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「れいじくん、ほらみて」
きれいなおはな、と微笑んで差し出されたそれに玲士は眉根を寄せる。
年下の幼馴染はどうにも捕らえどころが無いぽややんとした表情で、真っ白いドレスが汚れるのも気にせずに草原に直にしゃがみこんだ。そして嬉しげに摘んだばかりの花を玲士に渡す。
玲士は花を美しいとも好ましいとも思わない。なのにこの鈍感な少女は生まれてからの付き合いだというのに、未だにそれを理解しない。
玲士の興味はこんな低レベルな物に無く、政治や勉学に関心が向いている。
差し出されたそれを睨み付ければ、にこにことしていた笑顔が徐々に曇り始めた。
「・・・れいじくん、おはなはきらい?」
たどたどしい口調で尋ねられた。瞳はすでに潤み始めている。淡く染まっていた頬は別の意味で赤くなり、膜の張ったひとみから今にも涙が溢れそう。
忌々しい表情に、玲士は深く深く息を吐き出す。この幼馴染の相手は面倒で仕方ない。
「そんなものより、ほんをよめ。きさまもまがりなりにもおうぞくならきょうようはひつようだ」
「ほん?いまはなにをよんでるの?」
「とうようからとりよせたほんだ。いいまわしがどくとくでおもしろいぞ。このくにでは、あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ」
「あいしてる?それってなに?」
「・・・・・・」
きょとり、と見上げる眼差しに玲士の言葉が詰まる。東洋からの本は純文学と呼ばれる難しいものであったが、それを理解するには玲士は未だ幼い。ただ愛しているという言葉は教養として読んだ作家のものにたまに出てくるので覚えていたのだが、どんなものかと問われれば説明する術は無い。
こほん、と一つ咳をすると玲士は話を変えるためにぶっきらぼうに本を持ってない方の手を突き出した。
「・・・ん」
「え?」
「よこせ。───はなは、きらいじゃない」
好きでも無いがな。心の中で付け加える。
だが、玲士の心の中など読み取れるはずもない幼馴染は、渋々差し出された手に宝物を手渡すように持っていた花を置いた。
玲士の小さな掌にすっぽりと収まるそれは、瑞々しい色をしている。
「れいじくん」
「なんだ、かなで」
「・・・ずっと、いっしょにいようね」
約束だよ。小指を差し出した幼馴染は、まるで今日の日差しのように暖かで眩かった。
玲士には幼馴染が居る。その相手は自分より身分は上だが年は下で、そして随分ととろくさい少女だった。
国の重鎮、大臣の息子である玲士は代々続く名家の跡取で、生まれた瞬間から将来を定められていた。そして、玲士が仕えるべき王家の人間。それがかなでだ。
玲士より一つ年下の少女は、とにかくとろい。何も無いところで転ぶのは日常。城を一人歩きすれば迷子になる。勝手にキッチンへ入りこんでは料理をする、運動神経皆無でダンスは上手いが三曲以上踊れない。
ほわほわとした気の抜けた笑顔を常に浮かべ、春の日差しのようなのんびりとした気性をし、穏やかで思わず手を差し伸べたくなる鈍さを持つ。一つしか年の差がないはずのこの少女の面倒を、玲士は幼い頃から見てきた。
何処までもとろくさいかなでだが、玲士より優れたものを二つだけ持っていた。ヴァイオリンを奏でる腕と、人身掌握術───つまり、人徳だ。
かなでと玲士は幼い頃、時期を同じくして共にヴァイオリンを習い始めた。貴族の趣味の一環だが、かなでも玲士も類稀なる才能を発揮した。音を奏でるだけで世界を作り出し、無限の可能性を広げる。二人の腕は国を跨いで噂となり、国民たちの誇りとも言えた。玲士の演奏も一角ならぬものだったが、かなではその上を行く。年に一度開かれる国立祭での演奏を楽しみに、お忍びで余所の国から王族が見学にくるほどだ。
そして、人身掌握術、つまり人徳についても玲士はかなでに適わない。ほえほえしたかなではいつも微笑んでいる印象がある。穏やかで他人に負の感情を向けないかなでは、誰かに厭われる事も憎まれる事もなかった。敵を作りやすい玲士のフォローもこなした。
