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【燃え盛る炎に巻かれて】

その人はいつも笑っているイメージの人だ。
貧乏に苦しみ手が水仕事で荒れて血だらけになっても、寒い冬に防寒具が満足に得られず震えながら眠った夜も、親が居ないだけで理不尽に詰られても、それでも微笑みが絶えない人だった。
悠人よりも一つ年上のその人の名前は、小日向かなでと言った。



「かなでさん!」
「・・・あれ、ハルくん?どうしたの、そんなにほっぺ膨らまして」
「どうしたのじゃないです!あなたは力が弱いのに、またそんな無茶をして!」

買い物袋を両手で抱えていたかなでから、無理やりそれを奪い取る。
昔は見上げていた視線も今では見下ろす側に変わった。
かなではもう20歳で、悠人は19だ。
身体的な差が出来始め、強くなりたいと体を鍛えていた悠人は見た目よりも遥かに力があり、大してかなでは華奢で小さな見た目通りにはっきりいって非力だ。
その上どうにもとろ臭く、運動神経もぶつりと切れている。
見た目の年よりも若く見える可愛らしさは近所の若い男性から絶大な支持を得ており、朗らかで愛らしい雰囲気は老若男女問わず人気がある。
数年前から再び同居し始めたこの人は、悠人の血の繋がらない姉でもあるが、同時に酷く手の掛かる妹のような人。

悠人とかなでは幼い頃を同じ孤児院で過ごした。
何処の町でも同じだろうが、孤児院の経営は苦しく質素倹約が掲げられていた。
雨が降れば天井から染み出し、冬でも風が入り込むそこは、家というより掘建て小屋に近かったけれど、家族が居る帰るべき場所だった。
貧乏で生活は常に苦しく困窮に喘いでいても、共に暮らしたシスターは優しく子供達は兄弟だ。
喧嘩もしたし自分を哀れみもした。何故、町の人間は家族がいるのに自分には居ないのかと、シスターを責めたこともある。
けれど彼らはいつでもそんな悠人を見捨てず懇切丁寧に理を説き、そんな悠人の傍にはいつも同じ境遇のかなでが居てくれた。

かなでは孤児院に居るメンバーの中でもマイペースで少し変わり者の女の子だった。
冬場の水仕事も夏場の畑仕事も文句一つ言わずにいつでも笑顔で引き受けて、泣く子があれば宥め、腹を空かせた家族が居れば自分は我慢してでも少ない食事を分け与えた。
彼女の微笑みは絶えることなく、いつか彼女自身が天使かもしれないとしルターが笑い混じりに話していたのを覚えている。
かなではないものを嘆くのではなく、与えられたものに感謝して生きていく少女だったから。
そしてその与えられた少ないものを、惜しげもなく人に分け与えれる人でもあった。
だから何時だって彼女の身なりは孤児院で一番汚くて、何時だって彼女の手から血が流れていた。体は痩せ細り木の枝のようで、発達不良な体は他の家族と比べても著しい。
それでも微笑みの温かさは変わらず魅力的で、かなでが可愛らしい少女であるのは損ねられなかった。

そんなかなでは孤児院にあった楽器に唯一興味を示し、最初はピアノを、次は古びたヴァイオリンを独学で学び、ついには義務として通っていた学校でその腕を教師に買われ音楽学校へ特待生として入学した。
彼女に投資をしたいと申し出た男の誘いにかなでが孤児院を出て行ったのは13の春。
悠人はその時身も世もなく泣きじゃくり、かなでの服から離れなかった。
かなでは悠人が物心ついたときからずっと一緒に居てくれた、本物の姉と変わらぬ存在で、悠人の心の支えであったから。
それでもかなでのためだとシスターに説得され、泣きながら見送った。その後数年は手紙での遣り取りしかしておらず、16を過ぎ悠人も孤児院を卒業する年になった。
そんな折に、かなでからの手紙が再び届いた。
『一緒に暮らさない?』と。

