな風に感情を乱されたのが始めてだったからだ。何かに感動するなど千秋には生まれて始めての経験で、涙を流すのも始めてだ。自分とは無縁だと思っていたものに今日は一気に当たってしまったらしい。
ゆるり、と唇が孤を描く。今日の自分はついている。
「お前」
「え?」
「また俺の為に演奏しろ」
ふんぞり返る姿は見えないだろうが、その口調から何かを察したのだろう。片手で持つのが重くなったらしいヴァイオリンを反対側の手に持ち替え唇に指を当てる。少し長めの前髪の奥から琥珀色の瞳が覗いた。
「・・・また、ですか?」
「そうだ。俺が望むたび、俺の為に弾くんだ」
光栄だろうと言わんばかりの傲岸不遜な態度だが、人付き合いがほとんどないかなでにそれは判らないらしい。しばし考え込むと、ふいにぱっと顔を輝かせる。
「それって」
「ん?」
「友達に、なってくれるってことですか?」
「はぁ?」
尻上がりに声が出る。何処から来たんだその発想と激しく突っ込みたいが、きらきらとした目を見て黙り込んだ。この目を見て、強く否定するのは何となく憚られたのだ。じっと見詰める期待の篭った眼差しを見ないように、ちらちらと視線を逸らし。大きく息を吐き出し肩を落とす。
「仕方ない。お前が望むなら、その『友達』とやらになってやらんこともない」
「本当ですか!ありがとうございます!私、村を出て以来友達なんて始めてです!」
貴職満面のかなでを眺め千秋は淡く苦笑した。胸の奥に、じんわりと経験のない暖かな何かが滲み出て、何だろうと首を捻る。少し胸を締め付けるそれも、やっぱり始めての経験で永く生きてきた中で得た様々なものと比較する。優秀な千秋の頭脳だが、それに該当するものは見つけられず気にするのを止めにした。何しろ今日は気分がいい。折角の良き日を害したくない。
「・・・千秋だ」
「え?」
「俺の名前。特別に呼ぶのを許してやる」
そう告げた瞬間の笑顔は、短い時間の中で見たどれよりも輝いていた。
それから千秋は毎晩のようにかなでの家に通うようになった。晴れた夜はもちろん、風の強い日も雨の日も雪の日も。台風の日だって気が向けば顔を見せその度にかなでは本当に嬉しそうに微笑んだ。
始めは音を聴きに行くだけだったのが、次第に世間話を始め、食事を共にとり、時には夜を明かして語り合った。目の見えないかなでの世界はとても狭く、色々な場所や色々なものを見てきた千秋の話は喜ばれ、特に異国の御伽噺をかなでは良くせがんだ。御伽噺は基本はシュールに終わるものが多いが、千秋が語ったのは原作ではなく子供向けにカスタマイズされたもの。ハッピーエンドで終る話は、かなでを酷く喜ばせた。
話しをしている内に気づいたが、かなでは感情豊かな少女らしい。音色にもそれは現れているが、何時の頃からか音に負けないくらいその表情の変化を好むようになった。千秋にとって小さな出来事でもかなでにとっては世界を揺るがす。喜怒哀楽がはっきりとした少女を千秋は気に入っていた。かなでの奏でる音楽と同様に。
「千秋さん」
「何だ?」
その日は随分と月が綺麗な夜だった。始めはおずおずと名を呼んでいたかなでは、今でははっきりと千秋を呼ぶようになった。僅かに逸れた瞳が千秋を映すことはないが、それでも千秋は満足していた。かなでの顔は千秋を見ていたし、触れるから大体想像できると微笑んでいたから。
本当は、かなでの目を見える様に治そうかと考えたこともある。だが結局一年も経とうとする今でもかなでの瞳は色を映さないままで、今度こそはと毎回思うものの時間だけが過ぎていく。理由は薄々判っている。この姿をかなでに見せるのが怖いのだ。異形の力を使い、人でないと知られるのが怖い。それにより、かなでが離れていくかもしれないのが怖かった。だから変わりにと目に見えない場所を修復した。見た目は変わらずとも千秋の力で家を囲い、屋根は強化し壁は隙間を閉じ、窓の枠もきっちりと直した。家の中も藁葺きだった寝台をふかふかのものと交換し、椅子も机も新しい。台所に生えていた苔は、今は見る影もない。この家に住むのはかなでなのでいいかと思ったが、一応やってくる幼馴染対策で目晦ましもかけてある。一見すれば以前のあばら家と変わりなく見えるようきちんと細工してあった。
一年前の今ごろなら、人に入れ込む自分は想像できなかった。むしろ人に恐れを抱く自分を鼻で笑っていただろう。何と情けなく落ちぶれたものだ、と。だが今の千秋には笑えない。かなでは特別なのだ。人とか魔の者とかそんなの関係なく、かなでという存在が千秋にとって特別。失いたくないと望む唯一のものであり、始めて執着を見せた存在である。嫌われたくないと感じる自分にも慣れた。悩む時期は当に過ぎ今はこの穏やかな時間が大切だった。
「私、明日一度村に行きます」
「・・・村に?」
ひっそりと眉を寄せる。即座に疑問が沸き起こった。かなでと知り合って一年。かなでが村に足を運んだことは一度もなく、それどころか招待をされたなどと聞いた覚えもない。時折、自分でもかなでのものでもない気配の残滓を見つけることはあったが、それはかなでの幼馴染のものだろう。かなでの話によると彼はかなでに食料や生活雑貨を運んでくれると言っていた。それに、村一番の医者だとも。全部無償でしてくれて申し訳ないと眉尻を下げたかなでの代わりにと、内緒で玄関に珍しい薬草を籠一杯に摘んで置いてある。それ自体に軽く力を使ってあるため、薬草はかなでからのものとその幼馴染は思い込んでいるだろう。千秋とすれば礼はそれで十分以上だと思っているし、かなでに告げて感謝されようとも思わない。ただ、その幼馴染が感謝してかなでに親切にすればいいとは思うが。
とにかく、かなでが村に呼ばれるのは異例の出来事で何故急にと訝しく感じる。回転の速い頭で考えるが答えは見つからず益々渋い表情になった。
つ、と視線をかなでにやれば、頬を少し染め嬉しそうに鼻歌を歌っている。その曲は千秋が口頭で教えたもので、今ではヴァイオリンで弾けるかなでのお気に入りだ。駄目だというのは容易いが、かなでの喜びを見て千秋は言葉を飲み込む。どうせ一日二日のことだ。何があるわけでもないだろう。
「何時帰ってくるんだ?」
「えと、明日は泊まりなので・・・多分、明後日に」
「そうか」
二日会えないのか、と気落ちするが浮かれているかなでは気づかない。普段なら目が見えずとも千秋の感情の機微には敏感なくせに。唇を尖らせるが、本当はそれほど不機嫌でもなかった。かなでがこれほど喜ぶのはあまりない。かなで自身は多くを望まないのだが、代わりに千秋はもっとと望む。もっと幸せになれるように、もっと笑顔が増えるように、と。人懐こい性格をしているかなでは、久しぶりに村人に会えるのが嬉しくて仕方ないのだろう。ならば千秋がそれを喜んでやらずしてどうする。かなでには、喜びを共有できる存在は千秋しか居ないのに。
「楽しんで来い」
くしゃり、と柔らかな髪を撫でれば、こくり、と素直に頷いた。そしていそいそと部屋の奥に向かいヴァイオリンを探そうとする。目が見えなくとも部屋の間合いは身体が知っているらしく、何かにぶつかることもない。出会った当初は冷や冷やと眺め、つい手を出していたのだが。
「・・・千秋さん?」
「今日はいい」
出会って始めて演奏を拒否した千秋にかなでが目を丸くする。驚く様子は森の中に居る小動物のようで微笑ましい。最も、小動物が可愛いものだと認識したのはここに来てかなでとの相違点を見つけてからだけれど。
戸惑うように瞳を揺らしたかなでに、千秋は笑った。
「演奏は次の楽しみにしている。明日、行くんだろう?村の話をしてくれないか」
「はい!」
少しでも胸に巣食う不安を取り除きたくて、軽い口調で頼み込む。千秋の違和感をかなでに知られないようわざとそうしたのだが、願った通りにことは進んだらしい。にこり、と微笑んだかなでは、思い出交じりに村の話しを夜明けまで語ってくれた。
「・・・遅い」
かなでが森の家の屋根で千秋はぽつりと呟いた。かなでが村に行ってからすでに一週間。二日で帰ると言っていた筈なのに、あまりにも遅すぎる。始めは楽しくて長居しているのだろうと思っていたが、日が経つにつれ違和感が上回った。
かなでは自分と約束した。『明後日には帰ってくる』と。中身はとろいが律儀なかなでは約束をきちんと守る。この一年ずっとそうだったし、一度の例外もなかった。それなのに今はどうだろう。千秋が待っているのを知っているはずなのに、かなでは一向に姿を見せない。例え村が楽しかったとしても、かなでの性格上一度は家に戻ってくるはずだ。
月が煌々と輝く中、千秋は一人思案する。すると、地上から声が掛かった。
「あんたが『千秋』か?」
唐突に呼ばれた自分の名に引かれるように視線を下げる。そこには粗末な布で出来たシャツと擦り切れたズボンを履いた青年が居た。その姿を視線に留めると、ぶわり、と千秋の周りの空気が揺れる。
「・・・貴様。誰がその名を呼ぶことを許可したか」
「っ」
「俺の名を呼んでいい人間はかなでのみ。貴様如き矮小なる存在にそれを許した記憶はない」
怒りを隠さぬ声に、青年は首を竦めた。見て判るほどに体は震え、だがそれでも千秋を睨み付ける力は変わらない。何だ、と眉を上げれば掠れる声を絞り出す。
「・・・お前が、かなでが言ってた友達かよ。魔の者、じゃねぇか」
吐き捨てるように呟かれた言葉から、重要な単語を聞いた千秋は闇よりも尚黒い羽をばっと広げた。風を起こしたそれに、青年は目を見開く。『魔の者』と自身で呼んだくせに、羽を見せるだけでこの驚き様とは。嘲笑を浮かべながら空に身を投げ出す。放物線の一番高いところで羽を動かせば青年との距離は開いた。
「貴様、かなでの知り合いか」
「幼馴染だ」
「貴様が、か」
話には聞いていたが随分とイメージが違う。目の前の青年はややぶっきらぼうに見えるが、かなでの話しから想像していた幼馴染はもっと穏やかなイメージがあった。重ならないそれに目を眇め、鼻を鳴らす。彼が何者であるか、などどうでもいい。重要なのは、彼が自分の名を知っている事実。それだけだ。
「かなではどうした」
「・・・・・・」
「かなでは俺と約束した。二日後には戻る、と。それなのに何時まで経っても姿を見せない。貴様らが何かしたんだろう」
疑問ではなく断定で問う。先ほどまでの想像も含め他には考えられなかった。かなでは目が不自由で何処に行くにも案内が居る。当然村に向かうにも必要で、年配の男性が二人で迎えに来ていたのは姿を消して千秋も確認した。口調から知り合いであったのは判ったし、武器を装備しているのも見え、身のこなしからそこそこ腕も立ちそうだった。だから何もせずに見送ったのだ。
「かなではどうした」
再度問い詰める。怒気が高まり口調どころか身に纏う殺気も高まった。今や千秋の周りの空間は歪み、亜空間への入り口が開きそうだ。強大な力が集まりつつあるのに、目の前の青年は何時の間にか体の震えを止めていた。
不信に思い瞳を眇める。そんな千秋を射殺しそうな勢いで睨み付け青年は叫んだ。
「お前の所為で・・・お前の所為で、かなでは殺された!!」
搾り出すように出された声に、千秋は集めていた力を止める。今、この青年は何と言ったのか。
呆然とする千秋に、青年は憎悪を篭めた眼差しを向ける。ぎらぎらと光る瞳は魔の者と呼ばれる自分たちですら滅多に見ぬ剣呑な輝きを放ち、矮小である人間の体から出る殺気は気圧されるくらい強い。先ほどまでの怯える小鳥と酷似した仕草をかなぐりすてた青年は、届かないほど上に居る千秋を指差した。
「お前が居たからかなでは死んだ!全部、全部お前の所為だ」
「・・・・・・どういう、ことだ?」
「一月前、村にハンターが流れ着いた。腕が立ち名の通った男の来訪に村は活気付いた。ここ一年村に魔の眷属が良く現れるようになっていて、折角育てた家畜や作物を奪われる被害が重なっていたから渡りに船で退治を頼んだんだ。あいつは強かったよ。村に顔を出した魔の者を毎日退治してくれた。気がいい奴で、無償に近い金額でそれを請け負ってくれたから村人からの信頼も厚く尊敬も集めてた。そんな奴が教えてくれた。何故、村に突然魔の眷属が姿を表すようになったのかを」
「・・・・・・」
「魔の眷属はより強い魔の者に惹かれてやってくる。この一年で突然に被害が増えたなら、きっと力ある魔の者が付近に居るのだろうと。───術を使い場所を特定した男はこう言った。『この村から少し離れたあばら家に、魔の者に取り付かれた盲目の少女が居る』と。すぐにかなでだと判ったさ。この村から離れた場所にあるのはこの家だけだったし、目が見えないなんてつけば尚のこと特定される。目が見えない少女なんて、かなで以外にこの村には居ないからな。そこから話は早かったよ。騙されてるかもしれないから説得しようと告げる俺の言葉に耳を貸す者なんて居なかった。そりゃそうだ。同意してくれる人間が居たなら、始めからこんな場所に隔離されてるはずないんだからなっ!!」
告げられる情報に黙り込む。何が何だか整理がつかない。混乱の渦に飲まれ千秋は何も言い返せない。ただ呆然と僅かに口を開けて興奮する青年を眺める。
「知ってるか?かなでは目が見えないのにこんな村から離れた場所に隔離されている理由。それはな、あいつの奏でるヴァイオリンだ。あいつは幼い頃祖父にヴァイオリンを習った。目が見えない分耳が良かったかなでは音を拾い再現する技術を身につけめきめきと祖父を追い越した。それでも子供の頃は良かったんだ。あいつはちょっとヴァイオリンが巧い普通の子供だった。だが年を取るにつれそれは少しずつ変わっていった。あいつのヴァイオリンは『巧すぎた』んだ。昼でも夜でも仕事中でも寝てる最中でも、あいつのヴァイオリンが聞こえれば傍に行かずに居られない。惹きつけられ、音を聴かずには居られない。誰しも腕を止め、何の最中であろうとかなでの傍に集まった。───かなでは、目が見えないから気づいていなかったが、その光景は異様としか言えなかった。何回か繰り返される内に、呪われた子と呼ばれるようになったんだ。盲目でも明るく優しいかなでに惹かれる人間も居たのに、全てはヴァイオリンの所為になった。けれどかなではヴァイオリンを手放すなんて出来なかった。結局、気味悪がられ追い出されるように村から離れた場所に家をもらった。俺はかなでが呪われた子だなんて信じてなかったから、俺がかなでに食事を持っていく役割を担ったんだ。かなでの目が見えればヴァイオリン以外に興味を持つかもしれないと、医学の勉強までしてな!!」
胸の内を吐露した青年は、瞳を絶望に変える。膝を付き血が飛び散るのも構わず地面を殴る青年に、千秋の姿は見えていないに違いない。それほどその姿は狂気じみていた。
「もう少しだったんだ。最近はいい薬草が出に入るようになって新しい薬品も試せた。かなでだって少しずつ明かりを感じるようになったって笑ってたのに。───・・・全部、全部お前の所為だ!お前がかなでのヴァイオリンに惹かれたから。かなでの前に姿を表したから。かなでを惑わそうと傍に居たから・・・っ、だから、かなでは殺された!!」
「・・・う・・・うぁぁぁああああぁぁあ!!」
耳障りな音が聴覚を支配する。無様に叫び声を上げているのは誰なのか。視界が歪み、空間の裂け目から次々と虫と動物を組み合わせたような姿の眷属が現れる。普段の千秋なら使わないそれは、随分と低レベルで知能すら持ち合わせていない。大量に湧き出るそれにすら怯まず、千秋だけを瞳に映した青年は胸から何物かを取り出すとぎゅっと握り締めた。頬を伝う涙が地面へと零れ落ち青年の悲しみを伝える。
「・・・受け取れ、くそ野郎!」
悲鳴に近い声と共に投げられたそれを咄嗟に受け取ったのは、布に包まれた奥から慣れた気配を感じたから。無意識の内にそれを開けば、中から現れたのは支子(くちなし)色の髪の毛一房。それが誰の物かとは、言われずともしっかりと判った。
「俺はお前が嫌いだ。憎くて憎くて仕方ねぇ!お前を許す日なんて一生来ないし、一生恨みつづけていく。けど・・・これはかなでの願いで最後の望みだったから、俺はかなでの為に約束を果たす。かなでから伝言だ。一回しか言わねぇから、よく聞け!」
『千秋さん、あなたに会えてよかった。私は、幸せでした』
告げられた声は確かに青年のものだったのに。硬く瞑った瞼の奥で、痩せた少女が微笑むのが見えた。腕を後ろでに組んで、こくり、と首を傾げて。どこか春の日差しに似た、柔らかな優しいその笑顔が。
「うわぁああああぁあぁあああああぁぁぁ!!!!」
その日、生まれて始めて千秋は絶望を知った。かなでに与えられた中で、それは何よりも昏い痕跡を千秋に残した。
その後、村はただ一人の生存者を残し一夜で姿を消した。壊滅状態に追いやられたのでもなく、存在の欠片すら残さずに地図から消えた村に人々は首を傾げる。怪奇現象としか説明はつかず、何十年と経った今でもその村には動物は愚か植物の一本すら生えない荒地となった。当時名の知れたハンターがその村には滞在していたらしいが、彼もその日を境に姿が見えなくなったらしい。
ただ一人の生存者だった老人は、今でも真相を語ろうとしない。村の位置から少し離れたところにあるあばら家に今でも住む老人は、快適と言いがたい場所で今日も一人時を刻む。誰かを待ちつづけるように、あばら家の中で暮らしていた。老人の傍らには、ヴァイオリンが手入れされて置いてある。弾き手のいない楽器は主を待っていつでも音が出る状態で保たれていた。
森の奥に軽やかで暖かな音色が響くことはもうないが、時折、闇よりも黒い羽を持つ何かが探し物をするように空を飛ぶ姿が目撃されるらしい。嘆きの森と呼ばれるそこは、人が立ち入らぬ禁断の場所となった。命名された理由の一つである嘆き声は今日も止まない。学者は木々が擦れ合う音だとそれを解明したが、真実を知るものは何処にも居なかった。
千秋は魔界では数人存在する魔を統べるものの一人であった。
短い刈られた金の髪に、浅黒い肌。強気な瞳に自信ありげな不遜な表情がこの上なく似合う、人間であれば二十歳そこそこの姿をした魔の者だ。黒を基調とした肌を露出させる革の衣装に身を包み、あけられた背中からは蝙蝠と酷似した翼が一対存在する。
人であれば誰しも見惚れるような麗しい容貌をした彼は、美しいものこそ力を持つという天界と魔界のしきたり通りに強大な力を持っていた。どれ程かと言えば、指を一つ鳴らしただけで軽く国を一つ潰せる程度の力を持っている。だが、彼がこの力を振るうことは滅多になく、魔に属する者らしく自身の楽しみを追求する性質を持ちながらも破壊衝動に走ることはほとんどなかった。
それは衝動がないわけではなく、単純に人の世界を気に入っていたからだ。
魔に属する千秋たちを人は極端に差別する。天に属するものを崇めるのと対比して、何故か自分たちは彼らにとって悪に映るらしい。
