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約一年ぶりに会った女性は、出会った頃と変わらず可愛らしかった。
高校時代に恋した時と変わらず柔らかな春の日差しのような笑顔を浮かべ、おっとりと楽しげに微笑む。
男からすると庇護欲が掻き立てられる華奢な体躯と幼げな容姿の持ち主だが、その芯が誰よりも強いのはよく知っていた。

出会いは十年前に遡り、今でも瞼を閉じれば鮮やかに記憶は蘇る。
透明な色の無い音しか奏でれなかった天宮のピアノに、初めての色をつけたのは彼女だった。
『君に恋をする』なんて、今考えれば笑ってしまうくらいに滑稽な言い草だ。
恋はしようと思ってするものではなく、いつの間にか落ちているもの。
自分を作る余裕も無くて、全てを捨てて必死になれる。
苦しくて切なくて悲しくて哀しい。
嬉しくて幸せで恋しくて希う。
複雑な矛盾が入り混じり、そして一直線にただ一人に向かう。
形振りなんて構ってられない。格好悪くても後悔したくない。
───それが、高校時代に天宮が体験した唯一で最高の恋だ。

あれから時は流れて、天宮はピアニストになり彼女もヴァイオリニストとなった。
新進気鋭と呼ばれていても、まだ駆け出しにしか過ぎず、二人は世界を回っている。
四季折々のメッセージカードと、繰り返されるメールや手紙。
そしてたまに我慢できなくなってする電話だけが彼ら二人の繋がりだった。

願掛けをしていたのだ。十年間も、辛抱強く。
馬鹿みたいだと人に話せば笑われるだろうけど、決意を覆さない程度に覚悟は決めていた。
そして今日は天宮が願掛けした十年を過ぎた一日目だった。

「久しぶりだね。元気にしてた?」
「はい!天宮さんこそ。手紙やメールで元気にしてるのは知っていたけど、久しぶりに会えて嬉しいです」
「僕も嬉しい。───一年ぶり、くらいだっけ」
「はい。仕事でも擦れ違うときは擦れ違うものですね。一昨年は何度も重なったのに」

不思議そうに首を傾げる彼女は知らないだろう。天宮が敢えてかなでとの仕事を断り続けていたのを。
時間が欲しかったのだ。自分ではなく、彼女に。

予約したレストランのVIPルームでワインを傾けた天宮は、ミステリアスな笑顔を浮かべる。
彼と腐れ縁の幼馴染が見たなら眉間の皺を深くし、『何を企んでいる』と即効で問い詰めただろうが、彼とは違うかなでは笑顔を返した。
無邪気な様子は年を感じさせず、少女のまま大人になったと表現するに相応しい。
きっと今から十年後も、かなでは変わらずこうなのだろう。想像すると胸の奥がほっこりと温かくなり自然と口元が緩む。
後にも先にもこんなに容易に天宮の感情を上下させる存在など、彼女だけに違いない。

そしてその先を永遠にするため、天宮は口火を切った。

「実はね、今日は報告したいことがあるんだ」
「報告・・・ですか?」

大きな目を瞬かせたかなでは、じっと天宮を見詰める。
彼女の背中越しには宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっていた。
予定通りに二人きりの空間。自分で計画したのに、急に二人きりの空間が息苦しく感じネクタイを緩めたい衝動に駆られる。
だがドレスコードが必須のレストランでそれはマナー違反と骨身に渡り知っているので、その衝動は何とか堪えた。
視線を改めてかなでに向けると、たった今気づいたのだが彼女のドレスは高校時代を髣髴とさせる白い可憐なものだった。
食事を取る一時間。その間そんな些細な事にすら気づかなかった自分は余程緊張していたらしい。
こっそりとスーツのポケットを探り、目的のものに指を触れる。伝わる感触はひんやりとしていて、らしくなく緊張している自分に苦笑した。

「僕はね、結婚しようと思うんだ」
「え?」

まん丸に目を見開いたかなでは、天宮をじっと見詰める。
その瞳の中に何か感情が無いかと素早く探るが、驚き以外の何も見つけられない。

「天宮さんが、結婚、ですか?」
「そう」
「好きな人がいるんですか?」
「うん。もう、ずっと長い間ね」
「天宮さんが、片思い?」
「そうだよ。この僕が、片思い」

情けなく眉が下がる。辛うじて笑顔は浮かべているが、心配そう眉が顰められたかなでの顔を見るに、その表情は失敗してるらしい。
どうやら、自分で思うより、ずっとずっと落胆している。
一年も会うのを我慢したのに。抱きしめて自分の物にしたくて、でもそんな欲求も押し殺して。

会わなければ、何か変わると思っていた。
寂しいと思ってくれると、どうしてそう思うか考えてくれると、そしてあわよくば、それを恋愛感情と勘違いしてくれればと。
馬鹿みたいだ。子供より稚拙で愚かであさはかな望み。
でも希望を捨てるのは出来なかった。今だって、傷つく自分を見て痛そうに泣きそうな顔をしてるかなでに期待してしまってる。

すっと胸に一杯息を吸い込み、十数えながらゆっくりと吐き出した。
緊張を和らげる方法は、昔目の前の彼女に教わったものだ。
プロとして初めて共に舞台に立ったとき、内緒の魔法ですとこっそりと耳打ちしてくれた。
天宮よりも、自分の方が余程青い顔をしていたのに。
思い出し小さく笑うと、真っ直ぐにかなでを見詰める。
どうせ断られても諦める気なんて欠片もないのだ。よく考えたら当たって砕けても失うものはなにもない。

「僕は、結婚します」
「・・・はい」
「だからさ、小日向さん」
「はい」
「天宮かなでになってくれる?」
「はい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」

するりと返事を返した彼女は、暫く間を空けた後、ぽかんと口を開いて大きな目を更に大きくした。
可愛らしい子リスのような表情だが、その言質を逃がすつもりは無い。
先ほどまでのしおらしい表情はさっぱりと捨て、天宮はにこにこ微笑んだ。

「じゃあ、決まりね。式はいつにする?」
「は、え?」
「月並みだけど、六月はどう?日本は梅雨時かもしれないけど、海外なら晴れてるとこ多いし。ドレスは絶対に白は入れて欲しいな。お色直しは淡い菜の花色とか、浅黄色とかも似合いそう」
「え、ええと」
「君にはマーメイドラインよりもプリンセスラインの方が似合いそうだよね。ヴェールは絶対に必須。サムシングフォーも用意するから幸せな花嫁になれるよ」
「ちょ、待っ」
「花嫁付き添いはやっぱり枝織ちゃん?招待客は誰にしようか。ああ、冥加は絶対に呼ぼうね。花嫁姿の君を見たときの顔が見たいから」
「ちょ、天宮さん!」

怒涛と零れる言葉を止めるべく焦ったようにかなでが声を張り上げる。
その慌てぶりに漸く現状を理解してくれたらしいと、にっこり天宮は微笑んだ。
今やかなでの頬は桜色に染まり、可愛らしいことこの上ない。

