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スイッチを切り替えたようにぱちり、と目が覚める。
視線だけで辺りを見廻せば、そこは今泊まっている星奏学院の寮の一室であるのが判り、ベッドに手を置いて上半身を起こす。
閉めきられたカーテン越しに薄日が差し、雀の囀りと至誠館の早朝トレーニング前の準備運動の野太い声が微かに聞こえた。
枕元にあるサイドテーブルに手を伸ばすと、置いてある腕時計を掴んで目を凝らす。時刻は朝五時半。認識した途端不機嫌に眉を跳ね上げ短い金髪をくしゃりとかき乱した。
「早過ぎだろ・・・」
うんざりとした気分そのままの声が漏れる。もう一度寝直したいが、生憎と目は冴えてしまっていた。ベッドに入り込み布団を頭から被ったところで背を向けてしまった睡魔は戻って来そうにない。
益々渋い顔になった千秋は、重いため息を漏らした。
「随分とまた趣味のいい夢だったもんだ」
苦い想いを篭めて呟く。唇は誰に対するものか判らぬ皮肉に歪み、声音は低い。
先ほどまで見ていた夢は、分類するなら『悪夢』に入るのだろう。印象深く、嫌になるくらいリアリティがあった。現に目が覚めた今も心臓はばくばくと脈打ち、暑さの所為で無い汗が止めど無く流れる。
その夢では、千秋は『千秋』であったが人ではなかった。
黒く大きな羽と尖った耳を持つ魔の者、所謂悪魔と呼ばれる種族の彼は、失った特別を探し毎夜森を彷徨う彷徨う亡霊となった。
命はあったが彼は生きてはいなかった。生きる事を放棄して尚、彼は探しつづけていた。
額から頬へと伝ってきた汗を拭うと、硬く目を瞑る。それは確かに夢の中の出来事であったはずなのに、現実感がありすぎた。
夢の中の彼は、盲目の少女に執着していた。同族で無い彼女を唯一の特別とし、過ぎる時間を大事にしていた。
彼は最後まで気がつかなかった。その感情がどんな意味を持つのかを。
悪魔である彼は誰かに好意を持った事が無く、彼女への感情の意味を教えてくれる知人も居なかった。欲しているのは判っていたが、何故なのかを考える理由も理解できなかった。
始めはただの好奇心。自分が知る何よりも美しいと感じた音への興味だった。
顔を見て初めて相手が盲目であるのに気がついたが、面倒だとは思わなかった。目が見えなくともその少女の奏でる音楽に変わりはなく、むしろ目が見えないからこそ研ぎ澄まされた才能だと見抜いたから。
話をする内に、興味はヴァイオリンの音から少女へと少しずつ移行していった。
少女は目が見えず貧乏な暮らしをしていたが、永い時を生きた彼が知る誰よりも朗らかで何時でも微笑んでいる、そんな健気な娘だった。
元来人懐こい性格をしていた彼女は、森の奥でいつ壊れても可笑しくない家に一人で住むのは苦痛だっただだろうに、初対面で少し話しただけの彼に『友人になってくれ』と頼み込むくらい寂しい想いをしていただろうに、その境遇を嘆き悲しみを切々と愚痴ったことは一度も無い。
彼が訪れた時、家の屋根から雨漏りしていても、眠るための藁のベッドが腐っていても、目が見えないため火を扱えず、生の芋を食べ調子を崩していても、どんな状態でも微笑んで迎えてくれた。
目が見えない自分に家を与えてくれた村人に感謝し、数日に一度通ってくれる幼馴染に感謝し、日々生きることが出来る幸せに感謝する、そんな朴訥な少女だった。
普段は何処かとろさが目立つ彼女に、始めこそ呆れて眺めているだけだった彼も、いつの間にか放っておけなくなり手を差し伸べていた。気が良いと言っても何処までも悪魔の彼が、見返りを要求せずに幾度も幾度も。
終いには彼女へ善意を施してくれるからとの理由で、彼女の元へ通い食料を届ける幼馴染にすら謝礼を渡すようになっていた彼は、己の有り様に疑問を抱きつつもそれでも長い時間の中で一番充実した暮らしを送っていた。
天気の良い日は外に出て、雨や雪が降る日は室内で。