主な理由は快楽を理由に殺戮を行ったり、人を惑わせ道を外させるかららしいが、千秋からすればそれは天の者と何の違いがあるのか判らない。
彼らには白い羽根があり、美しい容姿と洗練された物腰、そして奇跡を起こす力があるが、それは魔に属するものとて変わらない。奇跡と称する力で人を惑わし戯れに殺戮し、魂を糧に契約主の願いを叶える。彼らの行動と自分たちのそれと、一体何が違うというのか。
程度の低い理由をつけ人を味方につけた天の者も、その口車に乗せられた人間も同等に愚かだと思うが憎いとは思えなかった。
そもそも何かを憎むほど興味を持ったことはなく、相棒であり腹心の部下である男から言わせれば糸の切れた風船のように漂っているのと良く似た状態でいるのが千秋の常であった。
だからごく稀に気になったものは何を置いても優先し、好奇心の望むままに行動する。
それが千秋が千秋になった瞬間から変わらぬ習性だった。
その少女を見つけたのは偶然だった。
夜の散歩中、森の奥深くで見つけたあばら家。明かりも灯されることない部屋は薄暗い闇と共存し、窓枠は歪み少しの風でかたかたと揺れた。辛うじて屋根と呼べるトタンのそれは、所々が壁から剥がれ軋んだ音を立てている。
どう見ても人は住んで居なさそうな場所に、千秋の運命を変えた少女は住んでいた。
初めてそこに向かったのは単純な好奇心であった。
今にも風に吹かれて潰れてもおかしくないあばら家から聞こえてきた洗練された音。涼やかで軽やか。何物にも囚われぬ広がりを持ち、同時に何かに閉じ込めなければ砕けるのではないかと思える繊細な響き。
人の世界を長く渡り歩いた千秋はこれが何の音か知っていた。
誘われるようにそこに近づいたのは、その音色が今まで千秋が耳にしたどれよりも美しかったからだ。長い時を生きてきたが、これほど千秋の好みに合う音楽を聴いたのは初めてで、美しいものを好む性質を持つ人でないものなら誰しも魅了されるだろう。
否。これほど美しければ、ただ人ですら聞き惚れたかもしれない。 それほどに心弾かれる音色。持ち前の好奇心がうずうずと刺激され、壊れかけの窓からそっと顔を覗かせる。部屋には明かり一つないが、闇は千秋の領域。視界を遮る効果はない。
「・・・女?」
いや、女というより少女と呼ぶべきか。真っ暗な部屋の中、一心不乱に楽器を奏でる少女は、骨と皮で出来ているのかと思えるくらいに痩せている。こちらに背中を向けているため、顔を眺めることは出来ないが不揃いに切られた髪が肩の辺りでさらりと揺れ、纏う衣服は布、というよりぼろ布だ。さすがこんなあばら家に住んでいるだけあって、激貧生活を地でいっているらしい。だがその手に持つ楽器だけは、この家に似合わぬ一品だった。まずこの世界で楽器を持っているのは上流家庭の者だけで、それだけで異彩を放っている。少女が奏でるのはヴァイオリンと呼ばれるそれだ。良いとこの令嬢ですら習う人間は稀だというのに、息を吸うようにそれを弾きこなす。いいや、弾くなどという生温い表現は似つかわしくない。少女はその楽器を高らかと謳わせていた。
「大したものだな」
体全体を使い楽器を鳴らしていた少女は、不意に動きを止めた。奏でられていた曲も呆気ないほど唐突に終わる。中途半端な終焉に眉を寄せて舌打ちした。
「・・・そこに居るのは誰ですか?」
鈴を転がしたような愛らしい声。もしかしたら、千秋の予想より少女は遙かに幼いのかも知れない。そうであれば、あの発育不良な体型の説明がつくと些か失礼な納得の仕方をする。
暗闇の中、少女はこちらを振り返った。月明かりすら届かない暗闇で、千秋は目を丸くする。予想以上に少女がやせていた体とか、薄汚れていたからではない。確かに、都に居る女よりも愛らしい顔立ちをしていたが、千秋が驚いたのはそれが理由ではなかった。
「・・・お前、目が見えないのか」
少女の愛らしい容姿の中でも特に目を引く大きな目。長い睫毛が縁取るそれは、薄く白い膜を張っている。その瞳は確かに千秋が居る方向を向いているが、それでも千秋を見ていない。千秋から僅かに離れた何かを映すその瞳に、首を傾げた。
じっと薄汚れた顔を眺めていた千秋に、少女は淡く微笑む。その表情に目を見張った。ふわり、と。花が綻ぶように少しずつ緩んだそれは、派手さはないが何処かホッとする暖かさを持つ。例えるなら春の日差し。午睡に適した優しい時間。柔らかな笑みに目を奪われ、近づく少女に動けなかった。
手を伸ばし、周りを探るように足を進めていた少女は、千秋の顔に手を伸ばす。普段なら躊躇なく叩き落していたが、毒気を抜かれてぼうっとその手を眺めていた。ひやり、と冷たい感触が頬に当たる。魔の者の自分よりも冷たいのはどうなんだ、とじっとりと眉を寄せるが嫌悪感はない。可笑しなものだ。千秋は柔軟性は高いが、それに比例して矜持も高い。人間如きに無防備な醜態を晒す趣味はないというのに。己の行動に首を傾げながらも不躾な動きを許容する。
髪、目、鼻、口。そしてそのまま耳へと伸ばそうとした掌を掴んだ。嫌だったのではない。千秋の耳は人のものよりも長く尖っている。目が見えない少女は未だ千秋の正体に気づいてないようなのに、魔の者であるのを知らせたくなかった。
「・・・ごめんなさい」
「あ?」
「失礼・・・ですよね。私、つい癖で人を触っちゃうんです。目が見えないから、その分手で触って確かめようとしちゃって・・・。失礼なことしてごめんなさい」
「・・・いや。目が見えないんだろ?仕方がない」
するりと口をついた言葉に、千秋はぎょっと驚いた。意識しての言葉じゃなかったからこそ余計に。人を嫌ってなくとも千秋は魔の者だ。人間を庇護する言葉など吐いたことがない。
小さな掌を握ったまま家の中に入る所為で自分よりも少しだけ高い場所にある目をじっと見詰める。白く膜は張っているが、その瞳は蕩けるような琥珀色。何も映し出さないそれを、綺麗だ、と思う。そして綺麗だと思った自分に首を傾げた。
「私、かなでって言います。えと、身内はいないですけど、友達は何人か居て、今はこの家で一人暮らししてるんです」
「・・・そうか」
「それで・・・あの、もしよかったら私と友達になってくれませんか?」
「はぁ?」
突拍子もない言葉に目を瞬かせた。人間とは初対面の正体不明の男にこんな言葉を言うものだったか。千秋が覚えている人はもっと警戒心が強く臆病だった気がするが、この少女だけが異質なのだろうか。
「私、友達は居るんですけど、ここ、村から離れてて何日か一度しか会えないんです。その間、ずっと一人で。だから、もし友達になってくれるなら嬉しいなって」
「・・・・・・」
無防備すぎるだろう、と眉を寄せる。人里から離れていて滅多に誰も来ないなら、こんな誘いはするべきじゃない。真夜中の訪問者など碌なものは居ないのだから。強盗、山賊、人攫い。何れも害を為す者ばかりで、益になる存在は居ない。眉間に皺を刻んで黙り込んだ千秋に何を勘違いしたのか、かなでと名乗った少女は悲しげに眉を下げた。ころころと表情が変わる、と腕を組む。百面相は見ているだけで厭きない。
「・・・あの、ごめんなさい」
「・・・」
「いきなり、友達になってっていっても難しいですよね。初対面ですし、私目も見えないし。厚かましいこといってすみません。あの、忘れてください。──村なら、家の前の道を真っ直ぐに行けば一時間ほどでつきますから」
「おい、待て。俺は村には用はない」
「そうなんですか?」
「ああ。大体、道など聞かずとも俺には判るしな」
「・・・じゃあ、ここには何を?村に用がなくて、私を知らないならどうしてそこにいたんですか?」
こてり、と首を傾げたかなでに苦笑する。やはりこの少女は少し、否、大分警戒心が枯渇してるらしい。そこまで行きついたのに、未だに無防備なままなのはいかなるものか。
腕を組み一つため息を落とす。随分ととろいが、まぁ別に嫌いではない。それによくよく見てみれば随分と綺麗な色をしていた。もちろん、見た目ではない。そんな見せ掛けのものではなく、もっとずっと奥にある根本的なものが。万物を個とたらしめるそれが、白金に輝き美しかったのだ。千秋は魔に属する者だ。それを欲し糧とする。そう───人はそれを魂と呼ぶ。
かなでの魂は混じりけのない、それ自体が発光する白。角度によっては金色にもなる。この色は人が持つものとしては随分と珍しい。生きとし生きるものは全て感情を持つ。動物も植物も極端に言えば道に転がっている石ころだってそうだ。感情は色を持ち魂を染め上げる。その色は歩んできた道により異なるが、基本的に何色かの色が交じり合う。なのに目の前の少女の魂は色がない。それは随分と希少価値があるもので、だからか、と納得する。
先ほどかなでが弾いたヴァイオリンの音は天上でも聴けない程のものだった。色に染まらぬ彼女が奏でた音だからこそ、色を映しだし輝いた。ふむ、と頷いた千秋にかなでは反対側に首を傾げた。リアクションが子供っぽい。
「お前、一人で暮らしているのか?」
「・・・?はい。私、子供の頃に両親を亡くしてしまって。ずっと幼馴染の家で面倒見てもらってたんですけど、今年に入ってここに越してきたんです。快適とは言えませんけど、不便ない生活を送らせてもらってるんですよ」
「不便ない、ねぇ」
笑うかなでに室内を見渡す。外観に比例するように室内もまた酷い。いつ腐れ落ちても不思議じゃない天上に、足が折れかかった椅子。机の上には苔が生え、ベッドと呼ぶのもおこがましい寝台は藁が引いてあった。明かりを灯すランプもなければ、台所も箪笥もない。着替えや風呂はどうしているのか。これを不便じゃないと言う目の前の少女はどんな生活を送っているのだろう。人でない千秋ですら不便だと判るのに。
「まぁ、いい。お前、ヴァイオリン弾けるだろう?」
「え?あ、はい。子供の頃おじいちゃんに教えてもらったんです。私、他に何も出来ないけど、これだけは得意なんですよ」
「もう一度」
「?」
「もう一度、弾け。俺はお前の音が気に入った」
ばさり、と翼を広げると部屋の中に居るかなでの腕を掴む。ヴァイオリンを持ったままの少女は、簡単に持ち上げられる程に軽かった。暗闇の中から無理やりに引き出し、窓の外へ下ろす。
「・・・っ」
「?!お前、靴は」
「持ってないんです。その、あまり外に出ないから必要ないし」
「・・・たく」
一つため息を吐き指を鳴らす。闇が収束しかなでの白い足に絡み付くと漆黒のブーツになった。一見革製に見えるが、これは千秋の力の具現なので材質は異なる。一時的に少女の足を守るには上等だろう。
「あ・・・足が痛くなくなりました」
「そうか。なら、俺の為に弾け。───いいや、弾くんじゃないな。その楽器を謳わせろ」
「ヴァイオリンをですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
苛立ち強い口調を浴びせれば、かなでは慌ててヴァイオリンを構えた。左肩に乗せたヴァイオリンに顎を置く。目を瞑ると弦に弓を滑らせた。
途端に溢れる高音。流星群のように煌くそれは、一瞬の輝きを見せ次々と落ちていく。全てが消える前に滑らかな低音が撓み音を拾うと投げ返した。先ほどまでの早弾きから一転して落ち着いた響きがゆったりと包み込む。穏やかでどこか暖かい音。心地よさにうっとりと目を細めて聞き入る。かなでの魂を映した色は、随分と魅力的だ。人のような愚鈍な生き物にはぱっと判らないかもしれないが、森に住む動物たちはそれが判るらしい。先ほど千秋が降りて逃げていったはずの彼らが、そこかしこから顔を覗かせている。草葉にはウサギ、キツネ、木陰にはシカ、オオカミ。木の上にはリス、モモンガ、フクロウ。他にもぽつぽつ気配を感じる。中には相容れぬ存在も少なくなく、それほどこの音色が恋しいか、と微かに唇を持ち上げた。
月明かりをスポットライトに、少女はただ一人の舞台で楽器を謳わせる。高らかに何処までも、優しく澄んだ音色を。その音楽は春の日差し柔らかな午後のように、気持ちを緩めさせた。もっともっとと望むのに、曲は終焉へと進んでいる。この曲を千秋は知らなかったが、周りの動物たちの気配からそれを察し眉を寄せた。だがどれ程惜しんでも終わりないものは存在せず、かなでは最後の一音一呼吸に弾き切った。
「・・・・・・」
余韻が夜空に吸い込まれ、すっと息を吸う。先ほども思ったが改めてこんなにも心地よい音色は始めてだと、深く深く吐き出した。
曲が終わっても何も言わない千秋を不思議に思ったのだろう。首を傾げたかなでが、手探りで距離を詰める。弓が当たりそうになり慌てて腕を掴めばほっと安心したように胸を下ろす。そして持っていた弓をヴァイオリンと同じ手に持ちかえると、そのまま掌を千秋の頬に押し当てた。
一瞬びくり、と身体を震わせて己の失態に舌打ちする。目が見えない少女は触れるのが癖だと言っていたのに、無防備な子供と同じ態度をとってしまったのが腹立たしい。だが、次の瞬間に千秋の苛立ちは吹っ飛んだ。
「・・・泣いて、いるんですか?」
「はぁ?」
「頬、濡れてます」
慌てて少女の掌を弾くと己の頬に触れてみる。すると、なるほど。驚愕すべきことに千秋は涙を流していた。存在が誕生して始めての行為に目を丸くする。ためしに舐めてみれば、以前人の子から聞いた通りに何処か塩辛い。人と魔の者は違うのに、成分はどうなっているのか。空回りする頭でぼんやりと考える。
「あの、私の曲、駄目でしたか?」
「え?」
「気に障りましたか?だから、泣いてるんですか?」
ぽつぽつと肩を落としたかなでに、千秋は黙り込んだ。
そんな事はない。むしろ今まで聞いた中で一等いい演奏だった。心を揺さぶる音色、というのを千秋は始めて耳にしたのだ。そこまで考え、漸く気づく。
「・・・いや。いい、演奏だった」
かなでが思う以上にずっと。口に出さず胸の中だけで続ける。反応できなかったのは、こんな風に感情を乱されたのが始めてだったからだ。何かに感動するなど千秋には生まれて始めての経験で、涙を流すのも始めてだ。自分とは無縁だと思っていたものに今日は一気に当たってしまったらしい。
ゆるり、と唇が孤を描く。今日の自分はついている。
「お前」
「え?」
「また俺の為に演奏しろ」
ふんぞり返る姿は見えないだろうが、その口調から何かを察したのだろう。片手で持つのが重くなったらしいヴァイオリンを反対側の手に持ち替え唇に指を当てる。少し長めの前髪の奥から琥珀色の瞳が覗いた。
「・・・また、ですか?」
「そうだ。俺が望むたび、俺の為に弾くんだ」
光栄だろうと言わんばかりの傲岸不遜な態度だが、人付き合いがほとんどないかなでにそれは判らないらしい。しばし考え込むと、ふいにぱっと顔を輝かせる。
「それって」
「ん?」
「友達に、なってくれるってことですか?」
「はぁ?」
尻上がりに声が出る。何処から来たんだその発想と激しく突っ込みたいが、きらきらとした目を見て黙り込んだ。この目を見て、強く否定するのは何となく憚られたのだ。じっと見詰める期待の篭った眼差しを見ないように、ちらちらと視線を逸らし。大きく息を吐き出し肩を落とす。
「仕方ない。お前が望むなら、その『友達』とやらになってやらんこともない」
「本当ですか!ありがとうございます!私、村を出て以来友達なんて始めてです!」
貴職満面のかなでを眺め千秋は淡く苦笑した。胸の奥に、じんわりと経験のない暖かな何かが滲み出て、何だろうと首を捻る。少し胸を締め付けるそれも、やっぱり始めての経験で永く生きてきた中で得た様々なものと比較する。優秀な千秋の頭脳だが、それに該当するものは見つけられず気にするのを止めにした。何しろ今日は気分がいい。折角の良き日を害したくない。
「・・・千秋だ」
「え?」
「俺の名前。特別に呼ぶのを許してやる」
そう告げた瞬間の笑顔は、短い時間の中で見たどれよりも輝いていた。
それから千秋は毎晩のようにかなでの家に通うようになった。晴れた夜はもちろん、風の強い日も雨の日も雪の日も。台風の日だって気が向けば顔を見せその度にかなでは本当に嬉しそうに微笑んだ。
始めは音を聴きに行くだけだったのが、次第に世間話を始め、食事を共にとり、時には夜を明かして語り合った。目の見えないかなでの世界はとても狭く、色々な場所や色々なものを見てきた千秋の話は喜ばれ、特に異国の御伽噺をかなでは良くせがんだ。御伽噺は基本はシュールに終わるものが多いが、千秋が語ったのは原作ではなく子供向けにカスタマイズされたもの。ハッピーエンドで終る話は、かなでを酷く喜ばせた。
話しをしている内に気づいたが、かなでは感情豊かな少女らしい。音色にもそれは現れているが、何時の頃からか音に負けないくらいその表情の変化を好むようになった。千秋にとって小さな出来事でもかなでにとっては世界を揺るがす。喜怒哀楽がはっきりとした少女を千秋は気に入っていた。かなでの奏でる音楽と同様に。
「千秋さん」
「何だ?」
その日は随分と月が綺麗な夜だった。始めはおずおずと名を呼んでいたかなでは、今でははっきりと千秋を呼ぶようになった。僅かに逸れた瞳が千秋を映すことはないが、それでも千秋は満足していた。かなでの顔は千秋を見ていたし、触れるから大体想像できると微笑んでいたから。
本当は、かなでの目を見える様に治そうかと考えたこともある。だが結局一年も経とうとする今でもかなでの瞳は色を映さないままで、今度こそはと毎回思うものの時間だけが過ぎていく。理由は薄々判っている。この姿をかなでに見せるのが怖いのだ。異形の力を使い、人でないと知られるのが怖い。それにより、かなでが離れていくかもしれないのが怖かった。だから変わりにと目に見えない場所を修復した。見た目は変わらずとも千秋の力で家を囲い、屋根は強化し壁は隙間を閉じ、窓の枠もきっちりと直した。家の中も藁葺きだった寝台をふかふかのものと交換し、椅子も机も新しい。台所に生えていた苔は、今は見る影もない。この家に住むのはかなでなのでいいかと思ったが、一応やってくる幼馴染対策で目晦ましもかけてある。一見すれば以前のあばら家と変わりなく見えるようきちんと細工してあった。
一年前の今ごろなら、人に入れ込む自分は想像できなかった。むしろ人に恐れを抱く自分を鼻で笑っていただろう。何と情けなく落ちぶれたものだ、と。だが今の千秋には笑えない。かなでは特別なのだ。人とか魔の者とかそんなの関係なく、かなでという存在が千秋にとって特別。失いたくないと望む唯一のものであり、始めて執着を見せた存在である。嫌われたくないと感じる自分にも慣れた。悩む時期は当に過ぎ今はこの穏やかな時間が大切だった。
「私、明日一度村に行きます」
「・・・村に?」