「あの、天宮さん。お話を聞いてると、まるで私が結婚するみたいに聞こえるんですけど」
「そうだよ?僕は君にプロポーズしたんだから」
「でも!さっきずっと片思いしてたって」
「うん。高校時代から、ずっと君に片思いしてる。僕の音はいつだって君に捧げられたのに、君は少しも気づいてくれないんだもの」
「高校時代から!?だってもう、十年経ってますよ?」
「そう。長い、ながーい片思い。案外一途でしょ」
「はい。・・・って、そうじゃなくて!何で十年も経ってからプロポーズするんですか」
「十年前に願掛けしたから。十年後も君を好きで居るなら、君が一人で居るなら、結婚を申し込もうって。───馬鹿みたいかもしれないけど、永遠を信じたかったんだ。十年間、想いの形が変わらなければ、君が誰を好きでも、僕は君を好きで居られると思ったから」
「私がその間に誰かを好きになるかもしれないのに?」
「うん。君に近づく男は粗方排除してきたけど、でも、君が好きになった男なら諦めれなくても納得できるかと思ったから」

本当はそんな甘い考えは微塵に吹き飛んでしまうほど、嫉妬していただろうけど。
そんな思いは欠片も見せずに、言葉を放つにつれ赤く染まる頬を楽しげに眺める。
もしかしたら、と僅かな期待が胸に沸く。
もしかしたら、かなでも自分を少しは好いてくれているのではないか、と。

「でも、いきなりプロポーズは」
「駄目?」
「だって、告白もされてないのに」

その言葉にゆっくりと席を立つと、眉を八の字にしたかなでの傍で足を止めた。
床に膝をつき白く滑らかな掌を両手で恭しく包み込むと、そのままこつりと己の額に当てる。

「好きです。十年前からずっと、君の事が好きです。ずっと君に恋してきた。そして今では愛してる。この感情は一時的なものなんて甘いものじゃない。ここで君が頷いたら、僕は一生君を束縛する。他の誰にもあげないし、ずっとずっと独占する」

祈るような気持ちで顔を上げ、こちらを見ている琥珀色の瞳に微笑みかけた。

「この想いはきっと重たいね。自分でも判ってる。でも、どうかお願い。僕の、お嫁さんになってください」

ポケットから探り出した指輪を彼女へと掲げる。
取ったままの左手に近づけると、軽く握られていたはずの手がゆるりと解けた。

ダイヤではなくピジョンブラッドの紅玉を嵌めた指輪は、彼女の白い指に良く映える。
この指輪の石言葉は『情熱』。褪せぬ想いをそのまま篭めた指輪は、誂えたようにかなでの指に嵌った。

「返事は、イエスでいいのかな?」
「・・・・・・」

真っ赤に染まった顔を俯ける彼女に、天宮は晴れやかに笑った。
立ち上がりぎゅうぎゅうと抱きしめれば、苦しいです、と小さな声が非難するように上げられる。
だがそれでも腕の力は弱められず、代わりにまろやかな頬に頬をすり合わせた。

「いいの?撤回は利かないよ?」
「はい。───私、鈍くてごめんなさい。天宮さんの気持ちにも、自分の気持ちにも。天宮さんが結婚すると聞いて哀しかった。私にずっと片思いしててくれたって聞いて嬉しかった。この人は、私のものだって思っちゃいました。これって、恋ですか?」
「それを僕に聞くの?僕は、僕に都合のいい言葉しか返さないよ」
「はい。都合のいい言葉を返してください。私は、天宮さんの言葉を信じます」
「そう。なら、答えてあげる。君のそれは『恋』だよ。僕を独占したくてたまらないって、心が叫んでるんだ」

柔らかな髪に鼻先を埋め、甘い香を胸に吸い込む。
本当は、それを恋と断言すべきではないと知っていて、天宮は敢えて黙殺した。
かなでの感情は雛が親鳥を慕う感情と同じかもしれない。兄に似た人を独占したいと望む子供っぽい想いかもしれない。
だがそれでも敢えて断言したのは、もう逃がす気がないからだ。

「僕と結婚してくれますか?」
「私でよければ」
「君がいいんだ」

細い体は小柄な天宮が抱きしめても腕が余る。
華奢な彼女が愛しくて、益々笑顔が深まった。

「もう逃がしてあげないよ」

その想いが、重ならなくとも構わない。
漸く天宮を男として見てくれた。ならそれを刷り込んでいけばいい。
かなでの感情が自分に追いつくことはないと天宮は確信している。
だから、その何十分の一でもいいから想いを返してくれるだけで幸せだった。

「結婚しよう」

もう一度囁くと、くすぐったげに首を竦めた彼女は今度は躊躇なく頷いた。
それがとても嬉しくて、天宮も笑みを深くした。

拍手[21回]

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はっと瞼を持ち上げ青い空を脳が認識し、そこで初めて吐息を漏らす。
 未だ働かない脳を叱咤し腕を突いて上半身を持ち上げると、軽く頭を振って瞬きを繰り返した。

「夢・・・か」

 夢だとするなら、随分とリアリティのある夢を見たものだ。苦く笑い、額に浮かぶ汗を拭った。
 深呼吸して周りを見渡せば、そこは見慣れた森の広場。本で読んだ中世のヨーロッパ的な建物も、映画の中みたいな服を纏い、くるくるな髪型をした人間もいない。
 大地が居るのは星奏学院の敷地内で、今はコンクールの最中だ。午前中最終セレクションの練習をして、そして、日頃の受験勉強や副部長としての仕事に疲れ何時の間にか眠ってしまっていたらしい。

「・・・嫌な夢を見たもんだな」

 じとり、と不機嫌に眉を寄せた大地は顎に手をやり首を傾げる。
 舞台設定は日本ではなく、ヨーロッパの何処かの方がイメージに近かった。
 自分はどこぞの名家の跡取り息子で、妹を溺愛する兄だった。そして気狂いにも程があるが、実の妹に懸想する男でもあった。夢の中の自分は可愛がっていた妹に対し、異性に対する劣情を抱いていたのだ。
 そこまで思い出すと、額に手を置き空を仰ぐ。
 夢の中の妹の顔は、大地にとって良く知るもので、なんと名前まで一緒だった。

「・・・かなで、ね」

 現実では面と向かって呼んだことがない名前。それを夢の中の大地は、特別な感情を込めて、愛しさを隠さず連呼していた。それこそ、悪友が気づいてしまうくらいに。
 眉間の皺を深くして、不機嫌そうに唇を尖らせる。

「・・・何であいつなんだ」

 鮮明に残る記憶に、大地の機嫌は下降した。
 夢の中の大地が愛した女性を横から掻っ攫ったのは、現実世界でもとても馴染みがある、相性の悪い男だった。
 確かに大地は色々な意味で極端に相性の悪い彼を認めている。だがそれとこれとは別だろう。勝手に人の夢に現れたと思えば、かなでを掻っ攫い、挙句の果てに──。

「最悪だ」

 夢の結末を思い出し、苦虫を百万匹は噛み潰したような顔をする。
 最愛の人は、呆気なくも簡単に奪われた。
 幸せを祈り身を引いたはずなのに、まだ二十歳前の若さで儚くなった。渡したくなかったのに、自分の手では守れぬからと小さな掌を離したのは、死んでしまうのを見届けるためではなかった。
 傲岸不遜な笑みを浮かべいつでも余裕を保っていた男の、最初で最後の謝罪は大地を奈落の底へと叩き落とした。あれは最悪だ。謝ればすむ問題ではない。
 何せ彼は──大地の最愛を道連れに、自殺なんてしやがった。
 現実世界での彼を思い浮かべれば、何となく追い詰められれば同じことをしそうな気がして益々眉間に皺が寄る。それでも恋愛関係がない限りはそんなことは有り得ないと、信じたいところだけれど。