彼女の奏でる───否、謳わせたヴァイオリンの調べに耳を傾け、ゆったりと過ごす。不思議にも彼女と一緒にあれば彼の胸に破壊衝動は起こらず、悪魔らしからぬ暢気さで穏やかに日々を送っていたのに。
神を嫌う悪魔だったからか、幸福は呆気なく塵と化した。
村へ行くと酷く嬉しそうに彼女が笑ったから、彼は彼女を手放した。次の約束をするのも何時の間にか気に入っていて、待ち時間の間ずっと彼女を想うのも楽しかった。少しとろくて運動神経が切れている彼女だったけど、約束を破るような人間ではないと、契約もしてないのに信じてた。
彼女が居ない夜、彼は家の屋根で過ごした。少しずつ欠けて行く月を眺めて、指折り日にちを数えていた。自分の都合でなく、彼女の都合で待つのは初めてだったので、少しだけ胸を高鳴らせ、いつ帰ってくるのか、どんな顔で帰ってくるのか、土産話は何なのか、第一声は何なのか、平和ボケした脳みそでずっと考えていたのだ。
それは随分とおめでたい思考だったというのに。
彼が指折り数え何日も何日も待つ間、彼女はその命を儚く散らしていたのに。
彼の絶望を思い出し、身体を丸め息を吐き出す。あれは自分ではなかったのに、シンクロした感情は容易に切り離せない。
「何故、疑わなかった」
目の見えない彼女を森へと追いやる人間たちに、彼女を託してしまったのだ。疑り深い悪魔らしからぬ無用心さで、何の庇護もなしに送り出してしまったのだ。
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、千秋は本当はその答えにも気づいていた。理由は単純で明快だ。
彼が疑わなかったのは、彼女が彼らを信じていたから。笑う彼女を、彼もまた信じていたからだ。
彼女は殺されるつもりはなかった。そうでなければ、彼と約束をするはずがない。
ならば、と千秋は思う。守るためにも、彼は疑わなくてはならなかったのだ、と。
「彼女の世界はいつだって明るかったのを、お前とて知っていたはずだ。質素と言うのもおこがましい生活の中でも幸せだと微笑んでいたのだから。だから、お前も手を貸したのだろう?彼女に気づかれないように、感謝も謝礼も必要とせず代償を得ようともしないで」
彼は普段の契約とは違い、彼女に見返りを求めていなかった。否。求めていたがそれは共に過ごす時間だとか微笑が届く距離だとか至上の音色を響かせるヴァイオリンだとか些細で、けれど彼にとってはこの上なく特別なものだった。欲望を満たして得た力ある魂ではなく、彼女がそこにあることだけを彼は欲していたというのに。
「お前は、手綱を緩めてはいけなかった。打てる布石は全て投じなければならなかったんだ」
彼の絶望の深さを知る千秋は、瞼を閉じれば浮かぶ光景に胸を締め付けられる。
彼女を失った彼は、自身が消滅するまでの永い時間を一人で彷徨い続けた。心配する相棒の手を取らず、魔の者が住む世界にも帰らず、ずっと彼女が住んでいた場所を守って。
やがて時代は移り、人間は異世界の者の姿を偶像だと決め付けた。彼の姿は誰に認識されず、そして───魂を摂取しなかった所為で力も体も衰えた彼は、戦争と呼ばれる人類の諍いに巻き込まれ一人消えた。誰にも見取られず、愛した彼女を見つけれず、深く、暗い悲しみの淵で彼は滅んだのだ。
「・・・俺は、お前と違う」
彼女が消えても何百年と生きた彼と、自分は違う。ずきずきと痛む米神を宥めると、ゆっくりと立ち上がり部屋を後にする。
定まらぬ視界に目を眇め、ふらふらしながら目的の場所へと向かった。
幾度も壁に手を付き、やがて見えてきた場所に千秋はほっと息を吐く。壁に身体を預けるように進めば、そこには探していた人物が居た。
クリーム色のエプロンを着た彼女は、華麗にフライパンを操りつつこちらに背を向けている。その姿を瞳に映し、数度唇を舌先で舐めた。
「・・・小日向」
「え?」
今にも消えてしまいそうな小さな声に、けれど彼女は敏感に反応しこちらを振り返る。梔子色の髪が揺れ、大きな瞳が千秋を認めてやんわりと綻んだ。
「東金さん。どうしたんですか?まだ六時ですよ?今日は随分と早いんですね」