ひっそりと眉を寄せる。即座に疑問が沸き起こった。かなでと知り合って一年。かなでが村に足を運んだことは一度もなく、それどころか招待をされたなどと聞いた覚えもない。時折、自分でもかなでのものでもない気配の残滓を見つけることはあったが、それはかなでの幼馴染のものだろう。かなでの話によると彼はかなでに食料や生活雑貨を運んでくれると言っていた。それに、村一番の医者だとも。全部無償でしてくれて申し訳ないと眉尻を下げたかなでの代わりにと、内緒で玄関に珍しい薬草を籠一杯に摘んで置いてある。それ自体に軽く力を使ってあるため、薬草はかなでからのものとその幼馴染は思い込んでいるだろう。千秋とすれば礼はそれで十分以上だと思っているし、かなでに告げて感謝されようとも思わない。ただ、その幼馴染が感謝してかなでに親切にすればいいとは思うが。
とにかく、かなでが村に呼ばれるのは異例の出来事で何故急にと訝しく感じる。回転の速い頭で考えるが答えは見つからず益々渋い表情になった。
つ、と視線をかなでにやれば、頬を少し染め嬉しそうに鼻歌を歌っている。その曲は千秋が口頭で教えたもので、今ではヴァイオリンで弾けるかなでのお気に入りだ。駄目だというのは容易いが、かなでの喜びを見て千秋は言葉を飲み込む。どうせ一日二日のことだ。何があるわけでもないだろう。
「何時帰ってくるんだ?」
「えと、明日は泊まりなので・・・多分、明後日に」
「そうか」
二日会えないのか、と気落ちするが浮かれているかなでは気づかない。普段なら目が見えずとも千秋の感情の機微には敏感なくせに。唇を尖らせるが、本当はそれほど不機嫌でもなかった。かなでがこれほど喜ぶのはあまりない。かなで自身は多くを望まないのだが、代わりに千秋はもっとと望む。もっと幸せになれるように、もっと笑顔が増えるように、と。人懐こい性格をしているかなでは、久しぶりに村人に会えるのが嬉しくて仕方ないのだろう。ならば千秋がそれを喜んでやらずしてどうする。かなでには、喜びを共有できる存在は千秋しか居ないのに。
「楽しんで来い」
くしゃり、と柔らかな髪を撫でれば、こくり、と素直に頷いた。そしていそいそと部屋の奥に向かいヴァイオリンを探そうとする。目が見えなくとも部屋の間合いは身体が知っているらしく、何かにぶつかることもない。出会った当初は冷や冷やと眺め、つい手を出していたのだが。
「・・・千秋さん?」
「今日はいい」
出会って始めて演奏を拒否した千秋にかなでが目を丸くする。驚く様子は森の中に居る小動物のようで微笑ましい。最も、小動物が可愛いものだと認識したのはここに来てかなでとの相違点を見つけてからだけれど。
戸惑うように瞳を揺らしたかなでに、千秋は笑った。
「演奏は次の楽しみにしている。明日、行くんだろう?村の話をしてくれないか」
「はい!」
少しでも胸に巣食う不安を取り除きたくて、軽い口調で頼み込む。千秋の違和感をかなでに知られないようわざとそうしたのだが、願った通りにことは進んだらしい。にこり、と微笑んだかなでは、思い出交じりに村の話しを夜明けまで語ってくれた。
「・・・遅い」
かなでが森の家の屋根で千秋はぽつりと呟いた。かなでが村に行ってからすでに一週間。二日で帰ると言っていた筈なのに、あまりにも遅すぎる。始めは楽しくて長居しているのだろうと思っていたが、日が経つにつれ違和感が上回った。
かなでは自分と約束した。『明後日には帰ってくる』と。中身はとろいが律儀なかなでは約束をきちんと守る。この一年ずっとそうだったし、一度の例外もなかった。それなのに今はどうだろう。千秋が待っているのを知っているはずなのに、かなでは一向に姿を見せない。例え村が楽しかったとしても、かなでの性格上一度は家に戻ってくるはずだ。
月が煌々と輝く中、千秋は一人思案する。すると、地上から声が掛かった。
「あんたが『千秋』か?」
唐突に呼ばれた自分の名に引かれるように視線を下げる。そこには粗末な布で出来たシャツと擦り切れたズボンを履いた青年が居た。その姿を視線に留めると、ぶわり、と千秋の周りの空気が揺れる。
「・・・貴様。誰がその名を呼ぶことを許可したか」
「っ」
「俺の名を呼んでいい人間はかなでのみ。貴様如き矮小なる存在にそれを許した記憶はない」
怒りを隠さぬ声に、青年は首を竦めた。見て判るほどに体は震え、だがそれでも千秋を睨み付ける力は変わらない。何だ、と眉を上げれば掠れる声を絞り出す。
「・・・お前が、かなでが言ってた友達かよ。魔の者、じゃねぇか」
吐き捨てるように呟かれた言葉から、重要な単語を聞いた千秋は闇よりも尚黒い羽をばっと広げた。風を起こしたそれに、青年は目を見開く。『魔の者』と自身で呼んだくせに、羽を見せるだけでこの驚き様とは。嘲笑を浮かべながら空に身を投げ出す。放物線の一番高いところで羽を動かせば青年との距離は開いた。
「貴様、かなでの知り合いか」
「幼馴染だ」
「貴様が、か」
話には聞いていたが随分とイメージが違う。目の前の青年はややぶっきらぼうに見えるが、かなでの話しから想像していた幼馴染はもっと穏やかなイメージがあった。重ならないそれに目を眇め、鼻を鳴らす。彼が何者であるか、などどうでもいい。重要なのは、彼が自分の名を知っている事実。それだけだ。
「かなではどうした」
「・・・・・・」
「かなでは俺と約束した。二日後には戻る、と。それなのに何時まで経っても姿を見せない。貴様らが何かしたんだろう」
疑問ではなく断定で問う。先ほどまでの想像も含め他には考えられなかった。かなでは目が不自由で何処に行くにも案内が居る。当然村に向かうにも必要で、年配の男性が二人で迎えに来ていたのは姿を消して千秋も確認した。口調から知り合いであったのは判ったし、武器を装備しているのも見え、身のこなしからそこそこ腕も立ちそうだった。だから何もせずに見送ったのだ。
「かなではどうした」
再度問い詰める。怒気が高まり口調どころか身に纏う殺気も高まった。今や千秋の周りの空間は歪み、亜空間への入り口が開きそうだ。強大な力が集まりつつあるのに、目の前の青年は何時の間にか体の震えを止めていた。
不信に思い瞳を眇める。そんな千秋を射殺しそうな勢いで睨み付け青年は叫んだ。
「お前の所為で・・・お前の所為で、かなでは殺された!!」
搾り出すように出された声に、千秋は集めていた力を止める。今、この青年は何と言ったのか。
呆然とする千秋に、青年は憎悪を篭めた眼差しを向ける。ぎらぎらと光る瞳は魔の者と呼ばれる自分たちですら滅多に見ぬ剣呑な輝きを放ち、矮小である人間の体から出る殺気は気圧されるくらい強い。先ほどまでの怯える小鳥と酷似した仕草をかなぐりすてた青年は、届かないほど上に居る千秋を指差した。
「お前が居たからかなでは死んだ!全部、全部お前の所為だ」
「・・・・・・どういう、ことだ?」
「一月前、村にハンターが流れ着いた。腕が立ち名の通った男の来訪に村は活気付いた。ここ一年村に魔の眷属が良く現れるようになっていて、折角育てた家畜や作物を奪われる被害が重なっていたから渡りに船で退治を頼んだんだ。あいつは強かったよ。村に顔を出した魔の者を毎日退治してくれた。気がいい奴で、無償に近い金額でそれを請け負ってくれたから村人からの信頼も厚く尊敬も集めてた。そんな奴が教えてくれた。何故、村に突然魔の眷属が姿を表すようになったのかを」
「・・・・・・」
「魔の眷属はより強い魔の者に惹かれてやってくる。この一年で突然に被害が増えたなら、きっと力ある魔の者が付近に居るのだろうと。───術を使い場所を特定した男はこう言った。『この村から少し離れたあばら家に、魔の者に取り付かれた盲目の少女が居る』と。すぐにかなでだと判ったさ。この村から離れた場所にあるのはこの家だけだったし、目が見えないなんてつけば尚のこと特定される。目が見えない少女なんて、かなで以外にこの村には居ないからな。そこから話は早かったよ。騙されてるかもしれないから説得しようと告げる俺の言葉に耳を貸す者なんて居なかった。そりゃそうだ。同意してくれる人間が居たなら、始めからこんな場所に隔離されてるはずないんだからなっ!!」
告げられる情報に黙り込む。何が何だか整理がつかない。混乱の渦に飲まれ千秋は何も言い返せない。ただ呆然と僅かに口を開けて興奮する青年を眺める。
「知ってるか?かなでは目が見えないのにこんな村から離れた場所に隔離されている理由。それはな、あいつの奏でるヴァイオリンだ。あいつは幼い頃祖父にヴァイオリンを習った。目が見えない分耳が良かったかなでは音を拾い再現する技術を身につけめきめきと祖父を追い越した。それでも子供の頃は良かったんだ。あいつはちょっとヴァイオリンが巧い普通の子供だった。だが年を取るにつれそれは少しずつ変わっていった。あいつのヴァイオリンは『巧すぎた』んだ。昼でも夜でも仕事中でも寝てる最中でも、あいつのヴァイオリンが聞こえれば傍に行かずに居られない。惹きつけられ、音を聴かずには居られない。誰しも腕を止め、何の最中であろうとかなでの傍に集まった。───かなでは、目が見えないから気づいていなかったが、その光景は異様としか言えなかった。何回か繰り返される内に、呪われた子と呼ばれるようになったんだ。盲目でも明るく優しいかなでに惹かれる人間も居たのに、全てはヴァイオリンの所為になった。けれどかなではヴァイオリンを手放すなんて出来なかった。結局、気味悪がられ追い出されるように村から離れた場所に家をもらった。俺はかなでが呪われた子だなんて信じてなかったから、俺がかなでに食事を持っていく役割を担ったんだ。かなでの目が見えればヴァイオリン以外に興味を持つかもしれないと、医学の勉強までしてな!!」
胸の内を吐露した青年は、瞳を絶望に変える。膝を付き血が飛び散るのも構わず地面を殴る青年に、千秋の姿は見えていないに違いない。それほどその姿は狂気じみていた。
「もう少しだったんだ。最近はいい薬草が出に入るようになって新しい薬品も試せた。かなでだって少しずつ明かりを感じるようになったって笑ってたのに。───・・・全部、全部お前の所為だ!お前がかなでのヴァイオリンに惹かれたから。かなでの前に姿を表したから。かなでを惑わそうと傍に居たから・・・っ、だから、かなでは殺された!!」
「・・・う・・・うぁぁぁああああぁぁあ!!」
耳障りな音が聴覚を支配する。無様に叫び声を上げているのは誰なのか。視界が歪み、空間の裂け目から次々と虫と動物を組み合わせたような姿の眷属が現れる。普段の千秋なら使わないそれは、随分と低レベルで知能すら持ち合わせていない。大量に湧き出るそれにすら怯まず、千秋だけを瞳に映した青年は胸から何物かを取り出すとぎゅっと握り締めた。頬を伝う涙が地面へと零れ落ち青年の悲しみを伝える。
「・・・受け取れ、くそ野郎!」
悲鳴に近い声と共に投げられたそれを咄嗟に受け取ったのは、布に包まれた奥から慣れた気配を感じたから。無意識の内にそれを開けば、中から現れたのは支子(くちなし)色の髪の毛一房。それが誰の物かとは、言われずともしっかりと判った。
「俺はお前が嫌いだ。憎くて憎くて仕方ねぇ!お前を許す日なんて一生来ないし、一生恨みつづけていく。けど・・・これはかなでの願いで最後の望みだったから、俺はかなでの為に約束を果たす。かなでから伝言だ。一回しか言わねぇから、よく聞け!」
『千秋さん、あなたに会えてよかった。私は、幸せでした』
告げられた声は確かに青年のものだったのに。硬く瞑った瞼の奥で、痩せた少女が微笑むのが見えた。腕を後ろでに組んで、こくり、と首を傾げて。どこか春の日差しに似た、柔らかな優しいその笑顔が。
「うわぁああああぁあぁあああああぁぁぁ!!!!」
その日、生まれて始めて千秋は絶望を知った。かなでに与えられた中で、それは何よりも昏い痕跡を千秋に残した。
その後、村はただ一人の生存者を残し一夜で姿を消した。壊滅状態に追いやられたのでもなく、存在の欠片すら残さずに地図から消えた村に人々は首を傾げる。怪奇現象としか説明はつかず、何十年と経った今でもその村には動物は愚か植物の一本すら生えない荒地となった。当時名の知れたハンターがその村には滞在していたらしいが、彼もその日を境に姿が見えなくなったらしい。
ただ一人の生存者だった老人は、今でも真相を語ろうとしない。村の位置から少し離れたところにあるあばら家に今でも住む老人は、快適と言いがたい場所で今日も一人時を刻む。誰かを待ちつづけるように、あばら家の中で暮らしていた。老人の傍らには、ヴァイオリンが手入れされて置いてある。弾き手のいない楽器は主を待っていつでも音が出る状態で保たれていた。
森の奥に軽やかで暖かな音色が響くことはもうないが、時折、闇よりも黒い羽を持つ何かが探し物をするように空を飛ぶ姿が目撃されるらしい。嘆きの森と呼ばれるそこは、人が立ち入らぬ禁断の場所となった。命名された理由の一つである嘆き声は今日も止まない。学者は木々が擦れ合う音だとそれを解明したが、真実を知るものは何処にも居なかった。
PR
暗闇と明るみの混ざり合う中間地点。見上げれば空があり下を覗けば奈落が広がるその場所は、境目と呼ばれ絶対的対立をする天使と悪魔の停戦地帯である。
天上にはない地面に触れることが出来、奈落にはない空が仰げるそこは、天使と悪魔が出会っても見て見ぬふりをすると暗黙の了解が定まっていた。天使は悪魔に嫌悪を抱き、悪魔は天使に感心を持たない。拒絶こそすれ話を交わす存在は遥かに広がる境目で見受けられることはない。
蝙蝠に似た漆黒の羽を持つ蓬生も勿論関心がない一人だ。細く僅かに癖を持つ藤色の髪を緩く一つで結わえた彼は、艶気のある悪魔である。一見すれば上品で柔和だが、常に弧を描いている唇や細められた瞳からは表情を読むことは出来ず彼を一角ならない悪魔たらしめている。
誰を前にしても余裕のある態度を崩さず、気だるげで儚げな雰囲気を持っていた。悪魔としての能力も中々のもので、彼の相棒であるもう一人と共に奈落でも名の知れた十指に入る有能さだ。悪魔らしく享楽的で刹那を好む一面を持つ彼は、何かを『堕とす』手腕に長けていた。
この日蓬生が境目に遊びに来たのはただの気紛れだった。先日まで人間界に五十年ほど居座って遊んでいたのだが、そろそろ顔を出せとの相棒の言葉に渋々と故郷へと帰ってきたところで、境目に寄ったのはそこが帰り道の中間地点になるからだ。立寄る気になったのは天上から降り注ぐ日差しがあまりにも穏やかで心地よかったからだ。
蓬生は力ある悪魔としても有名だが、変わり者としても有名だった。天上の日差しを好む悪魔など、奈落中を探しても五人も居ないであろう嗜好だ。狂気の沙汰と呼ばれているが、そんなもの気にしない。所詮この世は力が全て。力なき弱きものがどれだけ群れ戯言を吐こうとも右から左へ聞き流せ、だ。我慢できぬほどに鬱陶しければ消してしまえば済む話で、指を鳴らすだけでその作業は完了する。
「ああ・・・ここがええな」
一際大きく、立派な木の根元に体を横たえると頭の後ろで腕を組む。瞼を閉じれば息をするのと同じ自然さで力が展開され、蓬生がいる場所を中心に一キロ程度を結界で包んだ。姿を見せなくするのではなく入った瞬間に別空間に飛ばされるそれは、蓬生の力場に足を踏み込んだ瞬間この木を通り越した場所に移動する。蓬生の力を考えれば悪戯に近い可愛らしい結界は、けれど強固で強力。なまじの天使や悪魔では存在にすら気づかないだろう。
麗らかな日差しを瞼の裏で受け止め、はぁと温い息を吐き出す。奈落では感じれない温もりは穏やかで心地よい。
「やっぱ、昼寝はええなぁ」
体質上あまり長く光りに当たれないが、気持ちよさにうっとりとする。日差しではなく月光を好む相棒から、変な奴だと常々言われるが気持ちいいものは仕方ない。蓬生ほど力が強ければ日差しを浴びたくらいで消滅する恐れもないし、さすがに一月も毎日繰り返せば体調を崩すがその程度だ。風の心地よさに目を細める余裕すらあった。
「・・・・・・?」
しばしまどろんでいれば、不意に空間が揺れる。違和感に目を開き気配を探るが遺物は見当たらず眉を寄せた。
気のせいと済ますには違和感が大きすぎたが、何も見つけられないのだから仕方ない。万一蓬生の結界を潜り抜けているのであれば、その存在は強大な力を持つことになる。鉢合わせをしたら面倒だが、その相手を絞るのは容易だ。消去法でいって、蓬生より力が上の存在など、天上も奈落も含めて一握りなのだから。そして違和感は敵にしては蓬生の力に馴染んでいた。大方相棒が一向に姿を表さぬ蓬生に痺れを切らしたというところだろう。
考えを一段楽させ、肩の力を抜く。ゆったりとした空気に身を任せた蓬生は、今度こそはっきりと感じた異変に身を起こした。
「・・・音?」
細く高く微かに聞こえるそれに、じとりと眉を寄せる。聞いたことがあるようなないような音に、すっかりと眠気を吹き飛ばされた蓬生は不機嫌に唇を窄めた。
「誰や、人の休息を邪魔する奴は。人の眠りを邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでまえっちゅうのを知らんのかい」
色々と間違った人間界の諺を口にすると、ぶわり、と自慢の羽を広げる。広げられた羽は蓬生の身体よりも大きく、一羽ばたきで身体が浮いた。
数度羽を動かして空へと昇る。空気を支配化に置けば、上昇速度が飛躍的に上がった。
先ほどまで背を凭れ掛けていた木の天辺と同じ高さまで上がると目を瞑る。意識を集中し、心の触手を伸ばせば情報が脳裏に入りこんだ。
「居た」
一瞬のビジョンで場所を特定させると身体を傾ける。目的地へは一息で辿りつき、羽を止めて急停止する。その勢いに木の葉が揺れ砂が巻き上がる。蓬生を中心として起こった風は、瞬きの間に周囲を揺らし去っていった。
「・・・え?」
蓬生の登場の瞬間から、動きを止めて固まっていた存在が間抜けな声を漏らした。ぽかん、と小さな口を開け大きな瞳を零れんばかりに見開いた相手は、蓬生もよく見る大きな羽を持っていた。
天使。
梔子の髪を肩で揃えた小さな天使は、どうやら女性らしい。白いローブから覗く肌は滑らかな象牙色、蕩けるような琥珀色の瞳に微かに染まった淡い頬。唇はサクランボと同じく艶やかで可愛らしい。随分と小さな体をしていて、吹けば折れてしまいそうな印象だ。そして何よりも特徴的なのは胡粉の羽。それ自体が発光するように何処までも上品に白く、長く生きた蓬生ですら初めて見る美しさだ。知っている上級天使たちよりも遥かに上質な色をしている。
先ほどまで聞こえていた音はきっと少女の両手にある楽器から奏でられていたのだろう。蓬生の位置まで距離があるのにどうやって音を届けたのかは判らなかったけれど。
呆然と口を開いたまま動かない天使を、好奇心のままじっくりと眺める。今までの天使は蓬生を見ると会話らしい会話もせずに挑んできたので、初めての機会に唇が緩んだ。何しろこの天使、随分ととろいらしく近づいても逃げないし、それどころか髪を触っても羽を弄っても動かない。
悪戯な手がローブの中に潜り込もうとした瞬間、漸く我に返ったらしい天使の少女が慌てて身を引いた。
「な・・・何するんですか、いきなり!?」