「妹、ねぇ」

 出会った頃は、確かにそんな風に見ていた気もする。
 何しろ彼女は小さく華奢で大きな瞳にふくふくとしたほっぺをしていて、雰囲気も見た目も何処か幼く、『可愛らしい』という単語がこれ以上ないくらい似合う小動物系の女の子だったのだから。
 思わず手を伸ばし、かいぐりかいぐりしたくなる衝動に逆らうことなく行動に移した自分を、今でも大地は責められない。
 抱く感情が親愛から恋愛に変わっても、ぎゅうぎゅうに抱きしめ頬擦りし腕の中に抱きしめて放したくない欲求は常にある。髪を掻き混ぜ膨らんだ頬を突付き、可愛いを連呼して甘やかしたい。
 大地は淡く苦笑した。この感情は、夢に見た彼と一切変わりなく、だからこそ必要以上に感情輸入してしまったのかもしれない。

「愛してる。愛してたんだ、世界中の誰よりも、か」

 吐き出す声は血の滲む叫びで、瞼を閉じるだけでその悲しみを再現できる。
 かなでの訃報を聞いた『彼』からは、世界の全てが色褪せた。置いていかれた子供がなければきっとすぐにでも後を追ったと、確信を篭めて断言できる。それくらい、彼にとって妹は全てだったのだ。
 何事もスマートにこなし、余裕を持ち、距離を測る。出来ることと出来ないことを明確に理解した彼は、だからこそ自分のすべきことを把握していた。
 幼い頃から女性にもて、そつなく誰の相手も出来た彼は、逆に言えば誰にも関心がなかった。
 彼の心には常に春の日差しのように微笑む一人が居て、その子を中心に世界は回転していた。

『お兄様』

 鮮やかな微笑みは華やかなものではないけれど、彼の心をこの上なく癒した。疲れているとき、苛立つとき、悔しいとき、悲しみに沈むとき、彼女だけが使える魔法はいつでも彼の心を解した。

『お兄様』

 兄である自分とは違い彼女は男性との付き合いはほとんどなかった。誰にでもまっすぐに当たる妹に恋をする存在は数多あったけれど、手放すには惜しすぎて彼は少しでも長く彼女と居るために努力していた。

『お兄様』

 その存在は唯一で、汚したくなく傷つけたくなかった。愛らしい顔がいつでも微笑んでいる様をずっと見守っていきたかった。

 だから──彼は己の劣情を心の奥にしまいこんだ。
 幾度も自分のものにしたいと望んだ。
 幾夜も閉じ込めて監禁してしまおうかと悩んだ。
 自覚してから血の繋がりを怨まない日はなく、同時にこれ以上ない繋がりを齎すそれに常に感謝の念を捧げた。
 彼の狂気は彼自身が誰よりも理解して、彼の愛は誰よりも彼自身が知っていた。

「馬鹿な男だ」

 その全てを体験した上で大地は呟く。
 守りたいと願う存在を守りきることも出来ず、別の男に手渡したからと距離を置き、そして情報を得るのを怠け、結果彼女は彼の腕から飛び立ったのだ。

「君は手を放すべきじゃなかったんだ」

 ひっそりと眉を寄せ、自分と同じ顔をした男を思う。
 彼は何から何まで大地と酷似していた。考え方も能力も行動も、彼女への想いも何もかも。けれど同時に決定的に違う部分もある。

「君は結局、女としての彼女ではなく、妹としての彼女を選んだんだよ」

 そうでなくば手を放せるはずがない。同じ思考を持つからこそ断言できる。そしてそれこそが大地と彼の最大の違いだとも。

「俺は、君の二の舞にはならない」

 うっそりとした微笑を唇に乗せる。
 つ、と視線をずらせば、こちらに向かい歩いてくる華奢な姿が垣間見えた。

「君はもし、夢で警告をくれたのならば。──俺は、ちゃんと選んでみせる」

 血の繋がりというタブーは大地とかなでの間にない。
 彼が最大の誇りとし、そして最大の壁として見ていた要因はないのだ。

「ひなちゃん」

 まだ会って一月も経っていないのに、これ以上なく大地の心を縛る名を舌に乗せれば、極上のスイーツを食べたときのような甘さが胸の奥に充満する。

 ゆっくりと瞼を閉じれば思い起こせる。
 陽だまりの午後、微笑み手を繋いだ頃の優しい記憶が。
 小さな少女の掌を握り、胸を熱くした少年の感情が。
 だが、それは『榊大地』には必要がない思い出で、振り切るのに躊躇はない。

「ひなちゃん!」

 今度は少し大きめの声で呼びかければ、自分の名を呼ぶ声にきょろきょろと視線を彷徨わせたかなでは、こちらを向くとふわり、と微笑んだ。
 その笑みがどれ位夢の中のものと似ていようと、大地は心動かされない。ああ、だが。

「君が禁忌を気にして『俺』になったのなら、『俺』は必ず君の『願い』を叶えるよ」

 嬉しそうに駆け寄るかなでに目を細め、夢の中のもう一人へと宣言する。
 彼と違い、今はまだ名前で呼べないけれど、自分は彼女を苗字で呼ぶ資格がある男だから。夢の中の彼が欲し、望んだ立場に居るものだから。

「こんにちは、大地先輩。休憩中でしたか?」
「うん。ご飯を食べて寝ちゃってたみたいだ。──ねぇ、ひなちゃん」
「はい?」
「この後もし時間があるなら、俺と一緒に練習しない?今無性に君の音と合わせたい気分なんだ」

 目を丸くしたかなでは、こくりと頷く。
 その愛らしい仕草に目を細め、大地は掌を彼女の頭に置くとゆるゆると撫でた。出会った頃は抵抗していたのに、今ではすっかり慣れたものだ。
 無防備な様子に喉を震わす。

「ねぇ、ひなちゃん」
「はい?」
「俺は、君が好きだよ」

 長い腕を回して囁けば、ぼんと顔中が赤くなる。兄であったときには得られなかった反応に、大地の唇は弧を描いた。
 そう、自分と彼は似ていても違う。彼の言葉に彼女は照れても、こんな反応返してくれなかった。
 赤面するかなでに大地は満足気に頷くと、僅かに抵抗する体をそのまま腕に閉じ込める。小さな檻に囚われた姿に胸が高鳴り、ずっとこのままでいれればいいのにと詮無い事を考えた。

「俺は君が好きだよ、ひなちゃん」

 だから、俺を好きになって。他の誰かを選ぶのではなく、今度こそ俺自身を。
 沸き起こる希求は何処までも深く大地の心に根付いている。

「大好きだ」

 夢の中と同じように、けれど夢の中よりも一層艶やかに微笑んだ大地は、自分を意識してくれる娘に、幸せそうに擦り寄った。

拍手[10回]

スイッチを切り替えたようにぱちり、と目が覚める。
 視線だけで辺りを見廻せば、そこは今泊まっている星奏学院の寮の一室であるのが判り、ベッドに手を置いて上半身を起こす。
 閉めきられたカーテン越しに薄日が差し、雀の囀りと至誠館の早朝トレーニング前の準備運動の野太い声が微かに聞こえた。
 枕元にあるサイドテーブルに手を伸ばすと、置いてある腕時計を掴んで目を凝らす。時刻は朝五時半。認識した途端不機嫌に眉を跳ね上げ短い金髪をくしゃりとかき乱した。

「早過ぎだろ・・・」

 うんざりとした気分そのままの声が漏れる。もう一度寝直したいが、生憎と目は冴えてしまっていた。ベッドに入り込み布団を頭から被ったところで背を向けてしまった睡魔は戻って来そうにない。
 益々渋い顔になった千秋は、重いため息を漏らした。