「窓の外から至誠館の奴らの声が聞こえたんだ。そのおかげできっぱりさっぱり目が覚めた。気分は中々に最悪だ」
少しの真実と、少しの嘘を混ぜて告げれば、炒め物を確認しフライパンの火を止めたかなでが近寄ってきた。
まじまじと覗き込んで来るかなではいつも通りで、やはり夢は夢かとひっそり胸を撫で下ろす。何時の間にか緊張して握っていた拳は汗ばんでいて、そっと解いた。
体調の悪さを見透かされないよう予め壁に背を預け腕を組んでいたのだが、眉間に皺を寄せ珍しく渋い表情をするかなでには通じなかったらしい。白く細い指を唇に当て、難しい顔をする。
「東金さん、顔、真っ青ですよ?」
「───そうか?明かりの所為じゃないのか?」
「確かに、キッチンと違ってこっちは明かりもつけてないから暗く感じるけど、でもこれだけ外からの光が入れば顔くらい見えます。・・・もしかして、脱水症状かも?そこの椅子に座ってください」
慌てて促され手を引っ張られれば、ふらり、と身体が傾いた。
まずい、と思いつつも踏ん張りが利かず、かなでとともに倒れこむ。咄嗟に身体の位置を入れ替え背中から落ちたのだから自分を誉めてやりたい。おかげで衝撃に息は止まったが、腕もかなでにも怪我はなく、ゆっくりと息を吐き出せば痛みも少しだけ紛れた。
「東金さん!?大丈夫ですか!!?すみません、私───」
「いい」
「でも!すぐ退きますから、ちょっと待っ」
「動くな!」
響いた怒声に似た激しいそれに、かなでの身体がびくりと強張る。反射的に動きを止めたかなでに、千秋は深呼吸する。
胸の上に乗る小さな身体越しにとくとくと鼓動が伝わり、瞼を閉じれば呼吸で上下する胸の動きすら伝わった。体温は暖かく、胸元に掛かる吐息で生きている信じられる。
夢の中の彼女と違い、かなでは細いがつくべきところに肉はついている。豊満と言い難くても、骨と皮だけだった彼女より遥かに豊かな体型をしていた。
掌を動かし、背筋を辿り首筋、耳元、髪、額、頬、顎、そして小さな唇へと指をやる。目が見えなかった彼女が取った行動をなぞった動きだったが、やってみて納得できた。目で見なくとも触れた感触で想像できる。微かな呼気が相手の生命を感じさせ、胸の奥から安心感が沸いてきた。
「・・・小日向」
「・・・・・・」
「お前は、ここに居るな」
蠢いていた手を止め、代わりにぎゅっと抱きしめる。
手加減の無い全力の抱擁に、かなでが息を詰めたのに気づいたが力を緩める気はさらさらになかった。髪に顔を埋め胸一杯に香りを吸い込む。
いつ暴れられても不思議じゃない行動を一方的に取っている自覚があったが、それでも止められなかった。
「小日向。───小日向」
繰り返し、繰り返し。壊れたテープのように、それしか知らぬように幾度も名を繰り返す。
始めは強張っていたかなでの身体から徐々に力が抜け、そっと千秋の服を握った。それに気がつき益々腕の力を強める。
かなでは千秋の様子がおかしいのを敏感に感じ取ったらしい。普段から鈍くほえほえしているがかなでは決して空気が読めない人間ではない。むしろ、恋愛感情以外の人の機微にはとても敏感だ。
宥めるように髪を撫でられ、不覚にも視界が歪んだ。
夢が夢であって良かった。あれが現実であったなら、千秋は正気を保ってられない。早々に狂い、同じ行動を取っていただろう。それくらい、あの夢は恐ろしく印象深かった。
「小日向。ここにいろ。俺の傍に」
「はい、東金さん。私はちゃんとここにいます。大丈夫、大丈夫ですよ」
優しい声音で繰り返すかなでは、千秋の言葉の意味を理解していない。
だが、それでも良かった。意味を理解せず、尋ねもせずにかなではそれでも了承した。千秋の傍にいると、言ってくれた。今の千秋にはそれだけが全てで、それだけが真実。
温もりを抱きしめ彼を想う。
「俺は、あいつみたいにならない」
「東金さん?」
「俺は絶対に、間違わない」
夢の中で全てを失った彼に宣言する。
ぎらぎら光るその瞳を、抱きしめられたかなでは伺うことは出来なかった。