「いきなりやなかったらええの?」
「良いわけないです!人の髪引っ張ったり、ほっぺを摘んだり、羽を弄繰り回したり、失礼じゃないですか!」
小さい体を精一杯伸ばして怒りを伝える天使の少女の瞳はきらきらと輝いている。きっと興奮しているのだろう。肩を怒らせ腰に腕を当て柔らかな頬を河豚のように膨らませていた。
そんな幼げな姿に蓬生は目を丸くした。元々天使とは鼻持ちならないくらいに気位が高いのが普通だ。いつでも体裁を気にし、体面を取り繕っている。つん、と取り澄ましているのが標準で、悪魔如きと唾棄するのが彼らの生き様だ。
それがこの少女の素直な行為はなんだろう。感情を押さえない悪魔の子ほど狡猾でなく、感情を表に出さないのを誇りとする天子とも違い、真っ直ぐな想いがひしひしと伝わってくる。純粋な怒りを感じるがそれは醜いものではない。どちらかと言えば拗ねているように見え、蓬生は己の口元を掌で覆った。
「・・・可愛い」
「え?」
聞き取れなかったらしい天使の少女はこくり、と首を傾げる。その姿ですら蓬生に変な胸の高鳴りを伝えてきた。これはあれだ。人間流なら、壷に嵌ったとでも言うのだろうか。警戒心の欠如した態度も、蓬生の行動にすぐさま反応できないとろくささも、感情を素直に訴える態度も、醜悪に映らない仕草も全てが新鮮で面白い。
うずうず、と尻尾が揺らめく。鼠を甚振る猫と酷似した動きだが、残念にも少女は気がつかなかった。
「俺は蓬生。蓬生さんて呼んでくれてええよ」
「・・・はぁ」
「君は?天使のお嬢さん」
「お嬢さん??え・・・と、私はかなでって言います」
「かなで?・・・何処かで聞いた名やな」
何かが蓬生のアンテナに引っかかり首を傾げる。腕を組んでしばらく考え込んでみたが、結局何も思い出せなかった。
「まぁ、ええわ。小さいことは気にせんとこ」
取り合えず目の前の少女───かなで『で』遊ぶのを優先させた蓬生はにっこりと微笑んだ。それは優しく艶やかだが何処か油断できない色を湛えている。普通の天使であれば違和感に逃げるだろうが、蓬生が気に入った天使は何処までも鈍いらしい。蓬生の笑顔に釣られてにこり、と気の抜けた笑みを向けた。
無意識に手を伸ばすと、くしゃり、と梔子色の髪を撫でる。突然な行為に目を白黒させながらもかなでは蓬生の手を拒絶しない。
「なぁ、さっきの音はあんたが出しとうたんやろ?」
「音・・・?」
「そうや。細くて高い音。俺が居るところまで聞こえたん。あの木の下で昼寝しとったんやけど、すっかり目が覚めてもうたわ」
「あんなとこまで聞こえたんですか・・・!?それは、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。私、これを奏でるのが仕事なんですけど、天上では中々練習出来なくって」
「ああ、別に怒っておらんよ。ただ興味が沸いてん。切れ切れにしか聞こえんかったからやろうな。きちんと聞いてみたくて飛んで来たんや」
「飛んで・・・っ!そうだ、さっき見たんですけど、蓬生さんの羽黒くなかったですか!?」
「・・・・・・」
「もしかして・・・もしかして、蓬生さん悪魔なんじゃ」
おずおずと見上げてきた視線に警戒の色が見えどうしたものか、と思案する。ここで肯定するのは簡単だが、何だかそれでは折角見つけた少女が逃げてしまう気がした。
だが。
「もしそうなら、凄いです!私、悪魔って始めて見ます!羽、本当に黒いんですね」
かなでの発想は蓬生の斜め上を走っていた。嬉しそうに目を輝かせたかなでは、蓬生を好奇心一杯の目を向ける。
「なぁ、かなでちゃん。そんなに悪魔が珍しいんなら、俺と友達にでもなる?」
「え?」
「俺は当分奈落におる。かなでちゃんは、ずっと天上におるんやろ?なら、中間地点の境目のこの場所。この場所を俺らの秘密の場所にしよ。俺はここに昼寝に来て、かなでちゃんは俺の傍でその楽器の練習をする。どうや?」
問いかけながらも答えは判っていた。何しろ蓬生はやり手の悪魔だ。天使だって今までに何人も『堕として』いる。
嬉しそうな笑顔を答えの変わりにした少女は、素直に腕に持った楽器を構えた。
かなでの演奏の腕は全く大した物だ。組んだ腕に頭を乗せ、ゆったりと息を吐き出しながらまどろむ。音楽など奈落には存在しない上品な趣味で、人間界くらいでしか聞いたことがなかったが全くレベルが違う。かなでが弾いた音には色があり輝きがある。視認出来るほどきらきらしいそれは美しくも眩い。
神から与えられたと言うその楽器は、かなでの仕事の相棒でもあるらしい。音が流れる毎に溢れ出る奔流が辺りを包むと、その度に季節が変化する。蓬生が思っていたよりも、この天使の少女は強大な力を持つらしい。だが川の流れをホースに集約して花に水をやるのが難しいのと同じで、その大きすぎる力を繊細なコントロールで扱うには修練不足で、出会った日も特訓中だったそうだ。周りに与える影響が大きすぎるので誰も居ないであろう境目の奥に居たらしいが、なるほど。春の季節を誘導する音を奏でていたと言うのだから納得だ。
風変わりとは言え悪魔の蓬生を和ませる力を持つかなでは、きっと特異体質なのだろう。すぐに厭きると思っていた会合も回を重ねる毎に楽しみになり、今では次を考える始末。
瞼を閉じたまま、淡く苦笑する。何かに夢中になるなど、面倒だと思っていたのに。否。現在進行形で思っているのに。呆れるくらいにかなでに執着している自分を発見し、蓬生は信じられんね、と自分に向かって呟く。だがそんな淡い感情すら心地よい時間が穏やかに流れていった。
「・・・おや」
ある日いつも通りに待ち合わせ場所に向かった蓬生は、見慣れていないが見知った気配を敏感に感じ取り、ついと眉を上げた。二対四枚の羽を持つ自分とさして体格の変わらない姿を目にし、目を細める。
「何や、久しぶりやね」
一見普段と変わらないようでいて、僅かに口調に険が篭った。我ながら判り易過ぎると思わなくもないが、かなでと二人だけの秘密の場所に現れた乱入者に好感情は持てそうにない。黒い羽を操り近づけば、彼の表情も自分同様に歪んでいるのが見て取れた。亜麻色の緩やかな髪を持つ男は、少し垂れ目がちの瞳を尖らせる。
「かなでに近づくな」
「珍しく直球な台詞やん。いつものオブラートに包んだ言い方は何処に消えたん?」
「悪いが今はお前の言葉遊びに付き合う気はないんだ」
「上級天使の君らしくない余裕のなさやね。君、かなでちゃんの何なん?」
「───俺は、かなでの教育係だ」
「教育係?ふーん・・・教育係、ねぇ」
腕を組み、じとりと男を眺める。何処か居心地悪そうに居住まいを正した彼も、それだけでは理由が薄いと自覚しているのだろう。自分とは違った意味で得意のポーカーフェイスも微かに目尻が染まることで崩れている。
無性に胸の中に苛立ちが募り、気を許したら力が発現してしまいそうだ。胸に巣食う気色の悪い感情は初めてで、ここまで暴力的な気分になったのは久しぶり。これが何を意味するか聡い蓬生には判らないはずがなく、深呼吸をして昂ぶったそれを押さえ込む。
「とにかくっ、かなでにはもう会わないでくれ」
「どうして俺が君の言うことを聞かなあかんのん」
「かなでの為だと言っても、聞くつもりはないか」
「───・・・どういう意味や?」
「そのままの意味だ。最近、かなでの音は深みを増した。以前より力のコントロールも抜群で、効果を操作できるようになった」
「それなら万万歳やん」
「お前は、かなでの存在の意味を理解していないんだ」
「存在の、意味?」
「かなでは───かなでは、生まれてからまだ十七年しか経っていない」
「十七年!?」
行動が幼いとは思っていたが、まさかそんなに若いとは思っていなかった。人間でもまだ子供と呼ばれる年齢だ。長命の天使や悪魔からしてみれば、赤子も同然。だからこそ驚愕する。かなでの持つ力は、十年やそこらで身につくものではなく、生まれ持ってのものにしては強大過ぎる。かなでの力はまだ不安定だが、安定すれば蓬生すら凌駕する力を持っているかもしれないというのに。
唖然とする蓬生を見て、彼は苦く笑った。押し込めておくのが難しく、つい漏れてしまったような小さな笑み。淡く儚い印象のそれに、嫌な予感がして眉を顰める。
「お前も、判ってるんだろう?」
「・・・・・・」
「かなでの力はまだ赤子同然の天使に与えられるべき物じゃない。かなでは、比喩ではなく神に愛された申し子。一心に天使たちの愛も受ける、愛されるために生まれた存在。彼女の調べは矜持の高い天使の心を解し柔らかいものにする。それは神が与えたものではなく生まれ持った才能で、だからこそかなでに執着する者は多いんだ」
その言葉の意味の裏側を蓬生は正確に読み取った。じとり、と眉間の皺が寄り不快感が競り上がる。
「つまり、俺にかなでちゃんと会うなって言うとる訳やな?」
「そうだ」
「それは脅し?」
「いいや。───かなでの身を守るための、最善の手段だ」
真面目な顔にくつりと喉が震える。何と面白い冗談なのだろう。
「随分な言いようやな。かなでちゃんを殺されたくなかったら離れろ、なんて」
「・・・・・・」
「君たちはかなでちゃんを愛しとるんやろ?博愛主義者の天使さん」
「博愛主義者だからこそ、唯一の例外には執着するんだ。かなでは誰のものでもない。敢えて言うなら、彼女を創った神のもの。それなら俺たちも納得できる」
「でも、同族でもなく、むしろ敵対する悪魔である俺に関心を持つのは許せない。そういうことやろ?」
「───その、通りだ」
頷いた天使に蓬生は艶やかな微笑を向ける。細められた瞳には怪しい輝きが宿り、唇が孤を描く。悪魔らしい表情に目の前の天使は嫌悪の表情を浮かべた。
「嫌やね」
「・・・・・・」
「俺はかなでちゃんを手放す気はないし。むしろ、堕とす気満万や。かなでちゃんなら、可愛い子悪魔になると思わん?」
「悪魔めが」
「せやね。俺は悪魔や。それも君より力が強い。知っとうやろ?」
ぶわり、と力を解放する。木々がざわめき草が揺れる。蓬生を中心に力場が膨れ上がり、目の前の天使が防御を築く前に瞬く間に侵食する。二対四枚の羽を広げた天使は、辛うじて吹き飛ばされないように踏ん張った。その様子を眺めながら笑顔でじわじわと力を強める。球体状に力を纏め徐々に狭めていく途中、不意に感じた気配に力を霧散させた。
「!!?」
「こんにちは、かなでちゃん」
「こんにちは、蓬生さん」
肩で息を吐き崩れ落ちた男に背を向け、にこり、と新たな気配に先ほどまでとは百八十度反対の微笑を浮かべる。それは天使よりも余程自愛に満ちたものだが、彼にはそれが判らない。穏やかな笑みのまま手を差し伸べ、今まさに地に足をつけようとしていたかなでの補助をする。
すたり、とつま先から降りたかなでは、礼を言うと周りの惨状に目を瞬かせた。きょろきょろと辺りを見回すと、蓬生の後ろを覗き見て目を丸くする。
「・・・先輩?」
「かなで」
「大丈夫ですか、先輩!どうしたんです、こんなところで」
片腕で倒れそうな身体をやっとのことで支えている天使を目にしたかなでは、慌てて駆けつける。振り解かれた手をじっと眺め、蓬生は無言のまま眦を吊り上げる。だが蓬生の苛立ちにこちらに背を向けたままのかなでは気がつかなかった。
「帰ろう、かなで」
「え?」
「ここに来ては行けない」
「・・・先輩?」
かなでがこてりと首を傾げる。普段なら愛らしく映る仕草も、自分に向けられていないだけでどうしてこれほど苛立つのか。
無防備な肩に手をかけると強引にこちらに振り向かせた。バランスを崩した身体を抱きとめ黒い翼を羽ばたかせる。ぐん、と一気に距離を取り眼窩の男に笑いかけた。
「なぁ、見えとう?」
くっくっくと機嫌良く笑う。今まで何故あんなに生温い関係で満足していたのか。悪魔らしくさっさと蹴りをつけていれば良かったのに。自分より力のない存在を配下に置くなど容易に出来る。
遥か下に居る男が息を飲むのが伝わった。人でない自分たちは視界を飛ばすことが出来る。今から蓬生が何をしようとしているのか、敏感に悟った天使は羽を広げようとしたが押しつぶすように圧力をかけ地面に縫い付けてやった。空を飛ぶ手法を持たぬ人よりも惨めな姿は、どれほどあの誇り高い天使の矜持を傷つけたか。ああ、でもそれよりももっと傷つける行為をするのだ。全てを消し飛ばさないように加減を施す。
にたり、と微笑むと蓬生の雰囲気に飲まれるように震えたかなでの顎を掴んで顔を上げた。
「もっと、早うこうしておけばよかった」
囁きが終わるよりも早く口付ける。大きく目を見開いたかなでが暴れないよう身体を華奢な抱きしめ口腔内を弄った。
華奢な身体に見合う小さな舌を見付け出し絡め取る。ん、と小さな声を漏らしたかなでの喉奥まで征服する為に舌を伸ばした。上顎、歯茎、歯の裏側まで器用に舐め───蓬生の力を分け与える。少しずつ量を増やしていけば、痙攣しながら飲み込んでいく。
身体の構造を創り変えるには、それ相応の力が必要だ。一気に注いでは壊れてしまうかもしれない。注意深く量を測りなが進めれば、やがて美しい胡粉色の羽が徐々に落ち始める。ぽろぽろと落ちる羽は鱗が剥がれる様と良く似ていた。
予想外の反応に蓬生は目を見開く。今まで堕ちた天使たちは羽の色が徐々に黒く染まっていった。剥がれ落ちるのは見たことない。驚愕しつつも力を注ぐのを止めなければ、羽が舞う勢いが増した。
「やめろ、やめてくれ!!」
裏返った天使の悲鳴が上がる。何かを恐れるように掠れた声に、蓬生は益々勢いづいた。かなでと同族だからと所有者じみた台詞を吐いた男の言葉など聞き入れるつもりは毛頭ない。
「やめろ、悪魔!かなでが、・・・かなでが消える!」
耳に入る哀切に唇が持ちあがり気分が高揚した。そう。自分はかなでを消すのだ。そして、悪魔として創り変える。そうすれば蓬生の力を注いだかなでは、蓬生だけのものになる。想像するだけで楽しみになり、掻き抱く腕に力を篭めた。
「かなで、かなで、かなで、かなで、かなで!」
壊れたように繰り返される名。その間にも腕の中の感触が変わっていく。
異変に気がついたのは、かなでの羽の最後の一枚が落ちた時だった。
「・・・かなで、ちゃん?」
「あ・・・あぁ・・・」
身体を震わせたかなでの背には、『羽は存在しなかった』。羽を毟り取られた鳥のように、剥き出しの骨がそこにある。慌てて身体を離せば、自分の身体を両腕で抱きしめ小さくなった。羽がないため宙に浮けず、蓬生が離した所為でそのまま落下する。だが、苦痛に歪んだかなではその事実に気づいていない。
悲鳴を上げるのすら酷い苦痛を与えるらしい。掠れた声が途切れ途切れに耳に入る。負の感情を露にしたかなでを見るのは初めてで、呆然とその姿を見送った。
「かなで!!」
地面に叩きつけられる寸前、天使がかなでの身体を抱き取る。胸に包み込んだ身体を見て、男は絶望の眼差しを浮かべた。
「・・・かなでちゃん?」
眼窩にあるのは確かにかなでの筈だ。だが、その原型はすでに崩れ始めている。さらさらと砂が零れるように、身体がどんどん解けて行く。
「かなで!しっかりしろ、かなで!!」
頭皮が剥がれ、眼孔が剥き出しになり、唇が失せ、骨が現れる。瞬く間に、『かなで』という存在は崩れ去っていく。何物にも囚われるのを拒むかのように。何物も触れるのを許さないとばかりに。少しの欠片もなく、彼女を欲するものにとっては最も残酷な見せ方で。
抱き抱えていた存在が、微塵も無くなっても暫く天使は動かなかった。ぶつぶつとかなでの名を呟き、失ったものを探すために空を見詰める。
息を詰めその光景を見ていた蓬生は、瞬く間に起きた出来事に呆然と口を開いた。
「嘘・・・やろ」
それは本人すら聞き取るのが困難な、ささやかな声。だが、地面に足を付けた天使には敏感に聞き取れたらしい。憎しみを隠さない眼差しを蓬生に向ける。その羽が、端から見る見ると黒く染まり始めていた。堕天が始まったのだ。
「だから・・・だから、言ったんだ。俺は、お前に忠告した。かなでは、『神に愛された申し子』だと。神の寵愛を受けた、そして天使に愛された天使だとっ!その身に纏う力は、かなでだけのものにしては、大き過ぎると気づかなかったのか!幾重にも慎重に巻きつけられた呪に、気づかなかったのか!」
「・・・・・・」
「かなでには、触れてはならなかったんだ。貴様は、貴様たち穢れた存在は!俺たちの力が、かなでを滅ぼしてしまうと、俺は確かにに告げたのにっ!」
二対四枚の羽の内、二枚は完璧な黒に染まりきる。憎しみの量は堕天の速さを促進させる。そして、負の感情は悪魔にとって力となる。ぶわり、と白いローブが翻る。天使が扱えぬ禍禍しい力が場に満ちた。
「神は最初から決めていた。万が一、かなでが汚された時には己の手で消すと。天使たちは決めていた。万が一かなでが自分たちから離れるかもしれないのなら、彼女の魂を刻んでしまおうと。彼女を独占できるのは、俺たちの唯一神のみだとっ!かなでの存在は、神以外は触れてはいけなかったんだ!!」
一つ一つを理解するたびに、蓬生の意識は覚醒する。それは、つまり。蓬生が、かなでを消したのとどう違うのか。
「よくも、よくもかなでを奪ってくれたな!貴様など、魂すら残さず塵とかせ」
羽ばたきすらせず天使───否、元は天使だった存在は蓬生の前に現れた。怒りで瞳は充血し、普段の落ち着いた端正な容姿は何処にも見当たらない。憎しみに染まった魂は濁り、顔は歪に引きつっている。構えられた掌に、力が終結していった。
「消えろ、悪魔め」
最早自分こそ悪魔と呼ばれるに相応しい表情で、天使だった男は呟いた。凄みのある眼差しは、取り澄ましていた天使時代からは想像できない。だが、蓬生にはそんなことはどうでも良かった。
かなでは消えた。消えてしまった。
蓬生の力を全力で使い、先ほどから探しているのに何処にも居ない。欠片すら見つけられず、粉すらない。完全な消滅。存在全てを抹消された。目の前の天使や神と呼ばれる存在が、執着心故に呪を施し、何もかも残さず居なくなってしまった。
理解した瞬間、腹の底から憤怒が沸きあがる。目の前が赤く染まり、悪魔本来の姿に戻った。黒い羽を開き、額を突き破るように角が出す。結っている髪紐が吹き飛び髪が靡いた。瞳は色を変え爪が伸びる。
「貴様ら、よくも・・・よくもかなでちゃんの存在をっ」
「貴様の所為だ!貴様がかなでに触れるから」
「平等を論じる天使の癖に、何でそんな酷いことが出来たんや!」
「かなでは貴様に汚された。もう何処を探しても存在しないし、二度と会えない。構築できない」
『憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、』
他に何も考えられない。あるのは絶望。世界の何処にも存在が無いと判ってしまう自分への。何処にも存在しない彼女への。