かなでは王都の新進気鋭の音楽家のひとりとなって活躍している最中らしく、ヴァイオリンの腕は王宮に招かれ演奏するまでになったらしい。
パトロンとなった人のお陰だといつでも言っているが、きっとそんなに甘いものな訳がない。
微笑みの裏で血が滲むような努力を繰り返しその地位に辿り着いたに違いないのだ。悠人の最愛の姉は、とても努力家だったから。
嬉しい誘いだったが断った。漸く安定した生活を送り始めたかなでの足を引っ張りたくなかったし、足手まといは嫌だった。
勉強は続けたかったから近所で働きながら学校へ通うと手紙を送ったら、なんとその翌週にはかなで本人が迎えに来てしまった。

久しぶりに会った人は孤児院に居た頃からすると随分と綺麗になった。手に垢切れの後はなく、着ている衣服につぎはぎもない。
浮かべる微笑みは変わらないが、女性らしく曲線を描いた体にさらさらと靡く髪。
大きな瞳を細めて微笑んだ彼女は、『来ちゃった』と昔と変わらない笑顔で悠人に手を差し伸べた。


成り行きで始まった彼女との生活だったが、悠人はとても感謝していた。
かなではややおせっかいな部分はあるが、無条件に悠人を愛してくれる。
本当は勉強を続けたがっていた悠人のために学費を出し、大人になれば返してくれれば良いと面倒を見てくれる。
お金が稼げるようになってすぐから孤児院へ仕送りしているらしい彼女との生活は、けれどあの頃に比べれば天国のようなものだった。
ここ数年で孤児院の暮らしは見違えるようになったが、きっとそれもかなでのお陰だったに違いない。
かなでは恩を着せたりしない。出来るからやる。やりたいからやらせての一点張りで、だから代わりに忙しいかなでの家事を取り仕切るようになった。
幸い細かい作業は苦手ではなかったし、かなでとの生活は波乱万丈に飛んで楽しいものだ。
前線で活躍するかなでの生活は音楽漬けだが、音楽そのものを愛する彼女にその生活は苦にならない。
始めは予想以上に忙しい彼女の生活に目を丸くしたが、2年以上共に暮らせばいい加減慣れる。
大きくはないが住み心地のいい赤い屋根の家は、昔少女が望んだとおりに大きな犬が一匹と、気紛れな猫が一匹住んでいる。
小さな庭には花壇があって、花の手入れは悠人がしていた。

近所の人に挨拶しながら両手が塞がっている悠人の代わりに玄関を開けたかなでは、へらり、と笑って家に入る。

「おかえり、ハルくん」
「ただいま、かなでさん」

こんな些細な遣り取りが、二人にとって幸せだった。




「舞踏会?」
「そう。今日の夜に行くって言ってなかったっけ?」
「言ってないですよ!もう、夕飯の準備済んじゃったじゃないですか!!」
「あ、家に帰ってから食べるよ」
「───?舞踏会なら食事は出るんじゃないんですか?」
「ふふ、ハルくんたら。私は貴族じゃなくて音楽家だよ?舞踏会は参加するんじゃなくてお仕事で行くの」
「ドレスの準備は出来てるんですか?」
「うん。この間今日のためにって準備してもらったから」
「・・・あの、パトロンの男に?」
「うん。凄いよねぇ。私と同じ年なのに、もう領主の仕事をしてらっしゃるんだもの。彼に目をかけてもらえなかったら私もハルくんもこの場所に居られなかったから、感謝しなきゃね」