「随分とまた趣味のいい夢だったもんだ」

 苦い想いを篭めて呟く。唇は誰に対するものか判らぬ皮肉に歪み、声音は低い。
 先ほどまで見ていた夢は、分類するなら『悪夢』に入るのだろう。印象深く、嫌になるくらいリアリティがあった。現に目が覚めた今も心臓はばくばくと脈打ち、暑さの所為で無い汗が止めど無く流れる。
 その夢では、千秋は『千秋』であったが人ではなかった。
 黒く大きな羽と尖った耳を持つ魔の者、所謂悪魔と呼ばれる種族の彼は、失った特別を探し毎夜森を彷徨う彷徨う亡霊となった。
 命はあったが彼は生きてはいなかった。生きる事を放棄して尚、彼は探しつづけていた。
 額から頬へと伝ってきた汗を拭うと、硬く目を瞑る。それは確かに夢の中の出来事であったはずなのに、現実感がありすぎた。
 夢の中の彼は、盲目の少女に執着していた。同族で無い彼女を唯一の特別とし、過ぎる時間を大事にしていた。
 彼は最後まで気がつかなかった。その感情がどんな意味を持つのかを。
 悪魔である彼は誰かに好意を持った事が無く、彼女への感情の意味を教えてくれる知人も居なかった。欲しているのは判っていたが、何故なのかを考える理由も理解できなかった。
 始めはただの好奇心。自分が知る何よりも美しいと感じた音への興味だった。
 顔を見て初めて相手が盲目であるのに気がついたが、面倒だとは思わなかった。目が見えなくともその少女の奏でる音楽に変わりはなく、むしろ目が見えないからこそ研ぎ澄まされた才能だと見抜いたから。
 話をする内に、興味はヴァイオリンの音から少女へと少しずつ移行していった。
 少女は目が見えず貧乏な暮らしをしていたが、永い時を生きた彼が知る誰よりも朗らかで何時でも微笑んでいる、そんな健気な娘だった。
 元来人懐こい性格をしていた彼女は、森の奥でいつ壊れても可笑しくない家に一人で住むのは苦痛だっただだろうに、初対面で少し話しただけの彼に『友人になってくれ』と頼み込むくらい寂しい想いをしていただろうに、その境遇を嘆き悲しみを切々と愚痴ったことは一度も無い。
 彼が訪れた時、家の屋根から雨漏りしていても、眠るための藁のベッドが腐っていても、目が見えないため火を扱えず、生の芋を食べ調子を崩していても、どんな状態でも微笑んで迎えてくれた。
 目が見えない自分に家を与えてくれた村人に感謝し、数日に一度通ってくれる幼馴染に感謝し、日々生きることが出来る幸せに感謝する、そんな朴訥な少女だった。
 普段は何処かとろさが目立つ彼女に、始めこそ呆れて眺めているだけだった彼も、いつの間にか放っておけなくなり手を差し伸べていた。気が良いと言っても何処までも悪魔の彼が、見返りを要求せずに幾度も幾度も。
 終いには彼女へ善意を施してくれるからとの理由で、彼女の元へ通い食料を届ける幼馴染にすら謝礼を渡すようになっていた彼は、己の有り様に疑問を抱きつつもそれでも長い時間の中で一番充実した暮らしを送っていた。
 天気の良い日は外に出て、雨や雪が降る日は室内で。
 彼女の奏でる───否、謳わせたヴァイオリンの調べに耳を傾け、ゆったりと過ごす。不思議にも彼女と一緒にあれば彼の胸に破壊衝動は起こらず、悪魔らしからぬ暢気さで穏やかに日々を送っていたのに。
 神を嫌う悪魔だったからか、幸福は呆気なく塵と化した。
 村へ行くと酷く嬉しそうに彼女が笑ったから、彼は彼女を手放した。次の約束をするのも何時の間にか気に入っていて、待ち時間の間ずっと彼女を想うのも楽しかった。少しとろくて運動神経が切れている彼女だったけど、約束を破るような人間ではないと、契約もしてないのに信じてた。
 彼女が居ない夜、彼は家の屋根で過ごした。少しずつ欠けて行く月を眺めて、指折り日にちを数えていた。自分の都合でなく、彼女の都合で待つのは初めてだったので、少しだけ胸を高鳴らせ、いつ帰ってくるのか、どんな顔で帰ってくるのか、土産話は何なのか、第一声は何なのか、平和ボケした脳みそでずっと考えていたのだ。
 それは随分とおめでたい思考だったというのに。
 彼が指折り数え何日も何日も待つ間、彼女はその命を儚く散らしていたのに。
 彼の絶望を思い出し、身体を丸め息を吐き出す。あれは自分ではなかったのに、シンクロした感情は容易に切り離せない。

「何故、疑わなかった」

 目の見えない彼女を森へと追いやる人間たちに、彼女を託してしまったのだ。疑り深い悪魔らしからぬ無用心さで、何の庇護もなしに送り出してしまったのだ。
 ぎりぎりと歯を食いしばりながら、千秋は本当はその答えにも気づいていた。理由は単純で明快だ。
 彼が疑わなかったのは、彼女が彼らを信じていたから。笑う彼女を、彼もまた信じていたからだ。
 彼女は殺されるつもりはなかった。そうでなければ、彼と約束をするはずがない。
 ならば、と千秋は思う。守るためにも、彼は疑わなくてはならなかったのだ、と。
「彼女の世界はいつだって明るかったのを、お前とて知っていたはずだ。質素と言うのもおこがましい生活の中でも幸せだと微笑んでいたのだから。だから、お前も手を貸したのだろう?彼女に気づかれないように、感謝も謝礼も必要とせず代償を得ようともしないで」
 彼は普段の契約とは違い、彼女に見返りを求めていなかった。否。求めていたがそれは共に過ごす時間だとか微笑が届く距離だとか至上の音色を響かせるヴァイオリンだとか些細で、けれど彼にとってはこの上なく特別なものだった。欲望を満たして得た力ある魂ではなく、彼女がそこにあることだけを彼は欲していたというのに。

「お前は、手綱を緩めてはいけなかった。打てる布石は全て投じなければならなかったんだ」

 彼の絶望の深さを知る千秋は、瞼を閉じれば浮かぶ光景に胸を締め付けられる。
 彼女を失った彼は、自身が消滅するまでの永い時間を一人で彷徨い続けた。心配する相棒の手を取らず、魔の者が住む世界にも帰らず、ずっと彼女が住んでいた場所を守って。
 やがて時代は移り、人間は異世界の者の姿を偶像だと決め付けた。彼の姿は誰に認識されず、そして───魂を摂取しなかった所為で力も体も衰えた彼は、戦争と呼ばれる人類の諍いに巻き込まれ一人消えた。誰にも見取られず、愛した彼女を見つけれず、深く、暗い悲しみの淵で彼は滅んだのだ。

「・・・俺は、お前と違う」

 彼女が消えても何百年と生きた彼と、自分は違う。ずきずきと痛む米神を宥めると、ゆっくりと立ち上がり部屋を後にする。
 定まらぬ視界に目を眇め、ふらふらしながら目的の場所へと向かった。
 幾度も壁に手を付き、やがて見えてきた場所に千秋はほっと息を吐く。壁に身体を預けるように進めば、そこには探していた人物が居た。
 クリーム色のエプロンを着た彼女は、華麗にフライパンを操りつつこちらに背を向けている。その姿を瞳に映し、数度唇を舌先で舐めた。