力が徐々に溜まる。空間が歪み、地面が割れた。空は暗く染まり、奈落の果てが覗き見える。目の前の天使と自分の力がぶつかればただでは済まない。自分たちは跡形もなく消滅するだろうし、天上にも奈落にも爪あとが残る。それでもいい。それでも良いから力を振るわずに居られない。この感情が何処から沸きあがり、何処へ消えていくとしても、蓬生に後悔は無い。
「消えてしまえ!俺からあの子を奪った、天使など滅べばええんや!神など消えてしまえ!貴様らが存在する価値など、最早世界の何処を探しても見受けられん!」
「消えてしまえ!俺からあの子を奪った、貴様など微塵も残らずに!かなでがどれ程愛されていたか、慈しまれていたか、特別だったか何も知らぬくせに!ぽっと出て気軽に奪おうとするから、だからかなでは消滅した!」
平行線な意見。突き詰めれば一箇所に辿りつく答えを、蓬生が知る余地は無い。悪魔の彼は誰にもそれを教えてもらってないし、唯一教えられたかもしれない存在はもう居ない。
「うあぁぁぁァァァァあああ!!」
「うおォおォぉぉぉおおォお!!」
真っ向から力がぶつかる。亜空間へと繋がったそれは、草を、木を、土を、空を、少女が愛した全てを飲み込み消していく。
強大な力に飲み込まれ、身体が徐々に消えていく。指先から粉になり圧倒的な闇が侵食するが、瞼を閉じることはしない。
「あああぁぁぁァァあああ!」
「おぉぉぉォォォォおおォ!」
閉じぬ先に憎い仇の姿がある。焼き消えていく姿を目に映し、蓬生は薄っすらと笑みを刷いた。
それは永遠にも近く感じたが、実際は短い時間だったのだろう。消えていく身体を眺めつつ、意識だけ残った蓬生は何も無くなった空間をじっと見詰めた。
「 」
声帯は無くなり、名を呼べぬ少女を思い浮かべる。春の日差しのように暖かな笑みを気に入っていた。穏やかな雰囲気も、何処かとろい動きも、天使らしからぬ振る舞いも、突き詰めれば彼女の存在そのものを。手に入れようと躍起になったのも、失って発狂し見境無く力を振るったのも初めての経験だ。段々と消えていく意志を認識しつつ、蓬生は自分であった名残を必死で掻き集める。
「 」
もう一度、いつか会うことは出来るだろうか。残留思念を掻き集め、必死に生きる術を探す。悪魔でなくても良い。木でも、花でも、石でも良い。ただ、願うのは。
───もう一度だけ・・・。
最後の想いを紡ぐ前に、蓬生という存在は闇に解け消えた。
天上にはない地面に触れることが出来、奈落にはない空が仰げるそこは、天使と悪魔が出会っても見て見ぬふりをすると暗黙の了解が定まっていた。天使は悪魔に嫌悪を抱き、悪魔は天使に感心を持たない。拒絶こそすれ話を交わす存在は遥かに広がる境目で見受けられることはない。
蝙蝠に似た漆黒の羽を持つ蓬生も勿論関心がない一人だ。細く僅かに癖を持つ藤色の髪を緩く一つで結わえた彼は、艶気のある悪魔である。一見すれば上品で柔和だが、常に弧を描いている唇や細められた瞳からは表情を読むことは出来ず彼を一角ならない悪魔たらしめている。
誰を前にしても余裕のある態度を崩さず、気だるげで儚げな雰囲気を持っていた。悪魔としての能力も中々のもので、彼の相棒であるもう一人と共に奈落でも名の知れた十指に入る有能さだ。悪魔らしく享楽的で刹那を好む一面を持つ彼は、何かを『堕とす』手腕に長けていた。
この日蓬生が境目に遊びに来たのはただの気紛れだった。先日まで人間界に五十年ほど居座って遊んでいたのだが、そろそろ顔を出せとの相棒の言葉に渋々と故郷へと帰ってきたところで、境目に寄ったのはそこが帰り道の中間地点になるからだ。立寄る気になったのは天上から降り注ぐ日差しがあまりにも穏やかで心地よかったからだ。
蓬生は力ある悪魔としても有名だが、変わり者としても有名だった。天上の日差しを好む悪魔など、奈落中を探しても五人も居ないであろう嗜好だ。狂気の沙汰と呼ばれているが、そんなもの気にしない。所詮この世は力が全て。力なき弱きものがどれだけ群れ戯言を吐こうとも右から左へ聞き流せ、だ。我慢できぬほどに鬱陶しければ消してしまえば済む話で、指を鳴らすだけでその作業は完了する。
「ああ・・・ここがええな」
一際大きく、立派な木の根元に体を横たえると頭の後ろで腕を組む。瞼を閉じれば息をするのと同じ自然さで力が展開され、蓬生がいる場所を中心に一キロ程度を結界で包んだ。姿を見せなくするのではなく入った瞬間に別空間に飛ばされるそれは、蓬生の力場に足を踏み込んだ瞬間この木を通り越した場所に移動する。蓬生の力を考えれば悪戯に近い可愛らしい結界は、けれど強固で強力。なまじの天使や悪魔では存在にすら気づかないだろう。
麗らかな日差しを瞼の裏で受け止め、はぁと温い息を吐き出す。奈落では感じれない温もりは穏やかで心地よい。
「やっぱ、昼寝はええなぁ」
体質上あまり長く光りに当たれないが、気持ちよさにうっとりとする。日差しではなく月光を好む相棒から、変な奴だと常々言われるが気持ちいいものは仕方ない。蓬生ほど力が強ければ日差しを浴びたくらいで消滅する恐れもないし、さすがに一月も毎日繰り返せば体調を崩すがその程度だ。風の心地よさに目を細める余裕すらあった。
「・・・・・・?」
しばしまどろんでいれば、不意に空間が揺れる。違和感に目を開き気配を探るが遺物は見当たらず眉を寄せた。
気のせいと済ますには違和感が大きすぎたが、何も見つけられないのだから仕方ない。万一蓬生の結界を潜り抜けているのであれば、その存在は強大な力を持つことになる。鉢合わせをしたら面倒だが、その相手を絞るのは容易だ。消去法でいって、蓬生より力が上の存在など、天上も奈落も含めて一握りなのだから。そして違和感は敵にしては蓬生の力に馴染んでいた。大方相棒が一向に姿を表さぬ蓬生に痺れを切らしたというところだろう。
考えを一段楽させ、肩の力を抜く。ゆったりとした空気に身を任せた蓬生は、今度こそはっきりと感じた異変に身を起こした。
「・・・音?」
細く高く微かに聞こえるそれに、じとりと眉を寄せる。聞いたことがあるようなないような音に、すっかりと眠気を吹き飛ばされた蓬生は不機嫌に唇を窄めた。
「誰や、人の休息を邪魔する奴は。人の眠りを邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでまえっちゅうのを知らんのかい」
色々と間違った人間界の諺を口にすると、ぶわり、と自慢の羽を広げる。広げられた羽は蓬生の身体よりも大きく、一羽ばたきで身体が浮いた。
数度羽を動かして空へと昇る。空気を支配化に置けば、上昇速度が飛躍的に上がった。
先ほどまで背を凭れ掛けていた木の天辺と同じ高さまで上がると目を瞑る。意識を集中し、心の触手を伸ばせば情報が脳裏に入りこんだ。
「居た」
一瞬のビジョンで場所を特定させると身体を傾ける。目的地へは一息で辿りつき、羽を止めて急停止する。その勢いに木の葉が揺れ砂が巻き上がる。蓬生を中心として起こった風は、瞬きの間に周囲を揺らし去っていった。
「・・・え?」
蓬生の登場の瞬間から、動きを止めて固まっていた存在が間抜けな声を漏らした。ぽかん、と小さな口を開け大きな瞳を零れんばかりに見開いた相手は、蓬生もよく見る大きな羽を持っていた。
天使。
梔子の髪を肩で揃えた小さな天使は、どうやら女性らしい。白いローブから覗く肌は滑らかな象牙色、蕩けるような琥珀色の瞳に微かに染まった淡い頬。唇はサクランボと同じく艶やかで可愛らしい。随分と小さな体をしていて、吹けば折れてしまいそうな印象だ。そして何よりも特徴的なのは胡粉の羽。それ自体が発光するように何処までも上品に白く、長く生きた蓬生ですら初めて見る美しさだ。知っている上級天使たちよりも遥かに上質な色をしている。
先ほどまで聞こえていた音はきっと少女の両手にある楽器から奏でられていたのだろう。蓬生の位置まで距離があるのにどうやって音を届けたのかは判らなかったけれど。
呆然と口を開いたまま動かない天使を、好奇心のままじっくりと眺める。今までの天使は蓬生を見ると会話らしい会話もせずに挑んできたので、初めての機会に唇が緩んだ。何しろこの天使、随分ととろいらしく近づいても逃げないし、それどころか髪を触っても羽を弄っても動かない。
悪戯な手がローブの中に潜り込もうとした瞬間、漸く我に返ったらしい天使の少女が慌てて身を引いた。
「な・・・何するんですか、いきなり!?」
「いきなりやなかったらええの?」
「良いわけないです!人の髪引っ張ったり、ほっぺを摘んだり、羽を弄繰り回したり、失礼じゃないですか!」
小さい体を精一杯伸ばして怒りを伝える天使の少女の瞳はきらきらと輝いている。きっと興奮しているのだろう。肩を怒らせ腰に腕を当て柔らかな頬を河豚のように膨らませていた。
そんな幼げな姿に蓬生は目を丸くした。元々天使とは鼻持ちならないくらいに気位が高いのが普通だ。いつでも体裁を気にし、体面を取り繕っている。つん、と取り澄ましているのが標準で、悪魔如きと唾棄するのが彼らの生き様だ。
それがこの少女の素直な行為はなんだろう。感情を押さえない悪魔の子ほど狡猾でなく、感情を表に出さないのを誇りとする天子とも違い、真っ直ぐな想いがひしひしと伝わってくる。純粋な怒りを感じるがそれは醜いものではない。どちらかと言えば拗ねているように見え、蓬生は己の口元を掌で覆った。
「・・・可愛い」
「え?」
聞き取れなかったらしい天使の少女はこくり、と首を傾げる。その姿ですら蓬生に変な胸の高鳴りを伝えてきた。これはあれだ。人間流なら、壷に嵌ったとでも言うのだろうか。警戒心の欠如した態度も、蓬生の行動にすぐさま反応できないとろくささも、感情を素直に訴える態度も、醜悪に映らない仕草も全てが新鮮で面白い。
うずうず、と尻尾が揺らめく。鼠を甚振る猫と酷似した動きだが、残念にも少女は気がつかなかった。
「俺は蓬生。蓬生さんて呼んでくれてええよ」
「・・・はぁ」
「君は?天使のお嬢さん」
「お嬢さん??え・・・と、私はかなでって言います」
「かなで?・・・何処かで聞いた名やな」
何かが蓬生のアンテナに引っかかり首を傾げる。腕を組んでしばらく考え込んでみたが、結局何も思い出せなかった。
「まぁ、ええわ。小さいことは気にせんとこ」
取り合えず目の前の少女───かなで『で』遊ぶのを優先させた蓬生はにっこりと微笑んだ。それは優しく艶やかだが何処か油断できない色を湛えている。普通の天使であれば違和感に逃げるだろうが、蓬生が気に入った天使は何処までも鈍いらしい。蓬生の笑顔に釣られてにこり、と気の抜けた笑みを向けた。
無意識に手を伸ばすと、くしゃり、と梔子色の髪を撫でる。突然な行為に目を白黒させながらもかなでは蓬生の手を拒絶しない。
「なぁ、さっきの音はあんたが出しとうたんやろ?」
「音・・・?」
「そうや。細くて高い音。俺が居るところまで聞こえたん。あの木の下で昼寝しとったんやけど、すっかり目が覚めてもうたわ」
「あんなとこまで聞こえたんですか・・・!?それは、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。私、これを奏でるのが仕事なんですけど、天上では中々練習出来なくって」
「ああ、別に怒っておらんよ。ただ興味が沸いてん。切れ切れにしか聞こえんかったからやろうな。きちんと聞いてみたくて飛んで来たんや」
「飛んで・・・っ!そうだ、さっき見たんですけど、蓬生さんの羽黒くなかったですか!?」
「・・・・・・」
「もしかして・・・もしかして、蓬生さん悪魔なんじゃ」
おずおずと見上げてきた視線に警戒の色が見えどうしたものか、と思案する。ここで肯定するのは簡単だが、何だかそれでは折角見つけた少女が逃げてしまう気がした。
だが。
「もしそうなら、凄いです!私、悪魔って始めて見ます!羽、本当に黒いんですね」
かなでの発想は蓬生の斜め上を走っていた。嬉しそうに目を輝かせたかなでは、蓬生を好奇心一杯の目を向ける。
「なぁ、かなでちゃん。そんなに悪魔が珍しいんなら、俺と友達にでもなる?」
「え?」
「俺は当分奈落におる。かなでちゃんは、ずっと天上におるんやろ?なら、中間地点の境目のこの場所。この場所を俺らの秘密の場所にしよ。俺はここに昼寝に来て、かなでちゃんは俺の傍でその楽器の練習をする。どうや?」
問いかけながらも答えは判っていた。何しろ蓬生はやり手の悪魔だ。天使だって今までに何人も『堕として』いる。
嬉しそうな笑顔を答えの変わりにした少女は、素直に腕に持った楽器を構えた。
かなでの演奏の腕は全く大した物だ。組んだ腕に頭を乗せ、ゆったりと息を吐き出しながらまどろむ。音楽など奈落には存在しない上品な趣味で、人間界くらいでしか聞いたことがなかったが全くレベルが違う。かなでが弾いた音には色があり輝きがある。視認出来るほどきらきらしいそれは美しくも眩い。
神から与えられたと言うその楽器は、かなでの仕事の相棒でもあるらしい。音が流れる毎に溢れ出る奔流が辺りを包むと、その度に季節が変化する。蓬生が思っていたよりも、この天使の少女は強大な力を持つらしい。だが川の流れをホースに集約して花に水をやるのが難しいのと同じで、その大きすぎる力を繊細なコントロールで扱うには修練不足で、出会った日も特訓中だったそうだ。周りに与える影響が大きすぎるので誰も居ないであろう境目の奥に居たらしいが、なるほど。春の季節を誘導する音を奏でていたと言うのだから納得だ。
風変わりとは言え悪魔の蓬生を和ませる力を持つかなでは、きっと特異体質なのだろう。すぐに厭きると思っていた会合も回を重ねる毎に楽しみになり、今では次を考える始末。
瞼を閉じたまま、淡く苦笑する。何かに夢中になるなど、面倒だと思っていたのに。否。現在進行形で思っているのに。呆れるくらいにかなでに執着している自分を発見し、蓬生は信じられんね、と自分に向かって呟く。だがそんな淡い感情すら心地よい時間が穏やかに流れていった。
「・・・おや」
ある日いつも通りに待ち合わせ場所に向かった蓬生は、見慣れていないが見知った気配を敏感に感じ取り、ついと眉を上げた。二対四枚の羽を持つ自分とさして体格の変わらない姿を目にし、目を細める。
「何や、久しぶりやね」
一見普段と変わらないようでいて、僅かに口調に険が篭った。我ながら判り易過ぎると思わなくもないが、かなでと二人だけの秘密の場所に現れた乱入者に好感情は持てそうにない。黒い羽を操り近づけば、彼の表情も自分同様に歪んでいるのが見て取れた。亜麻色の緩やかな髪を持つ男は、少し垂れ目がちの瞳を尖らせる。
「かなでに近づくな」
「珍しく直球な台詞やん。いつものオブラートに包んだ言い方は何処に消えたん?」
「悪いが今はお前の言葉遊びに付き合う気はないんだ」
「上級天使の君らしくない余裕のなさやね。君、かなでちゃんの何なん?」
「───俺は、かなでの教育係だ」
「教育係?ふーん・・・教育係、ねぇ」
腕を組み、じとりと男を眺める。何処か居心地悪そうに居住まいを正した彼も、それだけでは理由が薄いと自覚しているのだろう。自分とは違った意味で得意のポーカーフェイスも微かに目尻が染まることで崩れている。
無性に胸の中に苛立ちが募り、気を許したら力が発現してしまいそうだ。胸に巣食う気色の悪い感情は初めてで、ここまで暴力的な気分になったのは久しぶり。これが何を意味するか聡い蓬生には判らないはずがなく、深呼吸をして昂ぶったそれを押さえ込む。
「とにかくっ、かなでにはもう会わないでくれ」
「どうして俺が君の言うことを聞かなあかんのん」
「かなでの為だと言っても、聞くつもりはないか」
「───・・・どういう意味や?」
「そのままの意味だ。最近、かなでの音は深みを増した。以前より力のコントロールも抜群で、効果を操作できるようになった」
「それなら万万歳やん」
「お前は、かなでの存在の意味を理解していないんだ」
「存在の、意味?」
「かなでは───かなでは、生まれてからまだ十七年しか経っていない」
「十七年!?」
行動が幼いとは思っていたが、まさかそんなに若いとは思っていなかった。人間でもまだ子供と呼ばれる年齢だ。長命の天使や悪魔からしてみれば、赤子も同然。だからこそ驚愕する。かなでの持つ力は、十年やそこらで身につくものではなく、生まれ持ってのものにしては強大過ぎる。かなでの力はまだ不安定だが、安定すれば蓬生すら凌駕する力を持っているかもしれないというのに。
唖然とする蓬生を見て、彼は苦く笑った。押し込めておくのが難しく、つい漏れてしまったような小さな笑み。淡く儚い印象のそれに、嫌な予感がして眉を顰める。
「お前も、判ってるんだろう?」
「・・・・・・」
「かなでの力はまだ赤子同然の天使に与えられるべき物じゃない。かなでは、比喩ではなく神に愛された申し子。一心に天使たちの愛も受ける、愛されるために生まれた存在。彼女の調べは矜持の高い天使の心を解し柔らかいものにする。それは神が与えたものではなく生まれ持った才能で、だからこそかなでに執着する者は多いんだ」
その言葉の意味の裏側を蓬生は正確に読み取った。じとり、と眉間の皺が寄り不快感が競り上がる。
「つまり、俺にかなでちゃんと会うなって言うとる訳やな?」
「そうだ」
「それは脅し?」
「いいや。───かなでの身を守るための、最善の手段だ」
真面目な顔にくつりと喉が震える。何と面白い冗談なのだろう。
「随分な言いようやな。かなでちゃんを殺されたくなかったら離れろ、なんて」
「・・・・・・」
「君たちはかなでちゃんを愛しとるんやろ?博愛主義者の天使さん」
「博愛主義者だからこそ、唯一の例外には執着するんだ。かなでは誰のものでもない。敢えて言うなら、彼女を創った神のもの。それなら俺たちも納得できる」
「でも、同族でもなく、むしろ敵対する悪魔である俺に関心を持つのは許せない。そういうことやろ?」
「───その、通りだ」
頷いた天使に蓬生は艶やかな微笑を向ける。細められた瞳には怪しい輝きが宿り、唇が孤を描く。悪魔らしい表情に目の前の天使は嫌悪の表情を浮かべた。
「嫌やね」
「・・・・・・」
「俺はかなでちゃんを手放す気はないし。むしろ、堕とす気満万や。かなでちゃんなら、可愛い子悪魔になると思わん?」
「悪魔めが」
「せやね。俺は悪魔や。それも君より力が強い。知っとうやろ?」
ぶわり、と力を解放する。木々がざわめき草が揺れる。蓬生を中心に力場が膨れ上がり、目の前の天使が防御を築く前に瞬く間に侵食する。二対四枚の羽を広げた天使は、辛うじて吹き飛ばされないように踏ん張った。その様子を眺めながら笑顔でじわじわと力を強める。球体状に力を纏め徐々に狭めていく途中、不意に感じた気配に力を霧散させた。
「!!?」
「こんにちは、かなでちゃん」
「こんにちは、蓬生さん」
肩で息を吐き崩れ落ちた男に背を向け、にこり、と新たな気配に先ほどまでとは百八十度反対の微笑を浮かべる。それは天使よりも余程自愛に満ちたものだが、彼にはそれが判らない。穏やかな笑みのまま手を差し伸べ、今まさに地に足をつけようとしていたかなでの補助をする。