くすくすといつも通りに微笑んだかなでに、悠人は苦い表情で押し黙った。
確かに悠人とかなでが一緒に暮らせるのも、かなでが孤児院へ支援金を送れるのも彼女のパトロンが彼女の才能を発掘し伸ばしてくれたからだ。
かなでが音楽を愛してるのを知っているから、弟として感謝の念は絶えない。
かなでがほとんどの金を自分ではなく彼らに回しているのを悟り、必要があれば彼女に衣類も準備してくれているのも知っている。
───ありがたいと、思うべきなのだろう。
印象的な赤い髪をした男は、本でしか読んだことがない極寒の地の氷を思い出させる眼差しを持つ人だ。
初めて見えた瞬間、背筋に走った衝撃と恐れは未だに忘れない。
人を治める地位に居るからか、それとも彼が生まれ持ったものなのか。
覇王の気迫とでも言うべきものを彼は持っていた。
雲の上の人物であり、本来なら一生お目にかかれないであろう人物と認識があるのは、一重に悠人がかなでの弟分だからだ。
こちらに引っ越してきた数日後に招かれ、笑顔のかなでに連れて行かれた先が領主館だった。
家で引越し荷物を解いていた悠人は、急に服を着替えろと普段着よりも少し上等なものを手渡され、着替えが終わったと同時に連れ出されたので何がなんだか判らなかった。
見たこともない高級な調度品に囲まれながら、震える手で薄手のティーカップを支え、絶対零度の領主からの視線に耐える。
あれ以上の苦難は、後にも先にもないだろう。
同席していた彼の妹はどちらかと言えばかなでタイプだったのに、どうすればあんなに正反対の兄弟が生まれるのだか。
理解しかねたが、彼がかなでに対して親切なのは確かなので、悠人は胸の奥にある不平不満は飲み込んだ。
本音では、あまり付き合って欲しくないけれど。

渋い顔をしつつも着替えが終わった姉を送り出す。
夜半疲れて帰ってくる姿を思い、苦笑しながら下拵えの終わった料理を仕舞った。




「・・・どういう、ことですか?」
「ですから・・・小日向さんは、もう」
「もう何だと言うんです!かなでさんは、かなでさんは何処に居るんですか」
「まだ、きっと屋敷の中です」

悲愴な表情で俯いた美少女の腕を引っつかみ振り回したくなる衝動を、色が白くなるほど強い力で拳を作り何とか堪える。
食いしばった歯茎から血が流れ鉄錆び臭い味が口中に広がる。

かなでの仕事が終わるのを待ちながら勉強を続けていれば、家の前に四頭立ての馬車が止まった。
そんな高級な移動手段を持つのは貴族以上しかないと知っていたから、嫌な予感はしていたのだ。
けど、これはない。これはないだろう。

目の前で燃え盛る領主館の離れを眺め、絶望感から全身の力が抜け落ちる。
先ほどまで散々暴れまわった体は四方から取り押さえられ、かなでの元に走り寄ることも出来ない。
消火をしているがとても火の手に追いつかない。
炎は益々勢いを増し、夜を焦がさんとせんばかりだ。
見ているだけの自分がもどかしく悔しく悲しい。

「兄様が」
「・・・・・・」
「兄様が居なかったんです。それで、小日向さんが探してくると」
「っ、あなたの兄でしょう!?どうしてかなでさん任せにするんですか!」
「私だって探しに行こうとしました。ですが、かなでさんが引き止めたんです!一人の方が動きやすいと仰ったから、ですから私はっ」
「兄とかなでさんを見捨てたんですか」

少女の瞳が傷ついた色を放つが、悠人の口は止まらない。
普段の悠人からは考えられない台詞だが、溢れる憎悪と言葉は止まらない。

「あなたはかなでさんを見殺しにしたんだ!誰かが助けに行くと勝手に信じて、かなでさんなら大丈夫だと思い込んで」
「違います!」
「じゃあ、何故ここにかなでさんは居ないんですか!!」

悲鳴と変わらない絶叫が喉から迸る。
苦しくて悔しくて仕方がない。
こんなのは八つ当たりだ。彼女は悪くないと判っている。
火事はきっと偶発的なもので、かなでなら取り残された男を捜さずに居られないのも。
それでも目の前で消えていく屋敷に、胸が締め上げられ生きているのが辛くなる。

───かなでを見殺しにするのは自分も同じだ。
腕を捕まれ体を押さえ込まれ、動けないのを理由に、ただ屋敷が燃え落ちるのを眺めるしか出来ない自分も同罪だ。

いっそ自由になる顎の動きで舌を噛み切ってしまおうかと不意に思う。
屋敷は全焼するまで火の手は止まらないだろう。
彼女が死んでしまうなら、自分が生きている意味もない。