「・・・小日向」
「え?」

 今にも消えてしまいそうな小さな声に、けれど彼女は敏感に反応しこちらを振り返る。梔子色の髪が揺れ、大きな瞳が千秋を認めてやんわりと綻んだ。

「東金さん。どうしたんですか?まだ六時ですよ?今日は随分と早いんですね」
「窓の外から至誠館の奴らの声が聞こえたんだ。そのおかげできっぱりさっぱり目が覚めた。気分は中々に最悪だ」

 少しの真実と、少しの嘘を混ぜて告げれば、炒め物を確認しフライパンの火を止めたかなでが近寄ってきた。
 まじまじと覗き込んで来るかなではいつも通りで、やはり夢は夢かとひっそり胸を撫で下ろす。何時の間にか緊張して握っていた拳は汗ばんでいて、そっと解いた。
 体調の悪さを見透かされないよう予め壁に背を預け腕を組んでいたのだが、眉間に皺を寄せ珍しく渋い表情をするかなでには通じなかったらしい。白く細い指を唇に当て、難しい顔をする。

「東金さん、顔、真っ青ですよ?」
「───そうか?明かりの所為じゃないのか?」
「確かに、キッチンと違ってこっちは明かりもつけてないから暗く感じるけど、でもこれだけ外からの光が入れば顔くらい見えます。・・・もしかして、脱水症状かも?そこの椅子に座ってください」

 慌てて促され手を引っ張られれば、ふらり、と身体が傾いた。
 まずい、と思いつつも踏ん張りが利かず、かなでとともに倒れこむ。咄嗟に身体の位置を入れ替え背中から落ちたのだから自分を誉めてやりたい。おかげで衝撃に息は止まったが、腕もかなでにも怪我はなく、ゆっくりと息を吐き出せば痛みも少しだけ紛れた。

「東金さん!?大丈夫ですか!!?すみません、私───」
「いい」
「でも!すぐ退きますから、ちょっと待っ」
「動くな!」

 響いた怒声に似た激しいそれに、かなでの身体がびくりと強張る。反射的に動きを止めたかなでに、千秋は深呼吸する。
 胸の上に乗る小さな身体越しにとくとくと鼓動が伝わり、瞼を閉じれば呼吸で上下する胸の動きすら伝わった。体温は暖かく、胸元に掛かる吐息で生きている信じられる。
 夢の中の彼女と違い、かなでは細いがつくべきところに肉はついている。豊満と言い難くても、骨と皮だけだった彼女より遥かに豊かな体型をしていた。
 掌を動かし、背筋を辿り首筋、耳元、髪、額、頬、顎、そして小さな唇へと指をやる。目が見えなかった彼女が取った行動をなぞった動きだったが、やってみて納得できた。目で見なくとも触れた感触で想像できる。微かな呼気が相手の生命を感じさせ、胸の奥から安心感が沸いてきた。

「・・・小日向」
「・・・・・・」
「お前は、ここに居るな」

 蠢いていた手を止め、代わりにぎゅっと抱きしめる。
 手加減の無い全力の抱擁に、かなでが息を詰めたのに気づいたが力を緩める気はさらさらになかった。髪に顔を埋め胸一杯に香りを吸い込む。
 いつ暴れられても不思議じゃない行動を一方的に取っている自覚があったが、それでも止められなかった。

「小日向。───小日向」

 繰り返し、繰り返し。壊れたテープのように、それしか知らぬように幾度も名を繰り返す。
 始めは強張っていたかなでの身体から徐々に力が抜け、そっと千秋の服を握った。それに気がつき益々腕の力を強める。
 かなでは千秋の様子がおかしいのを敏感に感じ取ったらしい。普段から鈍くほえほえしているがかなでは決して空気が読めない人間ではない。むしろ、恋愛感情以外の人の機微にはとても敏感だ。
 宥めるように髪を撫でられ、不覚にも視界が歪んだ。
 夢が夢であって良かった。あれが現実であったなら、千秋は正気を保ってられない。早々に狂い、同じ行動を取っていただろう。それくらい、あの夢は恐ろしく印象深かった。

「小日向。ここにいろ。俺の傍に」
「はい、東金さん。私はちゃんとここにいます。大丈夫、大丈夫ですよ」

 優しい声音で繰り返すかなでは、千秋の言葉の意味を理解していない。
 だが、それでも良かった。意味を理解せず、尋ねもせずにかなではそれでも了承した。千秋の傍にいると、言ってくれた。今の千秋にはそれだけが全てで、それだけが真実。
 温もりを抱きしめ彼を想う。

「俺は、あいつみたいにならない」
「東金さん?」
「俺は絶対に、間違わない」

 夢の中で全てを失った彼に宣言する。
 ぎらぎら光るその瞳を、抱きしめられたかなでは伺うことは出来なかった。

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「こんにちは。日野香穂子です。宜しく」

朗らかに微笑んだ日野と名乗る彼女は、この場で知らぬものが居ぬ位に有名な人だった。
否、正確に言えばこの学園で知らぬものも居なければ、全国の音楽学校に通う人間で知らぬものも居ないだろう。
それくらいに目の前の女性は有名で、稀有な存在だった。

取られたキャスケットから溢れ出た赤髪は染めたものではなく純粋な色をしていて、見事な輝きを持っている。
かなでよりも高い位置にある顔立ちは整っており、笑うと自分とそんなに変わらない年代に見えた。
人懐っこそうな好奇心旺盛な瞳に、柔らかそうな白い肌。視線を胸に落とし、その後自分の胸へとやり、かなでは少しだけ落ち込んだ。
千秋や蓬生と違うけれど、彼女はとても華やかな雰囲気で、でも纏うのは朗らかで温かみのある気配。

「日野・・・香穂子、だと?」

掠れた声は千秋が発したもので、珍しくも彼の瞳はまん丸に見開かれていた。
それも仕方ない。何せ相手は日野香穂子だ。
衛藤桐也、王崎信武、そしてもう一人のヴァイオリニストと名を並べる新進気鋭の音楽家だ。
華やかで艶やかな衛藤の音。
穏やかで優しい王崎の音。
どちらも世界で人気を博し、尊敬しているがかなでが一番に好きで憧れているのは、目の前の女性の奏でる音だ。

彼女が操る楽器から繰り出される音は、まるで光り輝いていた。
太陽のように全てを包み何もかもを許容する。それでいて斬新で艶やかでコケティッシュ。
音楽を楽しみ音楽を愛しむ、そして音楽に愛された女性。
尊敬し憧れる人の登場に、かなでの瞳はきらきらと輝く。

「あ、あの!」
「ん?何?」
「私、小日向かなでっていいます!ファンです!サインください!」
「ええ!?でも、私今書くもの持ってないし・・・」

慌てたように目をまん丸にして告げる彼女に、情けなく眉を下げると、間に誰かが入った。
ぱちぱちと目を瞬き、それが幼馴染の背だと気がつくと首を傾げる。

「律くん?」
「・・・俺のサインペンでよければお貸しします。そして俺にもサインを下さい」

言い切った彼に不意に思い出した。
そう言えば、律はかなでに負けず劣らず彼女のファンであったのを。
ペンどころか手にノートを持っている彼の周到さに唖然とし、そして負けるものかと自分も何か書けるものを探す。
鞄をあさり出てきたティッシュやハンカチに絶望したかなでは最終手段に訴えた。