すたり、とつま先から降りたかなでは、礼を言うと周りの惨状に目を瞬かせた。きょろきょろと辺りを見回すと、蓬生の後ろを覗き見て目を丸くする。
「・・・先輩?」
「かなで」
「大丈夫ですか、先輩!どうしたんです、こんなところで」
片腕で倒れそうな身体をやっとのことで支えている天使を目にしたかなでは、慌てて駆けつける。振り解かれた手をじっと眺め、蓬生は無言のまま眦を吊り上げる。だが蓬生の苛立ちにこちらに背を向けたままのかなでは気がつかなかった。
「帰ろう、かなで」
「え?」
「ここに来ては行けない」
「・・・先輩?」
かなでがこてりと首を傾げる。普段なら愛らしく映る仕草も、自分に向けられていないだけでどうしてこれほど苛立つのか。
無防備な肩に手をかけると強引にこちらに振り向かせた。バランスを崩した身体を抱きとめ黒い翼を羽ばたかせる。ぐん、と一気に距離を取り眼窩の男に笑いかけた。
「なぁ、見えとう?」
くっくっくと機嫌良く笑う。今まで何故あんなに生温い関係で満足していたのか。悪魔らしくさっさと蹴りをつけていれば良かったのに。自分より力のない存在を配下に置くなど容易に出来る。
遥か下に居る男が息を飲むのが伝わった。人でない自分たちは視界を飛ばすことが出来る。今から蓬生が何をしようとしているのか、敏感に悟った天使は羽を広げようとしたが押しつぶすように圧力をかけ地面に縫い付けてやった。空を飛ぶ手法を持たぬ人よりも惨めな姿は、どれほどあの誇り高い天使の矜持を傷つけたか。ああ、でもそれよりももっと傷つける行為をするのだ。全てを消し飛ばさないように加減を施す。
にたり、と微笑むと蓬生の雰囲気に飲まれるように震えたかなでの顎を掴んで顔を上げた。
「もっと、早うこうしておけばよかった」
囁きが終わるよりも早く口付ける。大きく目を見開いたかなでが暴れないよう身体を華奢な抱きしめ口腔内を弄った。
華奢な身体に見合う小さな舌を見付け出し絡め取る。ん、と小さな声を漏らしたかなでの喉奥まで征服する為に舌を伸ばした。上顎、歯茎、歯の裏側まで器用に舐め───蓬生の力を分け与える。少しずつ量を増やしていけば、痙攣しながら飲み込んでいく。
身体の構造を創り変えるには、それ相応の力が必要だ。一気に注いでは壊れてしまうかもしれない。注意深く量を測りなが進めれば、やがて美しい胡粉色の羽が徐々に落ち始める。ぽろぽろと落ちる羽は鱗が剥がれる様と良く似ていた。
予想外の反応に蓬生は目を見開く。今まで堕ちた天使たちは羽の色が徐々に黒く染まっていった。剥がれ落ちるのは見たことない。驚愕しつつも力を注ぐのを止めなければ、羽が舞う勢いが増した。
「やめろ、やめてくれ!!」
裏返った天使の悲鳴が上がる。何かを恐れるように掠れた声に、蓬生は益々勢いづいた。かなでと同族だからと所有者じみた台詞を吐いた男の言葉など聞き入れるつもりは毛頭ない。
「やめろ、悪魔!かなでが、・・・かなでが消える!」
耳に入る哀切に唇が持ちあがり気分が高揚した。そう。自分はかなでを消すのだ。そして、悪魔として創り変える。そうすれば蓬生の力を注いだかなでは、蓬生だけのものになる。想像するだけで楽しみになり、掻き抱く腕に力を篭めた。
「かなで、かなで、かなで、かなで、かなで!」
壊れたように繰り返される名。その間にも腕の中の感触が変わっていく。
異変に気がついたのは、かなでの羽の最後の一枚が落ちた時だった。
「・・・かなで、ちゃん?」
「あ・・・あぁ・・・」
身体を震わせたかなでの背には、『羽は存在しなかった』。羽を毟り取られた鳥のように、剥き出しの骨がそこにある。慌てて身体を離せば、自分の身体を両腕で抱きしめ小さくなった。羽がないため宙に浮けず、蓬生が離した所為でそのまま落下する。だが、苦痛に歪んだかなではその事実に気づいていない。
悲鳴を上げるのすら酷い苦痛を与えるらしい。掠れた声が途切れ途切れに耳に入る。負の感情を露にしたかなでを見るのは初めてで、呆然とその姿を見送った。
「かなで!!」
地面に叩きつけられる寸前、天使がかなでの身体を抱き取る。胸に包み込んだ身体を見て、男は絶望の眼差しを浮かべた。
「・・・かなでちゃん?」
眼窩にあるのは確かにかなでの筈だ。だが、その原型はすでに崩れ始めている。さらさらと砂が零れるように、身体がどんどん解けて行く。
「かなで!しっかりしろ、かなで!!」
頭皮が剥がれ、眼孔が剥き出しになり、唇が失せ、骨が現れる。瞬く間に、『かなで』という存在は崩れ去っていく。何物にも囚われるのを拒むかのように。何物も触れるのを許さないとばかりに。少しの欠片もなく、彼女を欲するものにとっては最も残酷な見せ方で。
抱き抱えていた存在が、微塵も無くなっても暫く天使は動かなかった。ぶつぶつとかなでの名を呟き、失ったものを探すために空を見詰める。
息を詰めその光景を見ていた蓬生は、瞬く間に起きた出来事に呆然と口を開いた。
「嘘・・・やろ」
それは本人すら聞き取るのが困難な、ささやかな声。だが、地面に足を付けた天使には敏感に聞き取れたらしい。憎しみを隠さない眼差しを蓬生に向ける。その羽が、端から見る見ると黒く染まり始めていた。堕天が始まったのだ。
「だから・・・だから、言ったんだ。俺は、お前に忠告した。かなでは、『神に愛された申し子』だと。神の寵愛を受けた、そして天使に愛された天使だとっ!その身に纏う力は、かなでだけのものにしては、大き過ぎると気づかなかったのか!幾重にも慎重に巻きつけられた呪に、気づかなかったのか!」
「・・・・・・」
「かなでには、触れてはならなかったんだ。貴様は、貴様たち穢れた存在は!俺たちの力が、かなでを滅ぼしてしまうと、俺は確かにに告げたのにっ!」
二対四枚の羽の内、二枚は完璧な黒に染まりきる。憎しみの量は堕天の速さを促進させる。そして、負の感情は悪魔にとって力となる。ぶわり、と白いローブが翻る。天使が扱えぬ禍禍しい力が場に満ちた。
「神は最初から決めていた。万が一、かなでが汚された時には己の手で消すと。天使たちは決めていた。万が一かなでが自分たちから離れるかもしれないのなら、彼女の魂を刻んでしまおうと。彼女を独占できるのは、俺たちの唯一神のみだとっ!かなでの存在は、神以外は触れてはいけなかったんだ!!」
一つ一つを理解するたびに、蓬生の意識は覚醒する。それは、つまり。蓬生が、かなでを消したのとどう違うのか。
「よくも、よくもかなでを奪ってくれたな!貴様など、魂すら残さず塵とかせ」
羽ばたきすらせず天使───否、元は天使だった存在は蓬生の前に現れた。怒りで瞳は充血し、普段の落ち着いた端正な容姿は何処にも見当たらない。憎しみに染まった魂は濁り、顔は歪に引きつっている。構えられた掌に、力が終結していった。
「消えろ、悪魔め」
最早自分こそ悪魔と呼ばれるに相応しい表情で、天使だった男は呟いた。凄みのある眼差しは、取り澄ましていた天使時代からは想像できない。だが、蓬生にはそんなことはどうでも良かった。
かなでは消えた。消えてしまった。
蓬生の力を全力で使い、先ほどから探しているのに何処にも居ない。欠片すら見つけられず、粉すらない。完全な消滅。存在全てを抹消された。目の前の天使や神と呼ばれる存在が、執着心故に呪を施し、何もかも残さず居なくなってしまった。
理解した瞬間、腹の底から憤怒が沸きあがる。目の前が赤く染まり、悪魔本来の姿に戻った。黒い羽を開き、額を突き破るように角が出す。結っている髪紐が吹き飛び髪が靡いた。瞳は色を変え爪が伸びる。
「貴様ら、よくも・・・よくもかなでちゃんの存在をっ」
「貴様の所為だ!貴様がかなでに触れるから」
「平等を論じる天使の癖に、何でそんな酷いことが出来たんや!」
「かなでは貴様に汚された。もう何処を探しても存在しないし、二度と会えない。構築できない」
『憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、』
他に何も考えられない。あるのは絶望。世界の何処にも存在が無いと判ってしまう自分への。何処にも存在しない彼女への。
力が徐々に溜まる。空間が歪み、地面が割れた。空は暗く染まり、奈落の果てが覗き見える。目の前の天使と自分の力がぶつかればただでは済まない。自分たちは跡形もなく消滅するだろうし、天上にも奈落にも爪あとが残る。それでもいい。それでも良いから力を振るわずに居られない。この感情が何処から沸きあがり、何処へ消えていくとしても、蓬生に後悔は無い。
「消えてしまえ!俺からあの子を奪った、天使など滅べばええんや!神など消えてしまえ!貴様らが存在する価値など、最早世界の何処を探しても見受けられん!」
「消えてしまえ!俺からあの子を奪った、貴様など微塵も残らずに!かなでがどれ程愛されていたか、慈しまれていたか、特別だったか何も知らぬくせに!ぽっと出て気軽に奪おうとするから、だからかなでは消滅した!」
平行線な意見。突き詰めれば一箇所に辿りつく答えを、蓬生が知る余地は無い。悪魔の彼は誰にもそれを教えてもらってないし、唯一教えられたかもしれない存在はもう居ない。
「うあぁぁぁァァァァあああ!!」
「うおォおォぉぉぉおおォお!!」
真っ向から力がぶつかる。亜空間へと繋がったそれは、草を、木を、土を、空を、少女が愛した全てを飲み込み消していく。
強大な力に飲み込まれ、身体が徐々に消えていく。指先から粉になり圧倒的な闇が侵食するが、瞼を閉じることはしない。
「あああぁぁぁァァあああ!」
「おぉぉぉォォォォおおォ!」
閉じぬ先に憎い仇の姿がある。焼き消えていく姿を目に映し、蓬生は薄っすらと笑みを刷いた。
それは永遠にも近く感じたが、実際は短い時間だったのだろう。消えていく身体を眺めつつ、意識だけ残った蓬生は何も無くなった空間をじっと見詰めた。
「 」
声帯は無くなり、名を呼べぬ少女を思い浮かべる。春の日差しのように暖かな笑みを気に入っていた。穏やかな雰囲気も、何処かとろい動きも、天使らしからぬ振る舞いも、突き詰めれば彼女の存在そのものを。手に入れようと躍起になったのも、失って発狂し見境無く力を振るったのも初めての経験だ。段々と消えていく意志を認識しつつ、蓬生は自分であった名残を必死で掻き集める。
「 」
もう一度、いつか会うことは出来るだろうか。残留思念を掻き集め、必死に生きる術を探す。悪魔でなくても良い。木でも、花でも、石でも良い。ただ、願うのは。
───もう一度だけ・・・。
最後の想いを紡ぐ前に、蓬生という存在は闇に解け消えた。
「東金さんなんて」
大きな瞳にみるみると薄い膜が張る。
突付けば零れ落ちてしまいそうなそれに、千秋は怯んだ。
卑怯だ、と思う。
普段笑顔の印象が強いかなでだからこそ、今にも涙が零れそうな姿はインパクトがあり罪悪感に胸が痛んだ。
暢気でおっとりとしたかなでが、激しい部分を持っているのは知っていた。
けれど射抜くように自分を見る彼女と、普段ほえほえと笑っている彼女とは姿が重ならず混乱しそうになる。
だが幾度目を瞬いても現実は変わらず、無表情の裏で混乱する。
たかだか女の涙だ。
今まで幾度も見てきたし、泣かせたことがないとは言わない。
けれどここまで動揺したのも、胸が痛くなるのも初めてで、ひっそりと眉を顰める。
そうするとかなでの大きな瞳は潤み、悪循環を辿っていた。
桜色の小さな唇が震えながらゆっくりと持ち上げられる。
ひゅっと息を飲み込む音が痛々しく、千秋はどんどん渋い顔になる。
そんな彼を睨み付けたかなでは重い息を吐き出した。
「東金さんなんて、大嫌いです」
言葉と同時に涙が零れた。
地味子と呼ばれても花がないと蔑んでも、涙一つ零さなかった彼女が泣いた。
胸が締め付けられ、呼吸が難しくなる。
苦しくて切なくてどうすればいいか判断が下せない。
けれど、零された涙以上に。
「───頼むから」
それ以上に。
「嫌いなんて、簡単に言うな」
放たれたその一言が痛いなんて。
自分勝手な自分に、どうにも嫌気が差すけれど。
涙を零す彼女に手を差し伸べずに告げるには厚かましいけれど。
判っていても、敢えて言いたい。
「嫌いなんて、言うな」
涙を零し続けるかなでを前に、壊れたレコーダーのように繰り返す。
そんな千秋を見て、かなではまた一粒涙を零し、千秋は無言でそれを拭った。
大きな瞳にみるみると薄い膜が張る。
突付けば零れ落ちてしまいそうなそれに、千秋は怯んだ。
卑怯だ、と思う。
普段笑顔の印象が強いかなでだからこそ、今にも涙が零れそうな姿はインパクトがあり罪悪感に胸が痛んだ。
暢気でおっとりとしたかなでが、激しい部分を持っているのは知っていた。
けれど射抜くように自分を見る彼女と、普段ほえほえと笑っている彼女とは姿が重ならず混乱しそうになる。
だが幾度目を瞬いても現実は変わらず、無表情の裏で混乱する。
たかだか女の涙だ。
今まで幾度も見てきたし、泣かせたことがないとは言わない。
けれどここまで動揺したのも、胸が痛くなるのも初めてで、ひっそりと眉を顰める。
そうするとかなでの大きな瞳は潤み、悪循環を辿っていた。
桜色の小さな唇が震えながらゆっくりと持ち上げられる。
ひゅっと息を飲み込む音が痛々しく、千秋はどんどん渋い顔になる。
そんな彼を睨み付けたかなでは重い息を吐き出した。
「東金さんなんて、大嫌いです」
言葉と同時に涙が零れた。
地味子と呼ばれても花がないと蔑んでも、涙一つ零さなかった彼女が泣いた。
胸が締め付けられ、呼吸が難しくなる。
苦しくて切なくてどうすればいいか判断が下せない。
けれど、零された涙以上に。
「───頼むから」
それ以上に。
「嫌いなんて、簡単に言うな」
放たれたその一言が痛いなんて。
自分勝手な自分に、どうにも嫌気が差すけれど。
涙を零す彼女に手を差し伸べずに告げるには厚かましいけれど。
判っていても、敢えて言いたい。
「嫌いなんて、言うな」
涙を零し続けるかなでを前に、壊れたレコーダーのように繰り返す。
そんな千秋を見て、かなではまた一粒涙を零し、千秋は無言でそれを拭った。
「かなでは本当に可愛いなあ」
にこにこと。満面の笑みを浮かべて頭を撫で続ける手を黙って享受すれば、益々機嫌がよくなったらしい彼は長い腕でかなでの体を抱きしめる。本当に血が繋がっているのかと疑問に思うくらいにある身長差のお陰で、小柄なかなでは彼の体に誂えたようにすっぽりと収まった。
本来ならこのような行動ははしたないと慎まなければ行けない身分にある二人だが、現在大地の仕事部屋である伯爵専用の執務室には他に人の姿はなく誰も注意するものはいない。
クリーム色の壁に古いながらも質の良い家具。光を取り入れる大き目の窓の脇には花瓶が置かれ、朝摘みの薔薇が飾られていた。窓からは広い庭が見え彼が相続した屋敷の大きさを想像させる。庭師が丹精に手入れした庭は壮観で、四季折々の花を咲かせていた。
途切れず花が咲いているのは屋敷の主の指示であり、同時に彼の最愛の妹の為でもある。主人が溺愛する存在は屋敷の使用人にとっても同様で、その広い場所はただ一人の少女の為と言っても過言ではなかった。
茶色の髪に甘いマスク、長身でスタイルのいい屋敷の主人である大地は、柔らかな雰囲気を持つ華奢で愛らしいかなでとは似ていない兄妹だ。国でも名家と名高い伯爵家の似ていない彼ら二人は、けれども貴族としてはあるまじき程に仲が良いと有名でもある。それは二人の両親が幼くして他界したことも理由の一つに上げれるだろうが、寄り添うように生きてきた二人の絆は生半可なものではなかった。
「そのドレス。先日一緒に見立てたものだろう?やっぱりかなでに良く似合うね」
「ありがとう、お兄様」
「ほら兄様に良く見せてごらん」
微笑みながら告げればはにかみ微笑んだかなでは、淡い黄色のドレスの端を持ちくるりと回る。幾重にもレースが重なるそれは少し子供っぽいデザインであったが、年よりも幼い顔立ちのかなでには本当に似合った。
兄の欲目でなく、かなでは可愛らしい。大地よりも一層薄い色をした髪を肩を越すくらいで切りそろえ、頬に掛かる髪が揺れるたびに触れたいと欲し手を伸ばしてしまいたくなる。大きな瞳は好奇心旺盛にきらきらと光り、浮かべる微笑は自愛に満ちている。春の木漏れ日のように安心感を与える穏やかな雰囲気を持ちながら、決して折れない凛とした芯も持っていた。思わず突付きたくなるくらいに柔らかそうな白い肌。頬は淡く染まり唇は桜色。
傾国の美女、と言うわけではないが守ってあげたいと庇護欲を掻き立てられる男は多く、社交界デビューしてこの方、かなでに持ちこまれる縁談は絶えない。
それにかなでには人に注目される理由がもう一つあった。
「それで?今度の社交界で弾く楽曲は決まったのかい?」
「はい。先日陛下から楽譜が贈られたでしょう?あれにしました」
「・・・陛下から、か」
かなでの言葉に大地は渋い表情をした。
大地の妹が、伯爵家の令嬢としてでなく注目される理由。それは秀でた楽器を奏でる腕にある。
貴族の娘として楽器を習うものは少なくないが、かなでほど見事に弾きこなせる存在を大地は知らない。かなでの演奏する曲はどれも独特の世界観を持ち、うっとり聞き惚れたり気がつけば涙が零れていたりなんていうのは当たり前の現象で世俗に塗れ滅多なことに感情を動かさなくなった貴族の間でも人気は高い。
だが令嬢であるかなでを演奏家として呼び寄せれる相手は限られており、その陛下、とかなでが呼んだこの国の第一皇子は特権を行使できる限られた人間の一人だった。第一皇子とは言っても王が現存すれば何歳になっても皇子と呼ばれる故で、彼の年齢は大地を二倍しさらに五つほど足したものだ。子供も数人おり一番上の子供は大地と同じ年である。
容姿端麗で頭脳明晰な策士だが、穏やかな笑みの奥にある見えない感情が大地に彼を拒絶させた。
生理的嫌悪感、とでもいうのだろうか。
国を治めるものとしての資質は類を見ないほどで尊敬しているのだが、彼の何かが大地に受け入れられない。それはかなでを眺める瞳であったり、演奏を褒める口調であったりと些細なものばかりであったが、立場は違えど性格的問題で対立している彼の息子の方が余程好意的に見えた。
ひっそりと眉間に皺を寄せた大地に、きょとりと大きな瞳を瞬かせたかなでは首を傾げる。心配そうに見上げてきた妹に苦笑すると、もう一度大きな掌を頭に載せた。
くしゃりと髪を撫でれば、飼い主に可愛がられる犬の如くほんわりと安堵し微笑む。この笑顔を守り抜きたいと、守らねばいけないと心密かに誓った。
「───かなでを、嫁に貰いたいですって?」
「そや。俺は本気やよ」
「到底信じられませんね。貴方のお噂を俺が知らないとでも?」
「いややな。噂は噂やで、榊君。それにそういうのはお互い様やろ?」
可愛らしい妹ちゃんにお兄様の交友関係教えてもええの?