そこまで考え、悠人は気づいてしまった。
こんな絶望の中で、もっとも気づかないでいたかった事実に気づいてしまった。
希望の欠片すら見受けられない自体の中で、さらに自分をどん底へ貶める感情に。

愚かにも、悠人はかなでを愛していたのだ。
家族としてではなく、男として。
一人の女性を欲し守りたいと願う、男として愛してたのだ。

悟った瞬間に目の前が真っ暗になった。
どうすればいいのだ、どうしろというのだ。
何故今になって、何で今この瞬間に。
────────────こんな、絶望的な愛に気がついてしまうのだ。


ぼろり、と涙が零れる。
泣いたのはかなでが孤児院を出て行って以来だった。
その後は苛められても苦しくても歯に力を篭め食いしばり、一滴たりとも涙を零したりしたことはなかったのに。

叫び声を上げて涙を流す。
堪えきれない悲しみは悠人の意識を闇へと堕とす。
その時不意に音が聞こえて、涙に濡れた顔を上げる。

「・・・かなで、さん」

燃え盛る炎の奥から聞こえるのは、紛れもないヴァイオリンの音。
柔らかな春の日差しのように、温かくて優しい大好きな音。

聞き違えるわけがない。これは、かなでのヴァイオリンの音だ。
静かに流れるメロディは、悠人の好きな曲だった。
幼い頃幾度も聞かせてもらった、大好きなかなでの曲だった。

「兄様」

かなでの音に新たに別の音が加わる。
どこか冷たさを含んだものなのに、不思議とかなでの音に合った。
絡み合う音楽に、人々の手が止まる。
絶望の中に希望を与えるような、そんな旋律だった。

隣に立っていた少女の頬に、一筋の涙がすっと伝う。
声も出さずに涙を零す彼女も、紛れもなく現状に絶望しているようだった。

「・・・兄様、小日向さんと一緒なんですね?」

ほろほろと涙を零しながらの言葉に、悠人の胸が黒く染まった。
そんなの許せない。死に行くかなでを彼が独占するなんて。
だが嫉妬に顔を歪める悠人に気づかず少女は続ける。

「兄様は小日向さんを愛してました。朗らかで優しく暖かな彼女を、きっと誰よりも、私よりも慈しんでいらっしゃいました。ヴァイオリンを弾けなくなった兄様の代わりに、小日向さんに将来を託すほど。ヴァイオリンを弾かないと決めた兄様が、再びヴァイオリンを奏でるほど」

───兄様は小日向さんを愛してます


再び呟かれた言葉に、悠人は死にたくなった。
あの男はかなでの全てを奪うのだ。
かなでの欲する何もかもを与え、代償にかなでを連れて行くつもりなのだ。
そんなのはどうして許せようか。

悠人はまだ何も返してないのに。
欲する何も鴨を与えられ、彼女の欲する何か一つも返していないのに。

全てを持っているあの男は、かなですら奪っていくというのか。


「くそぉぉぉおおぉぉぉおおお!!!!」


燃え盛る炎は、まるで自分と彼女の境界線だ。
どれほど望んでもその距離は縮まらず、彼女の瞳はいつだって弟を見るもので、優しさは湛えても望んだ熱は得られなかった。
だから気づかずにいたのに。意識的に沈めていたのに。
最後の最後で思い出させた男が憎い。
かなでと共に消えていく彼が、憎くて憎くて仕方ない。

地面に幾度も打ちつけた額から血が流れる。
髪を掴まれ無理やり顔を上げられた先には、炎に巻かれる屋敷の姿。
梁が落ち、天上が崩れる屋敷からは、いつの間にか愛した音色は消えていた。

拍手[10回]

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日本へ帰ってきたのは数ヶ月ぶりだった。
ここ数年で住み慣れたウィーンの下宿から贈られてきたはがきを目を細めて眺める。
懐かしい思い出のある土地に帰ってきたとき、泊まるのはあの古びた寮ではなく、仕事の取引相手が予約してくれる高級ホテルへと変わったのはいつからだったろう。
少なくとも数年前から、頼む前から用意されている。
支払いをしようと思ったら断られ、マネージャーが管理しているから気にするなと注意を受けた。
今では大分その扱いに慣れたとはいえ、居心地がいいものではない。
せめて感謝の気持ちとして、お気に入りのお菓子などを差し入れている。
プロのヴァイオリニストとして働くようになってから、休みはあってなきようなもので、お菓子作りなどからも少し縁が遠くなった。