視線だけで辺りを見廻せば、そこは今泊まっている星奏学院の寮の一室であるのが判り、ベッドに手を置いて上半身を起こす。
閉めきられたカーテン越しに薄日が差し、雀の囀りと至誠館の早朝トレーニング前の準備運動の野太い声が微かに聞こえた。
枕元にあるサイドテーブルに手を伸ばすと、置いてある腕時計を掴んで目を凝らす。時刻は朝五時半。認識した途端不機嫌に眉を跳ね上げ短い金髪をくしゃりとかき乱した。
「早過ぎだろ・・・」
うんざりとした気分そのままの声が漏れる。もう一度寝直したいが、生憎と目は冴えてしまっていた。ベッドに入り込み布団を頭から被ったところで背を向けてしまった睡魔は戻って来そうにない。
益々渋い顔になった千秋は、重いため息を漏らした。
「随分とまた趣味のいい夢だったもんだ」
苦い想いを篭めて呟く。唇は誰に対するものか判らぬ皮肉に歪み、声音は低い。
先ほどまで見ていた夢は、分類するなら『悪夢』に入るのだろう。印象深く、嫌になるくらいリアリティがあった。現に目が覚めた今も心臓はばくばくと脈打ち、暑さの所為で無い汗が止めど無く流れる。
その夢では、千秋は『千秋』であったが人ではなかった。
黒く大きな羽と尖った耳を持つ魔の者、所謂悪魔と呼ばれる種族の彼は、失った特別を探し毎夜森を彷徨う彷徨う亡霊となった。
命はあったが彼は生きてはいなかった。生きる事を放棄して尚、彼は探しつづけていた。
額から頬へと伝ってきた汗を拭うと、硬く目を瞑る。それは確かに夢の中の出来事であったはずなのに、現実感がありすぎた。
夢の中の彼は、盲目の少女に執着していた。同族で無い彼女を唯一の特別とし、過ぎる時間を大事にしていた。
彼は最後まで気がつかなかった。その感情がどんな意味を持つのかを。
悪魔である彼は誰かに好意を持った事が無く、彼女への感情の意味を教えてくれる知人も居なかった。欲しているのは判っていたが、何故なのかを考える理由も理解できなかった。
始めはただの好奇心。自分が知る何よりも美しいと感じた音への興味だった。
顔を見て初めて相手が盲目であるのに気がついたが、面倒だとは思わなかった。目が見えなくともその少女の奏でる音楽に変わりはなく、むしろ目が見えないからこそ研ぎ澄まされた才能だと見抜いたから。
話をする内に、興味はヴァイオリンの音から少女へと少しずつ移行していった。
少女は目が見えず貧乏な暮らしをしていたが、永い時を生きた彼が知る誰よりも朗らかで何時でも微笑んでいる、そんな健気な娘だった。
元来人懐こい性格をしていた彼女は、森の奥でいつ壊れても可笑しくない家に一人で住むのは苦痛だっただだろうに、初対面で少し話しただけの彼に『友人になってくれ』と頼み込むくらい寂しい想いをしていただろうに、その境遇を嘆き悲しみを切々と愚痴ったことは一度も無い。
彼が訪れた時、家の屋根から雨漏りしていても、眠るための藁のベッドが腐っていても、目が見えないため火を扱えず、生の芋を食べ調子を崩していても、どんな状態でも微笑んで迎えてくれた。
目が見えない自分に家を与えてくれた村人に感謝し、数日に一度通ってくれる幼馴染に感謝し、日々生きることが出来る幸せに感謝する、そんな朴訥な少女だった。
普段は何処かとろさが目立つ彼女に、始めこそ呆れて眺めているだけだった彼も、いつの間にか放っておけなくなり手を差し伸べていた。気が良いと言っても何処までも悪魔の彼が、見返りを要求せずに幾度も幾度も。
終いには彼女へ善意を施してくれるからとの理由で、彼女の元へ通い食料を届ける幼馴染にすら謝礼を渡すようになっていた彼は、己の有り様に疑問を抱きつつもそれでも長い時間の中で一番充実した暮らしを送っていた。
天気の良い日は外に出て、雨や雪が降る日は室内で。
彼女の奏でる───否、謳わせたヴァイオリンの調べに耳を傾け、ゆったりと過ごす。不思議にも彼女と一緒にあれば彼の胸に破壊衝動は起こらず、悪魔らしからぬ暢気さで穏やかに日々を送っていたのに。
神を嫌う悪魔だったからか、幸福は呆気なく塵と化した。