寛厚でありながら芯を持つかなでと冷静な判断が出来き時には冷酷になれる玲士は、息のあったいい幼馴染であった。
そう、かなでに縁談が持ちこまれるまでは。
「結婚───だと?」
「はい」
梔子の柔らかな髪を揺らして頷いたかなでの頬は微かに染まっていた。大きな琥珀色の瞳は夢見るように潤んでいる。口元はゆるく上がり、幸せそうな微笑が可憐な容姿を彩った。
淡いピンクの幾重にもレースが重なるドレスを翻したかなでは、まるで秘密を打ち明ける子供みたいに嬉しげに囁く。
「実は、隣国の王子様から申し込みがあったんです」
「隣国と言うと、東の大国神南か。そこの王子が我が国のような小国へと申し込んだだと?」
「はい。去年の王立祭でヴァイオリンを演奏していた私を見初めて下さったんですって。一年間、ほぼ毎日手紙をくれたんです」
差し出されたそれは、籠一杯になる手紙の山。眉を顰めて手を伸ばし、一通を取りひっくり返す。蜜蝋の上に押された印は確かに王家の印。だがこれが本人からのものだとどうやって判断する。
訝しげな表情の玲士を余所に、かなではふふと笑う。
「玲士君、今どうせこれは本人からのものじゃないだろうって思ったでしょう」
「・・・・・・」
「私も、そう思ってたんだ。でも、お会いするたびに彼は手紙の内容を私に告げたの。それは私が書いたものだったり、彼らから浮けとったものだったり。───もしかしたら、その手紙は本人からのものじゃないかもしれないけど、読んで下さってるのは、内容を把握してくださっているのは本当です。それに向けてくださる笑顔も、言葉も本物。だから信じることにしたんです」
「・・・貴様は」
「はい?」
「本当に、救い様の無い馬鹿だ」
そうかもしれませんね。
淡い微笑を浮かべた幼馴染は、今まで見たどれよりも愛らしく美しかった。
「国を獲るぞ、玲士」
「・・・・・・」
呼び出された父の部屋。そこは当主専用の執務室で、王族に負けぬ広さと豪華さを持つ。
昔はもっと質素だったその部屋に、物が増え始めたのはいつからだったか。思い出せぬほど昔かと思い至り、ひっそりと息を吐く。
尊敬すべき父の背を追っていた。高潔で冷静な父は玲士の誇りで、時に冷酷までの判断を国の為に下せる彼を目指して生きていた。その筈だった。
玲士が子供の頃は、痩身で玲士と酷似する美貌を持っていた彼は、何時の間にかでっぷりと太り脂ぎった頬に有り余る脂肪に無駄に宝石のついた衣服を纏う。指には一握りはある宝石のついた指輪。それだけで一財産を築ける立派なものだ。
嫌らしく緩んだ唇に葉巻を燻らせ眦を下げた男に、玲士が憧れた片鱗は無い。それでもこの男は、玲士の父親だった。
「王女の婚礼の日取りが決まった。そうなれば王女しか居らぬ我が国はあの大国に吸収される。愚かな国民どもは国が栄えると喜んでいるが、そんな事はない。国の文化は吸収され、新たに塗り替えられる。独自に守っていた我が国の誇りは消える。───この国の王には我が息子、玲士こそが相応しい。本来なら、お前こそが王女と結婚し国を継ぐはずだったのに」
「・・・父上」
「この国の王は愚かだ。玲士ほど優秀な人間が居るのに、わざわざ他国の人間を選ぶとは」
「・・・・・・」
「この国は変わらねばならない。他国に吸収されるのではなく、自身で羽ばたくために」
目の前の肥えた男はもう玲士を映していない。近い内に手に入れるつもりの国と、そして財産のみを見ていた。
こちらを見ない男に一礼すると、玲士は静かに部屋を退室した。
「お兄様」
退室すると同時にかけられた声に玲士は振り返る。そこには、玲士の血を別けた妹が、哀しげに眉を下げて立っていた。
身に纏う淡いイエローのドレスは、先日目にしたかなでが着ていたものとお揃いだ。玲士と幼馴染であるかなでは、玲士の妹を自分の妹のように可愛がっていた。このドレスは、去年の王立祭用に二人で選んだ品。玲士は髪を飾るコサージュを彼女たちに贈った。