広すぎるホテルの一室を見渡し一つためを落とす。
いつもよりも寂寥感が強いのは、きっと今日持ちかけられた話の所為だろう。

『ねぇ、小日向さん。もし決まった相手がいないのなら、僕の息子に会ってみない?』

かなでからすれば突拍子もない話しを告げたのは、最近懇意にしてもらっているコンダクターだった。
同じ日本出身というので良く話しかけてくれる彼は、髪に白いものが混じり始めたもののダンディな魅力に溢れる寛厚な人物だ。
流石に長年海外でもまれただけあり、彼は穏やかながらも押しが強い。
笑顔の圧力に負けたのだが、怨むには彼が人が良すぎた。

「・・・結婚か」

自分には関係ないと思ってずっと過ごして来た。
だがどれだけ自分は変わらないと思っても、時は確実に過ぎていく。

胸の奥にあるのは、輝かしく褪せない夏の思い出。
泣いて笑って喧嘩して。今よりも随分と未熟だったけど、あれほど楽しい時間はなかった。
仕事用のブラウスとスカートを脱ぎ、クローゼットを開ける。
一月は泊まる予定のこの部屋には衣装もきっちりと仕舞われていた。

すっと視線を滑らし、黒のシルクのシャツに、同色のパンツを取り出す。
昔なら選ばなかった落ち着いた服装に、ああ、やはり変わってるんだなと自然と口元に苦笑が浮かんだ。

「・・・早く、準備しなきゃね」

メールで約束を交わした相手と会うのも数ヶ月ぶりだ。
髪をアップにし、淡い桃色の口紅をつけた。
彼は元気にしているだろうか。
今でも眉間に皺を寄せ、難しい顔で仕事をこなしているのだろうか。
思い出すと胸がぽっと温かくなりくすくすと自然と笑みが零れた。
学園の理事として働く彼の実績は遠くウィーンにまで響いている。
交換留学制度を確立させた彼には尊敬の念が止まない。

「冥加さんも、いつか結婚するのかな?」

ぽつり、と無意識の内に言葉が突いて出た。
いつか彼の隣に立つ人物は誰か判らないけれど、きっと彼と並んでも見劣りしない綺麗で上品な人なのだろう。
その時自分は笑顔でおめでとうと言えるのだろうか。
胸を指す痛みは、彼と離れてから常に付きまとうもので、何時の頃からかそれを上手にいなす術を覚えた。
何故胸が痛むのか、涙が零れそうになるのか、それを追求する気はない。
きっと理由を知ってしまえば自分は変わってしまうと、本能的に悟っていた。

準備が整うと一つ深呼吸する。
鞄を手に持つと、ルームキーを片手にノブを捻った。
部屋を出る前に、一度だけ振り返り見た室内は、がらんとして寒々しい。
これが新進気鋭と呼ばれるヴァイオリニストになるために、かなでが払った代償だった。
振り切るように瞼を瞑り、静かに部屋のドアを閉じた。



『そう言えば。今度私お見合いするんです』
『・・・・・・』

人生の転機は、すぐそこまで迫っていた。

拍手[23回]

仕事が終わり、玄関でネクタイを緩めながら靴を脱いだ蓬生の目は、すいっと細くなった。
小さく舌打ちをすると、不機嫌な表情で廊下を闊歩する。
普段ならにこにこと端整な顔を盛大に崩してスキップしそうな勢いなのに、生憎今日はそんな気分になれなかった。

リビングへと続くドアを開ければ、やはり想像通りの光景が広がっており益々蓬生の機嫌は下がる。
だがその原因である男は、最近より磨きがかかった男前でにいっと唇を持ち上げた。