細く長い指を唇に当てた男に大地は唇をかみ締めた。
薄紫色の長い髪を緩く纏めた優男───に見えて実のところ相当食えないこの国の第一皇子の第一子を睨みつける。いくら大地の立場が国でも有数のものとは言え、たかだか伯爵がするには不敬ととられても仕方ない表情にけれど彼は余裕を持った笑みを浮かべた。
こんな笑顔を浮かべるこの男は性質が悪いと大地は経験で知っている。何せその身分から幼い頃から彼の遊び相手として付き合ってきた大地だ。性格の不一致はともかく、能力的にも外見的にも彼と比較され続け切磋琢磨した分彼の性分も知り尽くしている。
ついでに、認めたくないが、彼が妹に向ける想いが本物であるのも知っていた。
「・・・本気ですか」
「当たり前や。俺が子供の頃からどれくらいかなでちゃんを想うとうか知っとうやろ」
「俺は、かなでを泣かすような真似をする男にかなでをくれてやる気はない」
「泣かせんよ。誰より一等大事にして、幸せにする。でろでろに甘やかして何でも我侭聞いたって、俺から離れれんように」
「最悪だ。よりによってお前みたいな性悪に付きまとわれるなんて。おかげでかなでの縁談は全て顔合わせ前に潰されるし、今じゃ行かず後家寸前とまで噂されてるんだぞ」
「ははは、素にも戻っとうよ榊君。よう言うわ。君かてどれほど条件がいい男でも、端から聞き入れるつもりはなかった癖に。兄妹の独占欲にしては行き過ぎと違うん?」
男の言葉に唇を噛み締めた。言われなくとも大地とて判っている。
かなでは大地の妹だ。
血を分けたただ一人の存在。世界中を探しても彼女の変わりは居らず、世界中を探しても彼女以上に特別は居ない。
かなでが微笑めば世界は色を鮮やかにする。
───何故なら、かなでは大地にとって生きている理由。
かなでが悲しめば世界は全て沈み込む。
───何故なら、かなでは大地にとって感情を左右する存在。
かなでが驚けばその愛らしさに胸が詰まる。
───何故なら、かなでは大地の心臓を握る人。
かなでが居れば大地は大地で居れる。
───何故なら、かなでこそが大地を大地足らしめる大地の一部。
大地の世界の中心はかなでで、他の誰かでも何かでもない。
笑顔を愛しいと思うが他の誰かへ向けられるなら無くなってしまえばいいと心から望む。
誰かの手に触れられれば、焼け焦げるような焦燥に駆られ相手を殺しかなでを束縛したいと願う。
涙を零しているのなら、悲しんでいるかなでを存分に甘やかし、泣かせた相手に報復と同時に麗辞を告げたい。 かなでを、俺に依存させてくれてありがとう、と。
目の前で哂う男は、大地が彼を知っているのと同様に大地を理解している。この醜くおぞましい、決して妹に抱くべきではない感情を見透かしているに違いない。
妹に触れたいと希い、その肌に余す事無く自分のものであると印をつけたいと欲する大地を。いっそ孕ませて何処にも逃がさないように屋敷の奥深くに監禁出来たなら、大地の心はどれだけ潤うか。幾度も願い、望み、けれど結局それが出来ないのは、それ以上に自由である今のかなでを愛してるから。
大地を見詰めるかなでの眼差しは敬愛と信頼に溢れている。その全てを踏み躙りたいと欲し、出来ない自分を骨身に染み渡るくらいに理解していた。
鉄錆臭い味が口内に広がり、切れたかと気づくがどうでもいい。
いつの間にか握り締めていた拳に爪が食い込み、誰にも犯すことが出来ない自分たちの絆───血の繋がりを疎んだ。
「俺にしとき、榊君。君かて馬鹿やない。知っとう筈や。あの人が、動き始めた事くらい」
彼の言うあの人、とは大地にも嫌になるくらいに覚えがある。
親子の情を感じさせない呼び名で自身の父を呼んだ男は、冴え瞳に侮蔑の色を滲ませ唇を歪めた。
そう。大地も知っている。
この数年、かなでがしかるべき年齢になるまで手を拱いて待っていた男の存在くらい。父と子ほどもある年齢差を気にせず、かなでを手に入れようと動き出した醜悪な存在を。
眉間に皺を刻み込み苦汁の表情を浮かべる。認めたくない。認めたくないが、大地には万が一彼がかなでを欲した際に、逆らうべき術を持ち合わせていなかった。
苦々しい想いを吐き出す為に、胸の奥から息を吐き出す。
妹に懸想するこの歪んだ兄妹愛も、一緒に吐き出せればいいものを。囚われ、縫い付けられるのを望んでいるのは自分自身だというのに。
「───お前は」
「・・・・・・」
「お前なら、かなでを守り通せると言うのか」
掠れる声で絞り出されたそれは、悔しさが滲み出ている。
兄として、男として愛した存在を守れない、守る術を持たないと嘆く声が。
そんな大地を先ほどまでとは違い静かな眼差しで見詰めた男は、こくりと一つ頷いた。
「俺には、それが出来る」
宣言され、大地は強く目を瞑る。
仕方がないのだ。他に手がない。
年寄りの戯れで妾の一人にされるより。認めたくないが、子供の頃から本気で彼女を想う相手にくれてやる方がずっとずっと納得できた。
その相手が例え自分と反りが合わずとも、大地自身認めることが出来るくらいに有能でかなでを幸せに出来る術を持ちえる相手なら尚の事。
掌で目元を覆う。
「妹を───・・・かなでを、頼む」
囁かれた声は我ながら風が吹けば飛ばされそうなくらいにささやかなものだった。
妹が嫁に出て数年。
大地に宣言したように、今では第一皇子の身分となった彼は側室を作らず、ただ一人かなでだけを愛し欲した。
今では鴛鴦夫婦として名を響かせている妹夫婦は、先日第一子を設けた。かなでに似て愛らしい容姿を持ち、彼女の旦那と似て聡明な瞳を持つその子供は、大地にとっても可愛らしい甥っ子で目に入れても痛くない。先日顔見せに来た彼らに申し入れ、彼を無理やり預からせてもらう程度に大地は甥っ子に心を砕いていた。
それが結果として幸いした。
大地がその訃報を聞いたのは、仕事を終え可愛い甥っ子の面倒を見ようと彼専用の部屋に向かう途中だった。地面が揺れたと錯覚し、世界が暗転するほどの衝撃を生まれて初めて受けた。
かなでたちの乗った馬車が不慮の事故で崖下に転落。
さらには遺体は谷が深すぎ捜索は無理だと。それを聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは最後に顔を合わせた時の二人の態度だ。
『お兄様』
『お前に兄呼ばわりされる気はない。気色悪い』
『まぁ、お兄様。私の旦那様だからお兄様の義弟で間違ってないでしょう?』
『かなでは俺の妹だけど、こんなクソ生意気な義弟を持った記憶はないね』
『はは。相変わらず素直やないね、お兄様』
笑った男は昔と違い何処か安定している。
それを齎したのが自分の妹だというのは誇りだが、それでも未だに奪われた感情の方が上だ。未練がましくも尚妹に執着している自分は何処まで歪なのか。
全てを知っている上で厚かましくかなでの肩を抱く男は、大地の葛藤も憤りも判った上で鼻で笑う。性格の悪さは健在で、だからこそ安心して預けられるのだろう。以前なら苛立ちこの世から消し去ってやりたいと切望したが、今日は何とか踏みとどまる。その理由は大地の腕に抱かれた存在であり、柔らかく小さなかなでの分身にあった。
初めて腕に抱く甥っ子は小さく、掌なんて指先くらいの大きさもない。柔らかで抱きしめれば壊れしまいそうなくらいに華奢でありながら、見上げる大きな瞳は真っ直ぐで好奇心に輝く。普段は人見知りをするという彼は、何故か大地には初対面から懐いた。
未だにかなでへの想いを捨てられず、結婚相手を決められない大地からすれば本来なら別の男との間に設けられた子供など忌避すべき存在としなければいけないのだろうが、それが出来なかったのはこの子の笑顔があまりにもかなでと似ていて、尚且つ瞳の色以外彼女の旦那との相違点を見受けられなかったからだろう。
憎むには子供はかなでに瓜二つすぎた。声を上げ笑う子供に大地も笑顔を返す。すると益々嬉しそうに笑う子供は、まるで子供の頃のかなでを髣髴とさせた。
『お兄様に懐いてくれて良かったわ』
『?どういう意味だ?』
『これで、何かあってもこの子はお兄様に面倒見て貰えるやろ、と判断したっちゅうことや。あ、この子の後継人はお兄様で手続きしてあるからよろしくな』
『だからお兄様と呼ぶなと言っているだろう。・・・どういうことだ?』
『ほんなん聞くん?いけずやな、お兄様。かなでちゃんと二人きりになりたいときには面倒見たってって意味に決まっとうやん』
『・・・・・・』
『ねぇお兄様』
『何だい、かなで』
『私たちが居ない時は、この子をお願いします』
ふわり、と見せた微笑は彼が知る通りに穏やかで優しげなものだったのに、何処か悲しげでもあり。
手を伸ばし抱きしめようとしたが、その前に彼女の旦那となった男に奪われた。じとりと睨みつければ、へらりと笑う瞳の奥に怒りが宿され唇を噛み腕を下ろす。
彼が見せる執着は本物で、愛情も本物。だからこそ、認めたのだろうと嫌がる自身を納得させた。きっと彼は何があってもかなでを離さない。例え、我が子を手放したとしても。
嫌な予感は往々にして当たるものだ。外れて欲しいと願うものは特に。二人が亡くなり葬儀が行われた数日後に、彼の幼馴染であり悪友でもあった男からの手紙が届いた。
内容を確認し、そこに書いてある文章に大地は唇を噛み締める。纏めるととても単純で、けれど大地には認めようもないものだった。
曰く以前第一皇子であった男、現在国の頂点に立つ人がかなでを欲したところから文章は始まっていた。
予防線を張り手を打ち出来うる限りの策を弄したものの、強引な現王は法律を歪めてでもかなでの存在を得ようとしたと。
だがかなでが選んだ男はそれを許せなかったらしい。全てを敵にまわしても、全てが自分から離れても、かなでが居なくなることだけは耐えられないと、彼らしくもない切々とした文章が続き。
『ごめんな、榊君。俺は、かなでちゃんを手放せん』
最後にはこの一言で締めくくられていた。
それを読み終えたとき、大地は悟った。馬車の転落は事故ではなく、故意であったのを。
震える掌が無意識に手紙を握りつぶす。
こんな筈ではなかった。かなでを死なせるために、彼に嫁がせたのではない。
幸せになって欲しいから、笑っているかなでを愛していたからこそ、自分の想いを殺してまで別の男の手に委ねたのだ。それを信じたからこそ、繋がれていた手を放したのだ。温かい家庭を築き、穏やかに年を取り、最後には笑って全てを終えられるように。
それなのに現実はどうだ。
最愛の妹は死に、残された子には親はなく、なのに全ての根源である男はのうのうと何も知らぬ顔で玉座に座り我が子の死を嘆く振りをし民の同情を買い叩く。
こんなことが許されるはずはない。許されていいはずがない。
今は主の居ない嘗ては笑顔の絶えない少女の部屋だった場所に足を踏み入れる。そこはかなでが家を出て行く前と寸分も違わず保存され、大地にとって聖域であった。
誰も入れぬように鍵をかけ、大地だけが入れるその場所。ふらふらと覚束ない足でベッドまで歩み寄ると、倒れ伏す様に崩れ落ちた。
「愛してる。愛してたんだ、世界中の誰よりも。俺を、置いていかないでくれ。かなでッ・・・!!」
血を吐き出すような悲痛な叫びは、最早届かないというのに。
それからの話を少しだけしよう。
妹の残した子供を榊伯爵は成人するまで後継人を務めた。
彼の政治的手腕は秀でており、時の賢王とまで呼ばれた当時の王を凌ぐほどの信頼を民から勝ち得、国を発展させるべき貢献を残す。
そして、当時の王が隠していた数々の不正及び着服金を書面で民に公開し、王族を悉く政界から隔絶した場所へと追いやった。
頂くべき王を失い混乱をきたした国の王へと、両親が没したため継承権を大幅に下げた甥っ子を据えると彼の戴冠式の翌日に姿を消したという。
史実に刻まれるほどの実績を残した伯爵はそれ以降表舞台に姿を現すことはなかった。彼の後を追うように火がつけられた屋敷は全焼し、美しく印象的な花園も、何処か温かみを感じさせた屋敷も全て失われ使用人達は口を噤み主からの持参金を片手に故郷へと消えた。
跡継ぎのなかった伯爵家は当時最大の権力を持ちながらも、新たなる王の意向で取り潰しとなった。
父も母も、そして最期の肉親すらも失った王はそれでも穏やかに笑ったという。
『これで、彼も漸くいけた』
その言葉を真に理解できたのは、発した本人だけであったが、その意味を彼が世間に伝えることは最後までなかったという。
にこにこと。満面の笑みを浮かべて頭を撫で続ける手を黙って享受すれば、益々機嫌がよくなったらしい彼は長い腕でかなでの体を抱きしめる。本当に血が繋がっているのかと疑問に思うくらいにある身長差のお陰で、小柄なかなでは彼の体に誂えたようにすっぽりと収まった。
本来ならこのような行動ははしたないと慎まなければ行けない身分にある二人だが、現在大地の仕事部屋である伯爵専用の執務室には他に人の姿はなく誰も注意するものはいない。
クリーム色の壁に古いながらも質の良い家具。光を取り入れる大き目の窓の脇には花瓶が置かれ、朝摘みの薔薇が飾られていた。窓からは広い庭が見え彼が相続した屋敷の大きさを想像させる。庭師が丹精に手入れした庭は壮観で、四季折々の花を咲かせていた。
途切れず花が咲いているのは屋敷の主の指示であり、同時に彼の最愛の妹の為でもある。主人が溺愛する存在は屋敷の使用人にとっても同様で、その広い場所はただ一人の少女の為と言っても過言ではなかった。
茶色の髪に甘いマスク、長身でスタイルのいい屋敷の主人である大地は、柔らかな雰囲気を持つ華奢で愛らしいかなでとは似ていない兄妹だ。国でも名家と名高い伯爵家の似ていない彼ら二人は、けれども貴族としてはあるまじき程に仲が良いと有名でもある。それは二人の両親が幼くして他界したことも理由の一つに上げれるだろうが、寄り添うように生きてきた二人の絆は生半可なものではなかった。
「そのドレス。先日一緒に見立てたものだろう?やっぱりかなでに良く似合うね」
「ありがとう、お兄様」
「ほら兄様に良く見せてごらん」
微笑みながら告げればはにかみ微笑んだかなでは、淡い黄色のドレスの端を持ちくるりと回る。幾重にもレースが重なるそれは少し子供っぽいデザインであったが、年よりも幼い顔立ちのかなでには本当に似合った。
兄の欲目でなく、かなでは可愛らしい。大地よりも一層薄い色をした髪を肩を越すくらいで切りそろえ、頬に掛かる髪が揺れるたびに触れたいと欲し手を伸ばしてしまいたくなる。大きな瞳は好奇心旺盛にきらきらと光り、浮かべる微笑は自愛に満ちている。春の木漏れ日のように安心感を与える穏やかな雰囲気を持ちながら、決して折れない凛とした芯も持っていた。思わず突付きたくなるくらいに柔らかそうな白い肌。頬は淡く染まり唇は桜色。
傾国の美女、と言うわけではないが守ってあげたいと庇護欲を掻き立てられる男は多く、社交界デビューしてこの方、かなでに持ちこまれる縁談は絶えない。
それにかなでには人に注目される理由がもう一つあった。
「それで?今度の社交界で弾く楽曲は決まったのかい?」
「はい。先日陛下から楽譜が贈られたでしょう?あれにしました」
「・・・陛下から、か」
かなでの言葉に大地は渋い表情をした。
大地の妹が、伯爵家の令嬢としてでなく注目される理由。それは秀でた楽器を奏でる腕にある。
貴族の娘として楽器を習うものは少なくないが、かなでほど見事に弾きこなせる存在を大地は知らない。かなでの演奏する曲はどれも独特の世界観を持ち、うっとり聞き惚れたり気がつけば涙が零れていたりなんていうのは当たり前の現象で世俗に塗れ滅多なことに感情を動かさなくなった貴族の間でも人気は高い。
だが令嬢であるかなでを演奏家として呼び寄せれる相手は限られており、その陛下、とかなでが呼んだこの国の第一皇子は特権を行使できる限られた人間の一人だった。第一皇子とは言っても王が現存すれば何歳になっても皇子と呼ばれる故で、彼の年齢は大地を二倍しさらに五つほど足したものだ。子供も数人おり一番上の子供は大地と同じ年である。
容姿端麗で頭脳明晰な策士だが、穏やかな笑みの奥にある見えない感情が大地に彼を拒絶させた。
生理的嫌悪感、とでもいうのだろうか。
国を治めるものとしての資質は類を見ないほどで尊敬しているのだが、彼の何かが大地に受け入れられない。それはかなでを眺める瞳であったり、演奏を褒める口調であったりと些細なものばかりであったが、立場は違えど性格的問題で対立している彼の息子の方が余程好意的に見えた。
ひっそりと眉間に皺を寄せた大地に、きょとりと大きな瞳を瞬かせたかなでは首を傾げる。心配そうに見上げてきた妹に苦笑すると、もう一度大きな掌を頭に載せた。
くしゃりと髪を撫でれば、飼い主に可愛がられる犬の如くほんわりと安堵し微笑む。この笑顔を守り抜きたいと、守らねばいけないと心密かに誓った。
「───かなでを、嫁に貰いたいですって?」
「そや。俺は本気やよ」
「到底信じられませんね。貴方のお噂を俺が知らないとでも?」
「いややな。噂は噂やで、榊君。それにそういうのはお互い様やろ?」
可愛らしい妹ちゃんにお兄様の交友関係教えてもええの?