去年の王立祭はとても楽しかった。仲睦まじい彼女たちはくすくすと微笑みながらお忍びに出かけ、泡を食った玲士は慌てて無茶な二人を探しに行ったものだ。
町娘のように質素な衣装と、弄った髪型と眼鏡で印象を変えた二人組みは中々見つからず、息を切らせて見つけた先で彼女たちは暢気に話題の喫茶店とやらでケーキセットを平らげていた。漸く見つけた二人に雷を落した玲士を横目に、ウィンクしあい逃亡し、尚且つ玲士に代金を支払わせたのも今となっては良い思い出・・・とは言えなくともインパクトのある思い出だ。
ああ、だがそれも二度と過ごせない時間だ。
枝織を見た玲士の顔には一切表情が無かった。感情を削り落とし、厳しい表情で不器用に微笑んでいた玲士は存在しない。
「お兄様。───お止めください」
「何を言っている、枝織」
「お願いです、お兄様。かなでさんを・・・かなでさんに、酷いことをしないでくださいませ」
悲痛な表情で祈るように腕を組んだ枝織は玲士を見詰める。だがそれに動くべき心の天秤は玲士の心にはもうない。
全てが遅過ぎたのだ。掛け間違えたボタンは、全部嵌めなおさねばなるまい。
「枝織」
「何でしょう、お兄様」
「お前の縁談を纏める。今月中には嫁に出すつもりだ。覚悟しておけ」
「───!?お兄様」
「お前は、幸せになれ」
そして見せた微笑は、玲士が妹に向けた最後の笑顔だった。
「玲士くん。どうして・・・?」
大きな瞳を向けてくるかなでは、顔一杯に疑問符を浮かべている。すでに、王族は彼女しか居ない。
嘗ては王立近衛隊として王族に仕えていた人間を控えさせ、玲士は冷笑を浮かべた。
「貴様は、貴様たちは王族として相応しくないと俺たちは判断した。かなで、王族は恋愛感情で結婚は許されない。貴様とて、それくらいは覚悟の上だったはずだ」
「ええ、判っています。判っているから私は隣国の王子を選んだ。他の誰よりもこの国を発展させる技術と財力を持つかの国を。玲士くんだって知っているでしょう?」
「確かにかの国はこの国を発展させるだろう。我が国の文化を根こそぎ土足で踏みつけて、な」
「・・・・・・」
「彼らはそれを厭うた。現存する王族を廃し、新たな王を頂くと決めたのだ。この国を守るために」
「それが総意ですか」
「ああ」
「玲士君もそれを望んだんですか?」
「・・・・・・ああ」
頷けばかなでは大きな瞳を閉ざす。そして普段のぽやぽやした雰囲気ではなく、凛と背筋を伸ばし王族が持つ命令しなれた声音を響かせた。
「私を玲士君と二人だけにしなさい」
「・・・何を」
「聞こえませんでしたか?下がれと申しているのです」
真っ直ぐな眼差しに射抜かれた、元・近衛たちは顔を見合わせる。切っ先は揺れ動揺が伝わってきた。睥睨し息を吐き出すと身体を震わす。
彼らはかなでを憎んでいるのではない。元々かなでは殺す予定ではなく、王族の象徴として利用するはずだ。故に剣を向けるのを未だに彼らは躊躇っている。
「出て行け」
「ですが」
「俺が、この女にどうこうされると思っているのか?運動神経皆無な、剣すら持てぬこの女に」
「・・・」
「判ったらさっさと下がれ。話が終われば呼ぶ」
頷いた彼らは速やかに玲士の命令に従う。心持ち心配そうな表情でかなでを見、そしてそそくさと部屋を出た。
二人きりになった室内で対峙する。こんなときであるのに、幼馴染は震え怯える事すらしない。胸の前で掌を組み、静かな眼差しで玲士を見詰めた。
風に吹かれてカーテンが翻る。一瞬視界から消えたかなでに見えないよう、玲士は眉を顰めた。
王女の部屋は整理され随分と物が無くなっている。来月には婚礼を控え、来週にも城を出る予定だったのだからその準備の所為だろう。
お気に入りの羽ペンも、子供の頃から大切にしている絵本も、いつも飾ってあった花瓶もない。机の上に置いてある読みかけの本が、かなでがここで暮らしていると認識させる唯一だった。
翻ったカーテンの裾から夜空が見えた。月が煌煌と空に輝き、雲が風に流れる。昨日までと変わらない空に、玲士は歪な笑みを浮かべた。