「よう、蓬生」
「よう、じゃないわ。何で仕事が終わったのに千秋が家におんの?」
「俺が招待したんや。この間一緒に遊びに行ったとき約束したんやよなー?」
「おう。ちゃんとかなでにも説明してあるぜ?見ろよ、このご馳走。ちゃんと俺の好物ばかりだ」

にやにやと笑った千秋が指差した先には、なるほど。
言葉どおりに彼の鉱物ばかりが並んでいる。
一家の主を待たずに箸を伸ばした千秋は、茄子のしぎ焼きに手を伸ばすと口に入れた。

「んー・・・やっぱ、かなでの料理が一番口に合うな。早く俺のものになればいいのに」
「ちょおやめてくれへん?かなでちゃんは俺の嫁さんやで」
「ああ、今はな。いつ気が変わるともしれないだろう?」
「かなでちゃんは俺と一生を誓い合ったんや。離婚なんてありえへんわ」
「いや、もしかしたら未亡人になるかもしれないだろ」
「やめてくれる!その不吉な言葉。死の宣告!?」
「はははは」
「笑ってスルーしんといて」
「大丈夫や、おとん。千秋くんがおれば安心して天国へ行けるで」
「お前も不吉なこと言うな。仮にも俺の息子やろ」
「息子やから言うんですー」

つん、と顔を背けた息子の頭をぐしゃぐしゃにかき乱す。
髪の長い自分とは違い、千秋のように短く刈られた髪はそこまで大げさに乱れない。
並んで仲良く話す様は本当の親子のように見えなくもない。
だが生まれた時から付き合いがあればそれもまた仕方ないだろう。
気のせいか性格も似てきている気がするが、それは本当に気のせいだと思い込みたい。

「あら。蓬生さん、おかえりなさい」
「かなでちゃん」

愛しい女房の声に、蓬生の顔はぱっと明るくなる。
いつでもどこでも彼の世界の中心はかなでだ。
学生時代これ以上好きになることはないと思っていたが、日毎愛は増していき死ぬまでにどうなってるかと今では楽しみになるくらいだ。
子供を生んでも相変わらず少女めいた美貌の彼女を腕に抱くと、料理が零れちゃいますと困ったように眉を下げられた。
視線を下げれば確かに。
手に持ったお盆には二人分の味噌汁とご飯。

「千秋になんか気を使わんでええよ」
「でも、千秋さんは大事なお客さんです。それに美味しい美味しいって沢山食べてくれるから作りがいもありますもの」
「実際お前の料理の腕は確かだからな。───お前の飯を食ってるときが一番ホッとする」
「ならいつでもいらしてくださいね。千秋さんなら大歓迎です」
「そうそう。なあ、千秋君、今日泊まっててんか?」
「・・・いいのか?」
「もちろん、いいですよ。千秋さん用のお布団もあるんですから」
「・・・・・・その内、千秋の部屋まで出来そうやな」
「おとんにしてはいい考えやん。部屋は幾つか空いてるし、かなでちゃんどう?」
「そうね。千秋さんと蓬生さんさえ良ければいいわ」

嬉しげに語るかなでの視線を向けられた二人は、輝くような笑顔を同時に浮かべた。

『もちろん・・・』
「いいに決まってる」
「駄目に決まってう」

爽やかな表情の割りに、二人の目は全く笑っていなかったが、高校時代から変わらぬ鈍感さを発揮したかなでは全く気づかず、二人の遣り取りを敏感に察知した子供はひょいと器用に肩を竦めた。

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「お姉ちゃん」
「何?」

ほわほわとした微笑みを浮かべる年上の女性は、全く年上には見えない愛らしい顔立ちをしている。
華奢で小さなかなでは女性である自分すら守ってあげたいと感じる庇護欲を掻き立てられる存在で、硬派でありながら庇護欲の塊のような兄の恋女房だ。
高校時代に運命的に知り合った彼らは、その後一度も別れることなくゴールインした。
お互い初めての彼氏彼女で、喧嘩も繰り返したと言っていたが、自分が知る限り遠距離恋愛でも一途な想いを昇華させた人たちだ。
この人たちのような運命の相手を見つけたい、と乙女心に願ってしまうほど理想的な恋人同士であり、現在は理想的な夫婦であった。
新婚家庭に頻繁に遊びに行っても邪険にされることはなく、どころか熱烈歓迎で美味しい手料理を振舞ってくれるかなでが大好きだった。
今では兄を抜きに二人で遊びに行くほどの関係だが、最近は少しばかり悩みも出来ている。