村へ行くと酷く嬉しそうに彼女が笑ったから、彼は彼女を手放した。次の約束をするのも何時の間にか気に入っていて、待ち時間の間ずっと彼女を想うのも楽しかった。少しとろくて運動神経が切れている彼女だったけど、約束を破るような人間ではないと、契約もしてないのに信じてた。
彼女が居ない夜、彼は家の屋根で過ごした。少しずつ欠けて行く月を眺めて、指折り日にちを数えていた。自分の都合でなく、彼女の都合で待つのは初めてだったので、少しだけ胸を高鳴らせ、いつ帰ってくるのか、どんな顔で帰ってくるのか、土産話は何なのか、第一声は何なのか、平和ボケした脳みそでずっと考えていたのだ。
それは随分とおめでたい思考だったというのに。
彼が指折り数え何日も何日も待つ間、彼女はその命を儚く散らしていたのに。
彼の絶望を思い出し、身体を丸め息を吐き出す。あれは自分ではなかったのに、シンクロした感情は容易に切り離せない。
「何故、疑わなかった」
目の見えない彼女を森へと追いやる人間たちに、彼女を託してしまったのだ。疑り深い悪魔らしからぬ無用心さで、何の庇護もなしに送り出してしまったのだ。
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、千秋は本当はその答えにも気づいていた。理由は単純で明快だ。
彼が疑わなかったのは、彼女が彼らを信じていたから。笑う彼女を、彼もまた信じていたからだ。
彼女は殺されるつもりはなかった。そうでなければ、彼と約束をするはずがない。
ならば、と千秋は思う。守るためにも、彼は疑わなくてはならなかったのだ、と。
「彼女の世界はいつだって明るかったのを、お前とて知っていたはずだ。質素と言うのもおこがましい生活の中でも幸せだと微笑んでいたのだから。だから、お前も手を貸したのだろう?彼女に気づかれないように、感謝も謝礼も必要とせず代償を得ようともしないで」
彼は普段の契約とは違い、彼女に見返りを求めていなかった。否。求めていたがそれは共に過ごす時間だとか微笑が届く距離だとか至上の音色を響かせるヴァイオリンだとか些細で、けれど彼にとってはこの上なく特別なものだった。欲望を満たして得た力ある魂ではなく、彼女がそこにあることだけを彼は欲していたというのに。
「お前は、手綱を緩めてはいけなかった。打てる布石は全て投じなければならなかったんだ」
彼の絶望の深さを知る千秋は、瞼を閉じれば浮かぶ光景に胸を締め付けられる。
彼女を失った彼は、自身が消滅するまでの永い時間を一人で彷徨い続けた。心配する相棒の手を取らず、魔の者が住む世界にも帰らず、ずっと彼女が住んでいた場所を守って。
やがて時代は移り、人間は異世界の者の姿を偶像だと決め付けた。彼の姿は誰に認識されず、そして───魂を摂取しなかった所為で力も体も衰えた彼は、戦争と呼ばれる人類の諍いに巻き込まれ一人消えた。誰にも見取られず、愛した彼女を見つけれず、深く、暗い悲しみの淵で彼は滅んだのだ。
「・・・俺は、お前と違う」
彼女が消えても何百年と生きた彼と、自分は違う。ずきずきと痛む米神を宥めると、ゆっくりと立ち上がり部屋を後にする。
定まらぬ視界に目を眇め、ふらふらしながら目的の場所へと向かった。
幾度も壁に手を付き、やがて見えてきた場所に千秋はほっと息を吐く。壁に身体を預けるように進めば、そこには探していた人物が居た。
クリーム色のエプロンを着た彼女は、華麗にフライパンを操りつつこちらに背を向けている。その姿を瞳に映し、数度唇を舌先で舐めた。
「・・・小日向」
「え?」
今にも消えてしまいそうな小さな声に、けれど彼女は敏感に反応しこちらを振り返る。梔子色の髪が揺れ、大きな瞳が千秋を認めてやんわりと綻んだ。
「東金さん。どうしたんですか?まだ六時ですよ?今日は随分と早いんですね」
「窓の外から至誠館の奴らの声が聞こえたんだ。そのおかげできっぱりさっぱり目が覚めた。気分は中々に最悪だ」
少しの真実と、少しの嘘を混ぜて告げれば、炒め物を確認しフライパンの火を止めたかなでが近寄ってきた。