「私は、背中にサインください!」

ファンとは得てして奇妙な行動を取ってしまうものである。
あははは、と苦笑した彼女にしっかりサインペンを握らす幼馴染と顔を見合わせ、二人は静かに頷きあった。

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「れいじくん、ほらみて」
 きれいなおはな、と微笑んで差し出されたそれに玲士は眉根を寄せる。
 年下の幼馴染はどうにも捕らえどころが無いぽややんとした表情で、真っ白いドレスが汚れるのも気にせずに草原に直にしゃがみこんだ。そして嬉しげに摘んだばかりの花を玲士に渡す。
 玲士は花を美しいとも好ましいとも思わない。なのにこの鈍感な少女は生まれてからの付き合いだというのに、未だにそれを理解しない。
玲士の興味はこんな低レベルな物に無く、政治や勉学に関心が向いている。
 差し出されたそれを睨み付ければ、にこにことしていた笑顔が徐々に曇り始めた。
「・・・れいじくん、おはなはきらい?」
 たどたどしい口調で尋ねられた。瞳はすでに潤み始めている。淡く染まっていた頬は別の意味で赤くなり、膜の張ったひとみから今にも涙が溢れそう。
 忌々しい表情に、玲士は深く深く息を吐き出す。この幼馴染の相手は面倒で仕方ない。
「そんなものより、ほんをよめ。きさまもまがりなりにもおうぞくならきょうようはひつようだ」
「ほん?いまはなにをよんでるの?」
「とうようからとりよせたほんだ。いいまわしがどくとくでおもしろいぞ。このくにでは、あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ」
「あいしてる?それってなに?」
「・・・・・・」
 きょとり、と見上げる眼差しに玲士の言葉が詰まる。東洋からの本は純文学と呼ばれる難しいものであったが、それを理解するには玲士は未だ幼い。ただ愛しているという言葉は教養として読んだ作家のものにたまに出てくるので覚えていたのだが、どんなものかと問われれば説明する術は無い。
 こほん、と一つ咳をすると玲士は話を変えるためにぶっきらぼうに本を持ってない方の手を突き出した。
「・・・ん」
「え?」
「よこせ。───はなは、きらいじゃない」
 好きでも無いがな。心の中で付け加える。
 だが、玲士の心の中など読み取れるはずもない幼馴染は、渋々差し出された手に宝物を手渡すように持っていた花を置いた。
 玲士の小さな掌にすっぽりと収まるそれは、瑞々しい色をしている。
「れいじくん」
「なんだ、かなで」
「・・・ずっと、いっしょにいようね」
約束だよ。小指を差し出した幼馴染は、まるで今日の日差しのように暖かで眩かった。



 玲士には幼馴染が居る。その相手は自分より身分は上だが年は下で、そして随分ととろくさい少女だった。
 国の重鎮、大臣の息子である玲士は代々続く名家の跡取で、生まれた瞬間から将来を定められていた。そして、玲士が仕えるべき王家の人間。それがかなでだ。
 玲士より一つ年下の少女は、とにかくとろい。何も無いところで転ぶのは日常。城を一人歩きすれば迷子になる。勝手にキッチンへ入りこんでは料理をする、運動神経皆無でダンスは上手いが三曲以上踊れない。
 ほわほわとした気の抜けた笑顔を常に浮かべ、春の日差しのようなのんびりとした気性をし、穏やかで思わず手を差し伸べたくなる鈍さを持つ。一つしか年の差がないはずのこの少女の面倒を、玲士は幼い頃から見てきた。
 何処までもとろくさいかなでだが、玲士より優れたものを二つだけ持っていた。ヴァイオリンを奏でる腕と、人身掌握術───つまり、人徳だ。
 かなでと玲士は幼い頃、時期を同じくして共にヴァイオリンを習い始めた。貴族の趣味の一環だが、かなでも玲士も類稀なる才能を発揮した。音を奏でるだけで世界を作り出し、無限の可能性を広げる。二人の腕は国を跨いで噂となり、国民たちの誇りとも言えた。玲士の演奏も一角ならぬものだったが、かなではその上を行く。年に一度開かれる国立祭での演奏を楽しみに、お忍びで余所の国から王族が見学にくるほどだ。
 そして、人身掌握術、つまり人徳についても玲士はかなでに適わない。ほえほえしたかなではいつも微笑んでいる印象がある。穏やかで他人に負の感情を向けないかなでは、誰かに厭われる事も憎まれる事もなかった。敵を作りやすい玲士のフォローもこなした。
寛厚でありながら芯を持つかなでと冷静な判断が出来き時には冷酷になれる玲士は、息のあったいい幼馴染であった。
そう、かなでに縁談が持ちこまれるまでは。
「結婚───だと?」
「はい」
 梔子の柔らかな髪を揺らして頷いたかなでの頬は微かに染まっていた。大きな琥珀色の瞳は夢見るように潤んでいる。口元はゆるく上がり、幸せそうな微笑が可憐な容姿を彩った。
 淡いピンクの幾重にもレースが重なるドレスを翻したかなでは、まるで秘密を打ち明ける子供みたいに嬉しげに囁く。
「実は、隣国の王子様から申し込みがあったんです」
「隣国と言うと、東の大国神南か。そこの王子が我が国のような小国へと申し込んだだと?」
「はい。去年の王立祭でヴァイオリンを演奏していた私を見初めて下さったんですって。一年間、ほぼ毎日手紙をくれたんです」
 差し出されたそれは、籠一杯になる手紙の山。眉を顰めて手を伸ばし、一通を取りひっくり返す。蜜蝋の上に押された印は確かに王家の印。だがこれが本人からのものだとどうやって判断する。
 訝しげな表情の玲士を余所に、かなではふふと笑う。
「玲士君、今どうせこれは本人からのものじゃないだろうって思ったでしょう」
「・・・・・・」
「私も、そう思ってたんだ。でも、お会いするたびに彼は手紙の内容を私に告げたの。それは私が書いたものだったり、彼らから浮けとったものだったり。───もしかしたら、その手紙は本人からのものじゃないかもしれないけど、読んで下さってるのは、内容を把握してくださっているのは本当です。それに向けてくださる笑顔も、言葉も本物。だから信じることにしたんです」
「・・・貴様は」
「はい?」
「本当に、救い様の無い馬鹿だ」
 そうかもしれませんね。
 淡い微笑を浮かべた幼馴染は、今まで見たどれよりも愛らしく美しかった。