「かーのじょ」
「奢るから一緒に遊ばない?」

軽いノリの声に、眉間に皺を刻み込んだ。
馴れ馴れしく肩に手を置かれ、むっと唇を噛み締める。
体を振ってその手を避ければ馬鹿にするような口笛を吹かれ益々苛立った。

隣に居る義姉を見れば、眉を下げ掴まれた腕をどうすればいいかと困惑顔だ。
ナンパ男に遠慮する必要はないと口を酸っぱくして言ってるのに、彼女はいつも強く出れない。
人が絡まれていたら果敢にも挑むくせに、どうして自分ごとになるとここまで無防備なのだろうか。
かなでが自分を過小評価しているのは知っているが、自分が標的になりやすい可愛らしい容貌をしているのをいい加減に自覚して欲しかった。

「義姉さんに触らないで!」
「姉さん?へぇ、姉妹なんだ?似てないね」
「君はどっちかって言うと綺麗系でこっちの子は抱きしめたくなる可愛い系じゃない。姉妹でもこっちの子が年下に見えるのにねえ」
「そうそう。ちょっと鈍い感じがするし、大人しいし」
「義姉さん!やめてよ!」
「ひゅー、強気じゃん。いいね。一緒に遊ぼうよ」
「嫌よ!」

さっと周りを見渡してもこちらをちらちらと見る視線はあるのに、誰も助けの手を差し伸べてくれない。
厄介ごとに巻き込まれたくないのは判るが、ならせめて警察くらい呼んでくれてもいいだろうに。
ぎりぎりと唇を噛み締め苛立ちを堪えていると、不意に男たちの後ろから見知った姿を見つけた。

「あんたたち、今すぐその手を離しなさい。じゃないと後悔するから」
「後悔?お嬢さん二人でどう後悔させる気か教えてくれる?」
「お前も一緒に来いって言ってんだよ」
「ちょ、やめて!」

伸ばされた腕に身構えた瞬間、救世主はやってきた。
ぱしん、と乾いた音を響かせて伸びてきた腕を止めた男に、ほっと胸を撫で下ろす。
そのまま自分を庇うように前に立った男は、最高の兄の司郎だった。

「・・・人の妹に何してんだ」
「ヒっ!?」

低い声と、きっと傷の入った強面にびくりと体を竦ませた男は、伸ばした手を引っ込めようと腕を引く。
だが力を篭められているのかそれが果たせず、情けなく涙目になった。
ざまあみろ、と彼の後ろから舌を出すと、目を白黒させた男は一歩あとずさる。

「すすすすみません!妹さんでしたか」
「そうだ」
「すると、こちらも妹さんで?」

声を震わせてかなでの腕を掴んでいる男が彼女を指差すと、司郎は益々低い声で。

「そっちは俺の嫁だ」
「よ・・・よぉめぇ!?」

訳の判らない発音で言葉を繰り返した男は、火を掴んでいたように手を離した。

「俺の女と妹に何か用か?」
「ななななななななんでもありません!」
「なら二度と声はかけないで貰おうか」
「はい!当然です」

体を震わせたチャラ男は、司郎が腕を放すと同時に脱兎の勢いで駆け去った。
それを見送るとかなでの傍に近寄った司郎は、厳つい顔を心配そうに歪ませる。

「・・・大丈夫か」
「うん。私は大丈夫。でも・・・」
「お前は?」
「私も大丈夫だよ。義姉さんと違って腕を捕まれてたわけじゃないから。・・・義姉さんの腕赤くなってる」
「・・・・・・一発殴ってやれば良かった」
「もう、司郎君たら。冗談でもそんなこと言わないの。私は大丈夫って言ったでしょう?」

困ったように眉を下げたかなでは本気にしてないが、妹である自分にはわかる。
兄は紛れもなく本気だったと。
だが敢えてそれを口にする代わりに、大きな兄の腕に腕を絡めた。