まじまじと覗き込んで来るかなではいつも通りで、やはり夢は夢かとひっそり胸を撫で下ろす。何時の間にか緊張して握っていた拳は汗ばんでいて、そっと解いた。
体調の悪さを見透かされないよう予め壁に背を預け腕を組んでいたのだが、眉間に皺を寄せ珍しく渋い表情をするかなでには通じなかったらしい。白く細い指を唇に当て、難しい顔をする。
「東金さん、顔、真っ青ですよ?」
「───そうか?明かりの所為じゃないのか?」
「確かに、キッチンと違ってこっちは明かりもつけてないから暗く感じるけど、でもこれだけ外からの光が入れば顔くらい見えます。・・・もしかして、脱水症状かも?そこの椅子に座ってください」
慌てて促され手を引っ張られれば、ふらり、と身体が傾いた。
まずい、と思いつつも踏ん張りが利かず、かなでとともに倒れこむ。咄嗟に身体の位置を入れ替え背中から落ちたのだから自分を誉めてやりたい。おかげで衝撃に息は止まったが、腕もかなでにも怪我はなく、ゆっくりと息を吐き出せば痛みも少しだけ紛れた。
「東金さん!?大丈夫ですか!!?すみません、私───」
「いい」
「でも!すぐ退きますから、ちょっと待っ」
「動くな!」
響いた怒声に似た激しいそれに、かなでの身体がびくりと強張る。反射的に動きを止めたかなでに、千秋は深呼吸する。
胸の上に乗る小さな身体越しにとくとくと鼓動が伝わり、瞼を閉じれば呼吸で上下する胸の動きすら伝わった。体温は暖かく、胸元に掛かる吐息で生きている信じられる。
夢の中の彼女と違い、かなでは細いがつくべきところに肉はついている。豊満と言い難くても、骨と皮だけだった彼女より遥かに豊かな体型をしていた。
掌を動かし、背筋を辿り首筋、耳元、髪、額、頬、顎、そして小さな唇へと指をやる。目が見えなかった彼女が取った行動をなぞった動きだったが、やってみて納得できた。目で見なくとも触れた感触で想像できる。微かな呼気が相手の生命を感じさせ、胸の奥から安心感が沸いてきた。
「・・・小日向」
「・・・・・・」
「お前は、ここに居るな」
蠢いていた手を止め、代わりにぎゅっと抱きしめる。
手加減の無い全力の抱擁に、かなでが息を詰めたのに気づいたが力を緩める気はさらさらになかった。髪に顔を埋め胸一杯に香りを吸い込む。
いつ暴れられても不思議じゃない行動を一方的に取っている自覚があったが、それでも止められなかった。
「小日向。───小日向」
繰り返し、繰り返し。壊れたテープのように、それしか知らぬように幾度も名を繰り返す。
始めは強張っていたかなでの身体から徐々に力が抜け、そっと千秋の服を握った。それに気がつき益々腕の力を強める。
かなでは千秋の様子がおかしいのを敏感に感じ取ったらしい。普段から鈍くほえほえしているがかなでは決して空気が読めない人間ではない。むしろ、恋愛感情以外の人の機微にはとても敏感だ。
宥めるように髪を撫でられ、不覚にも視界が歪んだ。
夢が夢であって良かった。あれが現実であったなら、千秋は正気を保ってられない。早々に狂い、同じ行動を取っていただろう。それくらい、あの夢は恐ろしく印象深かった。
「小日向。ここにいろ。俺の傍に」
「はい、東金さん。私はちゃんとここにいます。大丈夫、大丈夫ですよ」
優しい声音で繰り返すかなでは、千秋の言葉の意味を理解していない。
だが、それでも良かった。意味を理解せず、尋ねもせずにかなではそれでも了承した。千秋の傍にいると、言ってくれた。今の千秋にはそれだけが全てで、それだけが真実。
温もりを抱きしめ彼を想う。
「俺は、あいつみたいにならない」
「東金さん?」
「俺は絶対に、間違わない」
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ぎらぎら光るその瞳を、抱きしめられたかなでは伺うことは出来なかった。
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