「国を獲るぞ、玲士」
「・・・・・・」
 呼び出された父の部屋。そこは当主専用の執務室で、王族に負けぬ広さと豪華さを持つ。
昔はもっと質素だったその部屋に、物が増え始めたのはいつからだったか。思い出せぬほど昔かと思い至り、ひっそりと息を吐く。
尊敬すべき父の背を追っていた。高潔で冷静な父は玲士の誇りで、時に冷酷までの判断を国の為に下せる彼を目指して生きていた。その筈だった。
玲士が子供の頃は、痩身で玲士と酷似する美貌を持っていた彼は、何時の間にかでっぷりと太り脂ぎった頬に有り余る脂肪に無駄に宝石のついた衣服を纏う。指には一握りはある宝石のついた指輪。それだけで一財産を築ける立派なものだ。
嫌らしく緩んだ唇に葉巻を燻らせ眦を下げた男に、玲士が憧れた片鱗は無い。それでもこの男は、玲士の父親だった。
「王女の婚礼の日取りが決まった。そうなれば王女しか居らぬ我が国はあの大国に吸収される。愚かな国民どもは国が栄えると喜んでいるが、そんな事はない。国の文化は吸収され、新たに塗り替えられる。独自に守っていた我が国の誇りは消える。───この国の王には我が息子、玲士こそが相応しい。本来なら、お前こそが王女と結婚し国を継ぐはずだったのに」
「・・・父上」
「この国の王は愚かだ。玲士ほど優秀な人間が居るのに、わざわざ他国の人間を選ぶとは」
「・・・・・・」
「この国は変わらねばならない。他国に吸収されるのではなく、自身で羽ばたくために」
 目の前の肥えた男はもう玲士を映していない。近い内に手に入れるつもりの国と、そして財産のみを見ていた。
 こちらを見ない男に一礼すると、玲士は静かに部屋を退室した。
「お兄様」
 退室すると同時にかけられた声に玲士は振り返る。そこには、玲士の血を別けた妹が、哀しげに眉を下げて立っていた。
 身に纏う淡いイエローのドレスは、先日目にしたかなでが着ていたものとお揃いだ。玲士と幼馴染であるかなでは、玲士の妹を自分の妹のように可愛がっていた。このドレスは、去年の王立祭用に二人で選んだ品。玲士は髪を飾るコサージュを彼女たちに贈った。
 去年の王立祭はとても楽しかった。仲睦まじい彼女たちはくすくすと微笑みながらお忍びに出かけ、泡を食った玲士は慌てて無茶な二人を探しに行ったものだ。
 町娘のように質素な衣装と、弄った髪型と眼鏡で印象を変えた二人組みは中々見つからず、息を切らせて見つけた先で彼女たちは暢気に話題の喫茶店とやらでケーキセットを平らげていた。漸く見つけた二人に雷を落した玲士を横目に、ウィンクしあい逃亡し、尚且つ玲士に代金を支払わせたのも今となっては良い思い出・・・とは言えなくともインパクトのある思い出だ。
 ああ、だがそれも二度と過ごせない時間だ。
 枝織を見た玲士の顔には一切表情が無かった。感情を削り落とし、厳しい表情で不器用に微笑んでいた玲士は存在しない。
「お兄様。───お止めください」
「何を言っている、枝織」
「お願いです、お兄様。かなでさんを・・・かなでさんに、酷いことをしないでくださいませ」
 悲痛な表情で祈るように腕を組んだ枝織は玲士を見詰める。だがそれに動くべき心の天秤は玲士の心にはもうない。
 全てが遅過ぎたのだ。掛け間違えたボタンは、全部嵌めなおさねばなるまい。
「枝織」
「何でしょう、お兄様」
「お前の縁談を纏める。今月中には嫁に出すつもりだ。覚悟しておけ」
「───!?お兄様」
「お前は、幸せになれ」
 そして見せた微笑は、玲士が妹に向けた最後の笑顔だった。

「玲士くん。どうして・・・?」
 大きな瞳を向けてくるかなでは、顔一杯に疑問符を浮かべている。すでに、王族は彼女しか居ない。
 嘗ては王立近衛隊として王族に仕えていた人間を控えさせ、玲士は冷笑を浮かべた。
「貴様は、貴様たちは王族として相応しくないと俺たちは判断した。かなで、王族は恋愛感情で結婚は許されない。貴様とて、それくらいは覚悟の上だったはずだ」
「ええ、判っています。判っているから私は隣国の王子を選んだ。他の誰よりもこの国を発展させる技術と財力を持つかの国を。玲士くんだって知っているでしょう?」
「確かにかの国はこの国を発展させるだろう。我が国の文化を根こそぎ土足で踏みつけて、な」
「・・・・・・」
「彼らはそれを厭うた。現存する王族を廃し、新たな王を頂くと決めたのだ。この国を守るために」
「それが総意ですか」
「ああ」
「玲士君もそれを望んだんですか?」
「・・・・・・ああ」
 頷けばかなでは大きな瞳を閉ざす。そして普段のぽやぽやした雰囲気ではなく、凛と背筋を伸ばし王族が持つ命令しなれた声音を響かせた。
「私を玲士君と二人だけにしなさい」
「・・・何を」
「聞こえませんでしたか?下がれと申しているのです」
 真っ直ぐな眼差しに射抜かれた、元・近衛たちは顔を見合わせる。切っ先は揺れ動揺が伝わってきた。睥睨し息を吐き出すと身体を震わす。
 彼らはかなでを憎んでいるのではない。元々かなでは殺す予定ではなく、王族の象徴として利用するはずだ。故に剣を向けるのを未だに彼らは躊躇っている。
「出て行け」
「ですが」
「俺が、この女にどうこうされると思っているのか?運動神経皆無な、剣すら持てぬこの女に」
「・・・」
「判ったらさっさと下がれ。話が終われば呼ぶ」
 頷いた彼らは速やかに玲士の命令に従う。心持ち心配そうな表情でかなでを見、そしてそそくさと部屋を出た。
 二人きりになった室内で対峙する。こんなときであるのに、幼馴染は震え怯える事すらしない。胸の前で掌を組み、静かな眼差しで玲士を見詰めた。
 風に吹かれてカーテンが翻る。一瞬視界から消えたかなでに見えないよう、玲士は眉を顰めた。
 王女の部屋は整理され随分と物が無くなっている。来月には婚礼を控え、来週にも城を出る予定だったのだからその準備の所為だろう。
 お気に入りの羽ペンも、子供の頃から大切にしている絵本も、いつも飾ってあった花瓶もない。机の上に置いてある読みかけの本が、かなでがここで暮らしていると認識させる唯一だった。
 翻ったカーテンの裾から夜空が見えた。月が煌煌と空に輝き、雲が風に流れる。昨日までと変わらない空に、玲士は歪な笑みを浮かべた。
「おじ様の指示なの?玲士君」
「いいや。俺の意思だ」
「───この国を支配したいの?」
「いいや。守りたいとは思うがな」
「大国へ嫁げばこの国は発展すると思った。それは早計だったのかな?」
「いいや。それもこの国を豊かにする手段の一つだった。ただ、それを認められない輩が、この国の貴族には多かった。それを貴様たち王族は見抜けなかった。それだけの話だ」
「そう」
 目を伏せたかなでは、自分を抱きしめるようにして一歩下がる。眉尻が下がり、寂しそうな表情で頷いた。
「ねぇ、玲士君」
「何だ」
「昔、子供の頃にした約束覚えてる?」
「・・・何の事だ」
 子供の頃、この幼馴染とは幾つも約束を交わした。だからかなでが何を指しているのかすぐには判ら目を細める。するとかなでは益々哀しそうに微笑むと、窓辺へ向かい歩き出した。
 シャっと音を立ててカーテンを開く。先ほど僅かに覗き見たときも思ったが、こんな惨事が起きているとは思えないほど綺麗な月夜だ。
星は瞬き月輪に雲がかかる。絵に描いたような美しさに、玲士は眉を顰めた。
「ねぇ、玲士君。───私が憎かった?反逆を起こすほどに」
「・・・・・・」
 かなでの言葉に簡潔に答える術を玲士は持たない。彼女へ抱く想いは複雑過ぎて、憎んでいないと容易に応えるには至らない。
 黙りこんだ玲士にそれが答えと判断したらしいかなでは、初めて泣きそうに顔を歪める。そうして気づいた。この暢気な幼馴染の泣き顔など、ここ十数年と見ていなかった事に。
 喜怒哀楽が豊かだった少女は、何時の間に泣き顔を見せなくなったのだろう。思案しても思い出せずに、玲士は一歩かなでへと距離を詰めた。
 だが伸ばされた手を避けるようにかなでは身を引く。
「玲士君」
「何だ」
「今まで、一杯ありがとう。私、玲士君の幼馴染で嬉しかったし幸せだった。───玲士君には迷惑だったかもしれないけど、本当に幸せだった」
「・・・かなで?」
 久方ぶりに呼ばれた名に目を見開いたかなでは、次の瞬間には花開くように微笑んだ。
「名前、呼んでくれるの何時以来かな?もう、思い出せないくらいずっと呼んでくれなかったのに」
「当然だ。俺は貴様の臣下であり、並び立つ人間ではなかった」
 だが、これからは違う。違う未来があるかもしれない。この国を、玲士が治めるようになれば、定められた未来は変わるかもしれない。
 大国からの求婚。ここまで進んだ縁談を無理やりに断ち切れば、皺寄せは民に来る。それを理解していながらも、手が届くかもしれない野望に玲士は止まれない。
 玲士が欲しいのは、国でも金でも権力でもなく───。
「ありがとう、玲士君」
 微笑んだかなでは窓を向き、空を見上げる。
 白く細いせんしゅを上に向け玲士に微笑みかけた。それは昔から良く見た、玲士が執着した日差しのように暖かで柔らかな。
 さらり、と梔子色の髪が揺れる。瞳が細められ頬が淡く染まった。
「見て、玲士君」
「・・・・・・」
「月が、綺麗だね」
「かなで・・・?」
 囁かれた言葉に首を傾げる。意味を計り兼ねていると。
「月が綺麗ですね」
 もう一度告げられ、玲士は月に視線をやる。
 その一瞬で全ては定まった。
「っ!かなで!?」
 視線を戻した時には、翻るドレスは視界の端へと消えていくところだった。慌てて窓辺に駆け寄れば、僅かな間を置き水音が聞こえる。
 かなでの部屋のすぐ裏には、王家の所有する湖がある。広さも深さも相当なそれに、かなでは落ちたと言うのだろうか。
 光りの届かない場所に必死に目を凝らしてもかなでを見つけることは出来ず、慌てて身を翻す。その表紙に手が名何かにぶつかり反射的に玲士はそれを宙で掴んだ。
 廊下で目を見張る男たちを尻目に必死に走る。かなでの部屋は三階。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
 走って走って息が切れるまで走って漸く辿りついた場所で、玲士は絶望した。
 湖は赤く染まり、水の色が濁っている。動転して忘れていたが、この湖には護衛用に何匹かの鰐を飼っていた。流れ着いたドレスの切れ端は、土と血で汚れかなでの生存を絶望的なものとする。
 ひざまづき空を見上げれば月は何も知らぬ顔でこちらを見ていた。
 地面に拳を叩き付け様として、自分が手に本を持ったままなのに気がつく。視線をやれば東洋の文字で書かれたタイトルが目に入り、玲士は息を呑んだ。
『月が、綺麗だね』
 泣きそうに微笑んだかなでの笑顔が脳裏に浮かぶ。
 昔、玲士とかなでがまだ身分の差を理解しなかった頃。王家の所有する花園の奥で、彼らはよく共に遊んだ。
『とうようからとりよせたほんだ』
 幼かった玲士は意味も判らぬくせに、かなでに胸を張って教えなかったか。
『いいまわしがどくとくでおもしろいぞ』
 きょとり、と目を丸くしたかなでは小首を傾げて見上げてきて。
『あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ』
 だから年下の幼馴染に、何も知らないんだなと。
 かなでは覚えていたというのか。あんな、日常に紛れた些細な日を。玲士が愛した穏やかな過去を。