「!?おい」
「いいじゃない。迎えに来てくれたってことは、兄さんも仕事が一区切りしたってことでしょう?一緒に買い物に行こう」
「だが、今こんな目にあったばかりだぞ」
「ふふ、慣れてるよ司郎君。私も久しぶりに一緒に買い物がしたいな」

慣れてるの言葉に眉を跳ね上げた司郎は、けれど次いで回されたかなでの腕に頬を染めて沈黙した。
何時までも初心な兄に、妹として微笑ましいばかりだ。
彼らの間にマンネリなんて言葉はないに違いない。

「私クレープ食べたいな」
「じゃあ、私も」
「・・・仕方ねぇな」

ため息一つで妥協した司郎に、彼を挟んで瞳を合わせたかなでと微笑みあった。


なんて愛しい休日。

拍手[12回]

「おかあさん、だーいすき」

にこにこしながら抱きついてきた息子に、かなでは僅かにバランスを崩す。
洗濯籠を動かして視線を向ければ、夫によく似た容姿の彼は、今日は可愛い犬耳の付いた着ぐるみを着ていた。
おはようの代わりとばかりに好きを繰り返す息子に微笑むと、洗濯籠を脇に置きしゃがみ込む。
そして視線を合わせたまま額をこつりとくっつけた。

「お母さんもだーいすき」

ほにゃりと高校時代から全く変わらぬ微笑みを浮かべたかなでに、静もつられてふわりと微笑む。
何と和やかな光景だろう。
暖かで優しいこの場所は、高校生だった自分には想像できなかったものだ。
否、正確に言えば彼女に出会う前の自分だったら、だろうか。
愛しい妻に可愛い息子。
て可愛い娘の着替えを手ずから行いながら、子煩悩な父親になった彼はくすくすと微笑む。

そして爽やかな微笑みを浮かべたままさらりと告げた。

「完璧な家族団らんだと思わないかい?冥加」
「───・・・そうか」
「君が居なければもっと完璧だったんだけどね」

ふふふふと裏も表もありませんとばかりに優しげな笑みを浮かべたまま、刺々しい言葉を静は吐き出す。
慣れたとはいえうんざりするほど直接的な表現に、玲士は重いため息を吐き出した。

「言っておくが俺は来たくて来たんじゃない。貴様のところの人の迷惑を顧みぬ妻に引きずってこられたんだ。これならゴミを捨てに行かなければ良かった」
「・・・へぇ。君、僕の優しい奥さんの気遣いを迷惑って切り捨てるんだ?」
「迷惑以外の何物でもないだろう。朝食など、必要ないのに」

ぶつぶつと文句を垂れる玲士に、笑顔の静の背景に暗雲が立ち込め始める。
可愛い娘のレース付きのスカートとブラウスを調えてから立ち上がると、息子の名を呼びこう告げた。

「冥加のおじさんがお母さんの好意を『迷惑』だって。我が家の優秀な番犬君はどうするのかな?」
「もちろん、かみつくのですー」
「なっ!?」

驚き身を引こうとした玲士は、だが残念にも間に合わなかった。
オーダーメイドのスーツに食いついた子供は、本当に犬のように顔を振る。

「今日のコスプレはワンコなんだ。可愛らしい番犬でしょ?」
「・・・貴様らいい加減にしろ!!」
「ぼくはおかあさんのばんけんなんです!わるいやつにはかみつきます」

再びかぶりと噛み付いた息子の姿に、かなでは慌てふためいた。
だがそんな妻の肩を抱くと、静は鮮やかな微笑みを浮かべる。

「大丈夫だよ」
「何がですか!?」
「───肉は噛まないように言っておいたから」
「っ!!全然大丈夫じゃないですよ!」

ぐしゃぐしゃになったスーツに、意外と子供を叱れない玲士が項垂れるのは僅かな後で、その玲士を慰めようとする娘とすみませんと只管謝るかなでの姿に苛立った彼らが再び玲士を強襲するのはもう日常になった出来事。

拍手[15回]

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