細く長い指を唇に当てた男に大地は唇をかみ締めた。
薄紫色の長い髪を緩く纏めた優男───に見えて実のところ相当食えないこの国の第一皇子の第一子を睨みつける。いくら大地の立場が国でも有数のものとは言え、たかだか伯爵がするには不敬ととられても仕方ない表情にけれど彼は余裕を持った笑みを浮かべた。
こんな笑顔を浮かべるこの男は性質が悪いと大地は経験で知っている。何せその身分から幼い頃から彼の遊び相手として付き合ってきた大地だ。性格の不一致はともかく、能力的にも外見的にも彼と比較され続け切磋琢磨した分彼の性分も知り尽くしている。
ついでに、認めたくないが、彼が妹に向ける想いが本物であるのも知っていた。
「・・・本気ですか」
「当たり前や。俺が子供の頃からどれくらいかなでちゃんを想うとうか知っとうやろ」
「俺は、かなでを泣かすような真似をする男にかなでをくれてやる気はない」
「泣かせんよ。誰より一等大事にして、幸せにする。でろでろに甘やかして何でも我侭聞いたって、俺から離れれんように」
「最悪だ。よりによってお前みたいな性悪に付きまとわれるなんて。おかげでかなでの縁談は全て顔合わせ前に潰されるし、今じゃ行かず後家寸前とまで噂されてるんだぞ」
「ははは、素にも戻っとうよ榊君。よう言うわ。君かてどれほど条件がいい男でも、端から聞き入れるつもりはなかった癖に。兄妹の独占欲にしては行き過ぎと違うん?」
男の言葉に唇を噛み締めた。言われなくとも大地とて判っている。
かなでは大地の妹だ。
血を分けたただ一人の存在。世界中を探しても彼女の変わりは居らず、世界中を探しても彼女以上に特別は居ない。
かなでが微笑めば世界は色を鮮やかにする。
───何故なら、かなでは大地にとって生きている理由。
かなでが悲しめば世界は全て沈み込む。
───何故なら、かなでは大地にとって感情を左右する存在。
かなでが驚けばその愛らしさに胸が詰まる。
───何故なら、かなでは大地の心臓を握る人。
かなでが居れば大地は大地で居れる。
───何故なら、かなでこそが大地を大地足らしめる大地の一部。
大地の世界の中心はかなでで、他の誰かでも何かでもない。
笑顔を愛しいと思うが他の誰かへ向けられるなら無くなってしまえばいいと心から望む。
誰かの手に触れられれば、焼け焦げるような焦燥に駆られ相手を殺しかなでを束縛したいと願う。
涙を零しているのなら、悲しんでいるかなでを存分に甘やかし、泣かせた相手に報復と同時に麗辞を告げたい。 かなでを、俺に依存させてくれてありがとう、と。
目の前で哂う男は、大地が彼を知っているのと同様に大地を理解している。この醜くおぞましい、決して妹に抱くべきではない感情を見透かしているに違いない。
妹に触れたいと希い、その肌に余す事無く自分のものであると印をつけたいと欲する大地を。いっそ孕ませて何処にも逃がさないように屋敷の奥深くに監禁出来たなら、大地の心はどれだけ潤うか。幾度も願い、望み、けれど結局それが出来ないのは、それ以上に自由である今のかなでを愛してるから。
大地を見詰めるかなでの眼差しは敬愛と信頼に溢れている。その全てを踏み躙りたいと欲し、出来ない自分を骨身に染み渡るくらいに理解していた。
鉄錆臭い味が口内に広がり、切れたかと気づくがどうでもいい。
いつの間にか握り締めていた拳に爪が食い込み、誰にも犯すことが出来ない自分たちの絆───血の繋がりを疎んだ。
「俺にしとき、榊君。君かて馬鹿やない。知っとう筈や。あの人が、動き始めた事くらい」
彼の言うあの人、とは大地にも嫌になるくらいに覚えがある。
親子の情を感じさせない呼び名で自身の父を呼んだ男は、冴え瞳に侮蔑の色を滲ませ唇を歪めた。
そう。大地も知っている。
この数年、かなでがしかるべき年齢になるまで手を拱いて待っていた男の存在くらい。父と子ほどもある年齢差を気にせず、かなでを手に入れようと動き出した醜悪な存在を。
眉間に皺を刻み込み苦汁の表情を浮かべる。認めたくない。認めたくないが、大地には万が一彼がかなでを欲した際に、逆らうべき術を持ち合わせていなかった。
苦々しい想いを吐き出す為に、胸の奥から息を吐き出す。
妹に懸想するこの歪んだ兄妹愛も、一緒に吐き出せればいいものを。囚われ、縫い付けられるのを望んでいるのは自分自身だというのに。
「───お前は」
「・・・・・・」
「お前なら、かなでを守り通せると言うのか」
掠れる声で絞り出されたそれは、悔しさが滲み出ている。
兄として、男として愛した存在を守れない、守る術を持たないと嘆く声が。
そんな大地を先ほどまでとは違い静かな眼差しで見詰めた男は、こくりと一つ頷いた。
「俺には、それが出来る」
宣言され、大地は強く目を瞑る。
仕方がないのだ。他に手がない。
年寄りの戯れで妾の一人にされるより。認めたくないが、子供の頃から本気で彼女を想う相手にくれてやる方がずっとずっと納得できた。
その相手が例え自分と反りが合わずとも、大地自身認めることが出来るくらいに有能でかなでを幸せに出来る術を持ちえる相手なら尚の事。
掌で目元を覆う。
「妹を───・・・かなでを、頼む」
囁かれた声は我ながら風が吹けば飛ばされそうなくらいにささやかなものだった。
妹が嫁に出て数年。
大地に宣言したように、今では第一皇子の身分となった彼は側室を作らず、ただ一人かなでだけを愛し欲した。
今では鴛鴦夫婦として名を響かせている妹夫婦は、先日第一子を設けた。かなでに似て愛らしい容姿を持ち、彼女の旦那と似て聡明な瞳を持つその子供は、大地にとっても可愛らしい甥っ子で目に入れても痛くない。先日顔見せに来た彼らに申し入れ、彼を無理やり預からせてもらう程度に大地は甥っ子に心を砕いていた。
それが結果として幸いした。
大地がその訃報を聞いたのは、仕事を終え可愛い甥っ子の面倒を見ようと彼専用の部屋に向かう途中だった。地面が揺れたと錯覚し、世界が暗転するほどの衝撃を生まれて初めて受けた。
かなでたちの乗った馬車が不慮の事故で崖下に転落。
さらには遺体は谷が深すぎ捜索は無理だと。それを聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは最後に顔を合わせた時の二人の態度だ。
『お兄様』
『お前に兄呼ばわりされる気はない。気色悪い』
『まぁ、お兄様。私の旦那様だからお兄様の義弟で間違ってないでしょう?』
『かなでは俺の妹だけど、こんなクソ生意気な義弟を持った記憶はないね』
『はは。相変わらず素直やないね、お兄様』
笑った男は昔と違い何処か安定している。
それを齎したのが自分の妹だというのは誇りだが、それでも未だに奪われた感情の方が上だ。未練がましくも尚妹に執着している自分は何処まで歪なのか。
全てを知っている上で厚かましくかなでの肩を抱く男は、大地の葛藤も憤りも判った上で鼻で笑う。性格の悪さは健在で、だからこそ安心して預けられるのだろう。以前なら苛立ちこの世から消し去ってやりたいと切望したが、今日は何とか踏みとどまる。その理由は大地の腕に抱かれた存在であり、柔らかく小さなかなでの分身にあった。
初めて腕に抱く甥っ子は小さく、掌なんて指先くらいの大きさもない。柔らかで抱きしめれば壊れしまいそうなくらいに華奢でありながら、見上げる大きな瞳は真っ直ぐで好奇心に輝く。普段は人見知りをするという彼は、何故か大地には初対面から懐いた。
未だにかなでへの想いを捨てられず、結婚相手を決められない大地からすれば本来なら別の男との間に設けられた子供など忌避すべき存在としなければいけないのだろうが、それが出来なかったのはこの子の笑顔があまりにもかなでと似ていて、尚且つ瞳の色以外彼女の旦那との相違点を見受けられなかったからだろう。
憎むには子供はかなでに瓜二つすぎた。声を上げ笑う子供に大地も笑顔を返す。すると益々嬉しそうに笑う子供は、まるで子供の頃のかなでを髣髴とさせた。
『お兄様に懐いてくれて良かったわ』
『?どういう意味だ?』
『これで、何かあってもこの子はお兄様に面倒見て貰えるやろ、と判断したっちゅうことや。あ、この子の後継人はお兄様で手続きしてあるからよろしくな』
『だからお兄様と呼ぶなと言っているだろう。・・・どういうことだ?』
『ほんなん聞くん?いけずやな、お兄様。かなでちゃんと二人きりになりたいときには面倒見たってって意味に決まっとうやん』
『・・・・・・』
『ねぇお兄様』
『何だい、かなで』
『私たちが居ない時は、この子をお願いします』
ふわり、と見せた微笑は彼が知る通りに穏やかで優しげなものだったのに、何処か悲しげでもあり。
手を伸ばし抱きしめようとしたが、その前に彼女の旦那となった男に奪われた。じとりと睨みつければ、へらりと笑う瞳の奥に怒りが宿され唇を噛み腕を下ろす。
彼が見せる執着は本物で、愛情も本物。だからこそ、認めたのだろうと嫌がる自身を納得させた。きっと彼は何があってもかなでを離さない。例え、我が子を手放したとしても。
嫌な予感は往々にして当たるものだ。外れて欲しいと願うものは特に。二人が亡くなり葬儀が行われた数日後に、彼の幼馴染であり悪友でもあった男からの手紙が届いた。
内容を確認し、そこに書いてある文章に大地は唇を噛み締める。纏めるととても単純で、けれど大地には認めようもないものだった。
曰く以前第一皇子であった男、現在国の頂点に立つ人がかなでを欲したところから文章は始まっていた。
予防線を張り手を打ち出来うる限りの策を弄したものの、強引な現王は法律を歪めてでもかなでの存在を得ようとしたと。
だがかなでが選んだ男はそれを許せなかったらしい。全てを敵にまわしても、全てが自分から離れても、かなでが居なくなることだけは耐えられないと、彼らしくもない切々とした文章が続き。
『ごめんな、榊君。俺は、かなでちゃんを手放せん』
最後にはこの一言で締めくくられていた。
それを読み終えたとき、大地は悟った。馬車の転落は事故ではなく、故意であったのを。
震える掌が無意識に手紙を握りつぶす。
こんな筈ではなかった。かなでを死なせるために、彼に嫁がせたのではない。
幸せになって欲しいから、笑っているかなでを愛していたからこそ、自分の想いを殺してまで別の男の手に委ねたのだ。それを信じたからこそ、繋がれていた手を放したのだ。温かい家庭を築き、穏やかに年を取り、最後には笑って全てを終えられるように。
それなのに現実はどうだ。
最愛の妹は死に、残された子には親はなく、なのに全ての根源である男はのうのうと何も知らぬ顔で玉座に座り我が子の死を嘆く振りをし民の同情を買い叩く。
こんなことが許されるはずはない。許されていいはずがない。
今は主の居ない嘗ては笑顔の絶えない少女の部屋だった場所に足を踏み入れる。そこはかなでが家を出て行く前と寸分も違わず保存され、大地にとって聖域であった。
誰も入れぬように鍵をかけ、大地だけが入れるその場所。ふらふらと覚束ない足でベッドまで歩み寄ると、倒れ伏す様に崩れ落ちた。
「愛してる。愛してたんだ、世界中の誰よりも。俺を、置いていかないでくれ。かなでッ・・・!!」
血を吐き出すような悲痛な叫びは、最早届かないというのに。
それからの話を少しだけしよう。
妹の残した子供を榊伯爵は成人するまで後継人を務めた。
彼の政治的手腕は秀でており、時の賢王とまで呼ばれた当時の王を凌ぐほどの信頼を民から勝ち得、国を発展させるべき貢献を残す。
そして、当時の王が隠していた数々の不正及び着服金を書面で民に公開し、王族を悉く政界から隔絶した場所へと追いやった。
頂くべき王を失い混乱をきたした国の王へと、両親が没したため継承権を大幅に下げた甥っ子を据えると彼の戴冠式の翌日に姿を消したという。
史実に刻まれるほどの実績を残した伯爵はそれ以降表舞台に姿を現すことはなかった。彼の後を追うように火がつけられた屋敷は全焼し、美しく印象的な花園も、何処か温かみを感じさせた屋敷も全て失われ使用人達は口を噤み主からの持参金を片手に故郷へと消えた。
跡継ぎのなかった伯爵家は当時最大の権力を持ちながらも、新たなる王の意向で取り潰しとなった。
父も母も、そして最期の肉親すらも失った王はそれでも穏やかに笑ったという。
『これで、彼も漸くいけた』
その言葉を真に理解できたのは、発した本人だけであったが、その意味を彼が世間に伝えることは最後までなかったという。
「・・・かなでちゃんにてぇださんといて」
むすりと不機嫌に頬を膨らまし、不満を訴える教え子に彼は情けなく眉を下げた。
目の前にはどう見ても年下の高校生くらいにしか見えない可愛らしい少女と、その彼女のスカートにへばりつき後ろから睨みつけてくるクラスの中でも優秀な子供。
たどたどしい口調ながらも明確に意思の伝わる言葉に、彼はどうすればいいかと目の前の少女に助けを求める。
すると春の日差しのように穏やかな笑みを浮かべたその少女は、スカートを握る子供の手をきゅっと上から包み込んだ。
「駄目よ、先生にそんなこと言ったら。いつもお世話になってるでしょう?」
「でも、せんせいかなでちゃんにみほれとった。かなでちゃん、おれのやのに」
子供の癖によく難しい言葉を知っているなと思いつつ、彼は頭をガシガシとかく。
実際見惚れていたのは本当だ。
今日少しだけ迎えが遅れるから直接幼稚園に迎えに来ると告げられた子供の手を引き、バスを見送ったのはつい数十分前。
普段は電話でしか遣り取りしない保護者と対面するのは僅かな緊張感を得たけれど、現れたのは随分と可愛らしい女の子で、てっきり両親のどちらかが来ると思っていた彼はぽかんと口を開けて可愛らしい彼女をじっと見詰めた。
幼稚園に勤めて数年のひよっこ教師は、愛らしい少女にすっかりと魅了されてしまった。
彼女居ない暦=幼稚園づとめ暦というのも不味かったかもしれない。
だが園児がそれと悟れるほど判りやすい顔をしていたのかと思うと、赤面をとめる方法が見つからない。
かかかっとトマトのように顔を赤らめた彼は、保護者の中でも評判の良い爽やかスマイルを浮かべた。
「えと、保護者の方ですか?」
「はい。うちの子がいつもお世話になっています」
うちの子との表現に一瞬首を傾げるも、きっと年の離れた兄弟だろうと納得する。
母親と判断するには彼女は余りにも若く、そして無防備だった。
庇護欲を掻き立てられる華奢な体つきに色白な肌。雛みたいなふわふわの髪に、大きな琥珀色の瞳。
浮かべる表情はあくまで柔らかでおっとりとしている。
はっきり言うと好みのストレートど真ん中で、是非お近づきになりたいと鼻息が荒くなる。
だが足を踏み出そうとした瞬間。
「いた!!?」
「・・・・・・」
「?どうかされました?」
「い、いえ」
爪先を鈍い衝撃が襲い、涙目になりながらも弁解する。
ちらりと視線を下げれば、不機嫌な顔をした教え子が靴のかかとで思い切り足を踏んづけている最中だった。
怒りたい。けれどこの少女の前では怒れない。
複雑なジレンマに頭を悩ます。
いっそ目の前の少女が気づいてくれればいいのだが、すこしばかり鈍いのかほえほえした笑顔を浮かべるだけだ。
それすら可愛いなんて卑怯だと思いながらも、彼はじっと耐え忍ぶ。
だが彼の我慢は実を結ばないものだと、次の瞬間には悟る羽目になった。
「かなでちゃん、坊はまだなん?」
「蓬生さん」
「おとんまできとうたの?」
「そや。かなでちゃん一人で行かせるわけない。見てみ、坊。おとんの心配が判るやろ?」
「・・・・・・」
突然現れた長髪の麗人が、少女の肩を引き寄せると、教え子に顔を近づけて訳知り顔で訴えた。
というより、その距離なら自分の子供が何をしてるか判るだろうに、何故注意しないと彼は内心で激しく突っ込む。
しかも会話の内容は意味深で、背筋を嫌な汗が流れた。
子供は初め嫌そうに父親の登場を眺めていたが、やがて納得したとばかりに一つ頷くと少女の隣へと並ぶ。
そして瑞々しく可愛らしい笑顔でこう言った。
「おかあはん、かえろ?おれ、おやつたべたいわ」
「え?」
その瞬間、世界は逆周りを初め、飛んでいたエンジェルは悉く打ち落とされる。
『おかあはん』?『おかあはん』ってあの『おかあはん』だろうか。
ぐるぐると頭を悩ます彼は、教え子と少女───実は彼の姉でなく母親だった───がいなくなったのにも気づかずに、呆然と立ち尽くす。
そんな彼の肩を、蓬生と呼ばれた美男子がぽんと柔らかく叩いた。
「と言う訳で、俺のかなでちゃんに手ぇ出すの止めてな?俺も坊も独占欲が激しいからきっちりと報復させてもらうで」
男から見てもたいそう魅力的な笑顔だったが、もう二度と見たくないと涙ながらに考えた彼はきっと被害者に違いない。
むすりと不機嫌に頬を膨らまし、不満を訴える教え子に彼は情けなく眉を下げた。
目の前にはどう見ても年下の高校生くらいにしか見えない可愛らしい少女と、その彼女のスカートにへばりつき後ろから睨みつけてくるクラスの中でも優秀な子供。
たどたどしい口調ながらも明確に意思の伝わる言葉に、彼はどうすればいいかと目の前の少女に助けを求める。
すると春の日差しのように穏やかな笑みを浮かべたその少女は、スカートを握る子供の手をきゅっと上から包み込んだ。
「駄目よ、先生にそんなこと言ったら。いつもお世話になってるでしょう?」
「でも、せんせいかなでちゃんにみほれとった。かなでちゃん、おれのやのに」
子供の癖によく難しい言葉を知っているなと思いつつ、彼は頭をガシガシとかく。
実際見惚れていたのは本当だ。
今日少しだけ迎えが遅れるから直接幼稚園に迎えに来ると告げられた子供の手を引き、バスを見送ったのはつい数十分前。
普段は電話でしか遣り取りしない保護者と対面するのは僅かな緊張感を得たけれど、現れたのは随分と可愛らしい女の子で、てっきり両親のどちらかが来ると思っていた彼はぽかんと口を開けて可愛らしい彼女をじっと見詰めた。
幼稚園に勤めて数年のひよっこ教師は、愛らしい少女にすっかりと魅了されてしまった。
彼女居ない暦=幼稚園づとめ暦というのも不味かったかもしれない。
だが園児がそれと悟れるほど判りやすい顔をしていたのかと思うと、赤面をとめる方法が見つからない。
かかかっとトマトのように顔を赤らめた彼は、保護者の中でも評判の良い爽やかスマイルを浮かべた。
「えと、保護者の方ですか?」
「はい。うちの子がいつもお世話になっています」
うちの子との表現に一瞬首を傾げるも、きっと年の離れた兄弟だろうと納得する。
母親と判断するには彼女は余りにも若く、そして無防備だった。
庇護欲を掻き立てられる華奢な体つきに色白な肌。雛みたいなふわふわの髪に、大きな琥珀色の瞳。
浮かべる表情はあくまで柔らかでおっとりとしている。
はっきり言うと好みのストレートど真ん中で、是非お近づきになりたいと鼻息が荒くなる。
だが足を踏み出そうとした瞬間。
「いた!!?」
「・・・・・・」
「?どうかされました?」
「い、いえ」
爪先を鈍い衝撃が襲い、涙目になりながらも弁解する。
ちらりと視線を下げれば、不機嫌な顔をした教え子が靴のかかとで思い切り足を踏んづけている最中だった。
怒りたい。けれどこの少女の前では怒れない。
複雑なジレンマに頭を悩ます。
いっそ目の前の少女が気づいてくれればいいのだが、すこしばかり鈍いのかほえほえした笑顔を浮かべるだけだ。
それすら可愛いなんて卑怯だと思いながらも、彼はじっと耐え忍ぶ。
だが彼の我慢は実を結ばないものだと、次の瞬間には悟る羽目になった。
「かなでちゃん、坊はまだなん?」
「蓬生さん」
「おとんまできとうたの?」
「そや。かなでちゃん一人で行かせるわけない。見てみ、坊。おとんの心配が判るやろ?」
「・・・・・・」
突然現れた長髪の麗人が、少女の肩を引き寄せると、教え子に顔を近づけて訳知り顔で訴えた。
というより、その距離なら自分の子供が何をしてるか判るだろうに、何故注意しないと彼は内心で激しく突っ込む。
しかも会話の内容は意味深で、背筋を嫌な汗が流れた。
子供は初め嫌そうに父親の登場を眺めていたが、やがて納得したとばかりに一つ頷くと少女の隣へと並ぶ。
そして瑞々しく可愛らしい笑顔でこう言った。
「おかあはん、かえろ?おれ、おやつたべたいわ」
「え?」
その瞬間、世界は逆周りを初め、飛んでいたエンジェルは悉く打ち落とされる。
『おかあはん』?『おかあはん』ってあの『おかあはん』だろうか。
ぐるぐると頭を悩ます彼は、教え子と少女───実は彼の姉でなく母親だった───がいなくなったのにも気づかずに、呆然と立ち尽くす。
そんな彼の肩を、蓬生と呼ばれた美男子がぽんと柔らかく叩いた。
「と言う訳で、俺のかなでちゃんに手ぇ出すの止めてな?俺も坊も独占欲が激しいからきっちりと報復させてもらうで」
男から見てもたいそう魅力的な笑顔だったが、もう二度と見たくないと涙ながらに考えた彼はきっと被害者に違いない。
更新内容
|
(06/28)
(04/07)
(04/07)
(04/07)
(03/31)
(03/30)
(03/30)
(03/30)
(03/30)
(03/25)
(03/25)
(03/25)
(03/25)
(03/24)
(03/24)
(03/24)
(03/23)
(03/14)
(03/14)
(03/13)
(03/13)
(03/13)
(03/11)
(03/10)
(03/08)
カテゴリー
|
リンク
|
フリーエリア
|