───月が綺麗ですね

 繰り返された言葉の意味が漸く判る。あれは、そういう意味だったのか。
 呆然と口を開け、かなでが沈んだ場所を眺める。先ほどまで揺れていた湖面は静まり、今は普段と同じ穏やかな姿を見せた。
 ほろり、と何かが頬を伝う。温度を持つそれが何かを、玲士は知りたくなどなかった。
「・・・かなで」
 情けなく掠れた声に瞼をきつく瞑る。頭ががんがんと痛み、気を抜けば意識が途切れそうだ。
 かなでが読んでいた本を、彼女の変わりに胸に抱くと足を一歩踏み出した。
 ブーツの端から水が入りこみ、靴が少しずつ重くなる。玲士が進んだ個所から放物線を描き水が揺れた。
「かなで」
 憎んでいた。自分の手の届かない場所に去っていく彼女を。
「かなで」
 怨んでいた。共にこの国を発展させると誓ったはずだと。
「かなで」
 蔑んでいた。歴史ある国の文化を大国へと売った王族を。
「かなで」
 でも、それ以上に。
 愛していた。何物にも代えられぬほどに。彼女さえ居れば他に何も望まないと、唯一神に祈るほどに。
 ほろり、ほろりと何かが伝う。頬から顎へ、そして水面へと落ちるそれは、玲士が立てた波に消える。
 冷たい水はすでに胸元まで来ている。闇の中、金色に光る目が幾つもこちらを捉え徐々に近づいてきた。それでも玲士の歩みは止まらない。
「かなで」
 何時から変わってしまったのだろう。始めは純粋に幸せになればいいと、思っていたはずなのに。国への想いも純粋なものだったはずなのに。
 示された別の道。選んではいけないと理解しながら、玲士は己の欲に負けた。
 幸せになってもらいたいのではなく、幸せにしたいのだと。共に歩んでいきたいのだと、望み願ってしまった。 それが破滅への道筋だと明確に理解していたのに。
 玲士が死ねば革命軍のリーダーは居なくなる。だが代わりは簡単に見つかるだろう。抜かり無い父が一つ手駒を失ったところで痛手を受けると思えない。新たに君主として据えるなら、そう、枝織の夫だろう。
 先日枝織を娶った男も国の重鎮であり、そして枝織自身も国で人気がある人物だ。新たな柱として申し分無い。
 ばちり、と顔の近くで水が跳ねる。近づく獲物に肉食獣は歓喜し円を描く様に距離を詰めてきた。迫り来る死に、心は穏やかだ。これでかなでの傍に行けるなら、享受しないはずがない。
「かなで。───今日の月は綺麗だぞ」
 空を見上げてうっとりと囁く。月は煌煌と輝き、玲士は目を細めた。柔らかな表情は、いつだってただ一人にしか向けられなかったもの。
瞳は愛しさに溢れ、最早隠さずに言える言葉に玲士は酔った。
「聞こえるか、かなで。月が、綺麗だ」
 嬉しそうな声は、水音に潰える。
 腕が千切れ、骨が断たれ、足が無くなり、胴体に牙を突き立てられる。それでも玲士は微笑を崩さない。
「か・・・なで。・・・つきが・・・き・・・れ・・・」
 喉笛が掻き切られ、血が吹き出る。薄れ行く意識の中、懐かしい笑顔が微笑んだ気がした。



『れいじくん、ずっといっしょにいようね』
『ああ、かなで』
 絡めた細い指先に、玲士ははっきりと頷く。この小さな少女を守るのは自分しか居ないと決めていた。
 白くまろい頬を染めたかなでは、絡めた小指をぶんぶんと振る。その勢いに眉根を寄せた玲士は、仕方が無いなと苦笑した。
 優しい午後。微笑んだ彼らは手を繋ぐ。

 子供だった彼らは、あの日確かに永遠を信じていた。

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