「おじ様の指示なの?玲士君」
「いいや。俺の意思だ」
「───この国を支配したいの?」
「いいや。守りたいとは思うがな」
「大国へ嫁げばこの国は発展すると思った。それは早計だったのかな?」
「いいや。それもこの国を豊かにする手段の一つだった。ただ、それを認められない輩が、この国の貴族には多かった。それを貴様たち王族は見抜けなかった。それだけの話だ」
「そう」
目を伏せたかなでは、自分を抱きしめるようにして一歩下がる。眉尻が下がり、寂しそうな表情で頷いた。
「ねぇ、玲士君」
「何だ」
「昔、子供の頃にした約束覚えてる?」
「・・・何の事だ」
子供の頃、この幼馴染とは幾つも約束を交わした。だからかなでが何を指しているのかすぐには判ら目を細める。するとかなでは益々哀しそうに微笑むと、窓辺へ向かい歩き出した。
シャっと音を立ててカーテンを開く。先ほど僅かに覗き見たときも思ったが、こんな惨事が起きているとは思えないほど綺麗な月夜だ。
星は瞬き月輪に雲がかかる。絵に描いたような美しさに、玲士は眉を顰めた。
「ねぇ、玲士君。───私が憎かった?反逆を起こすほどに」
「・・・・・・」
かなでの言葉に簡潔に答える術を玲士は持たない。彼女へ抱く想いは複雑過ぎて、憎んでいないと容易に応えるには至らない。
黙りこんだ玲士にそれが答えと判断したらしいかなでは、初めて泣きそうに顔を歪める。そうして気づいた。この暢気な幼馴染の泣き顔など、ここ十数年と見ていなかった事に。
喜怒哀楽が豊かだった少女は、何時の間に泣き顔を見せなくなったのだろう。思案しても思い出せずに、玲士は一歩かなでへと距離を詰めた。
だが伸ばされた手を避けるようにかなでは身を引く。
「玲士君」
「何だ」
「今まで、一杯ありがとう。私、玲士君の幼馴染で嬉しかったし幸せだった。───玲士君には迷惑だったかもしれないけど、本当に幸せだった」
「・・・かなで?」
久方ぶりに呼ばれた名に目を見開いたかなでは、次の瞬間には花開くように微笑んだ。
「名前、呼んでくれるの何時以来かな?もう、思い出せないくらいずっと呼んでくれなかったのに」
「当然だ。俺は貴様の臣下であり、並び立つ人間ではなかった」
だが、これからは違う。違う未来があるかもしれない。この国を、玲士が治めるようになれば、定められた未来は変わるかもしれない。
大国からの求婚。ここまで進んだ縁談を無理やりに断ち切れば、皺寄せは民に来る。それを理解していながらも、手が届くかもしれない野望に玲士は止まれない。
玲士が欲しいのは、国でも金でも権力でもなく───。
「ありがとう、玲士君」
微笑んだかなでは窓を向き、空を見上げる。
白く細いせんしゅを上に向け玲士に微笑みかけた。それは昔から良く見た、玲士が執着した日差しのように暖かで柔らかな。
さらり、と梔子色の髪が揺れる。瞳が細められ頬が淡く染まった。
「見て、玲士君」
「・・・・・・」
「月が、綺麗だね」
「かなで・・・?」
囁かれた言葉に首を傾げる。意味を計り兼ねていると。
「月が綺麗ですね」
もう一度告げられ、玲士は月に視線をやる。
その一瞬で全ては定まった。
「っ!かなで!?」
視線を戻した時には、翻るドレスは視界の端へと消えていくところだった。慌てて窓辺に駆け寄れば、僅かな間を置き水音が聞こえる。
かなでの部屋のすぐ裏には、王家の所有する湖がある。広さも深さも相当なそれに、かなでは落ちたと言うのだろうか。
光りの届かない場所に必死に目を凝らしてもかなでを見つけることは出来ず、慌てて身を翻す。その表紙に手が名何かにぶつかり反射的に玲士はそれを宙で掴んだ。
廊下で目を見張る男たちを尻目に必死に走る。かなでの部屋は三階。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
走って走って息が切れるまで走って漸く辿りついた場所で、玲士は絶望した。
湖は赤く染まり、水の色が濁っている。動転して忘れていたが、この湖には護衛用に何匹かの鰐を飼っていた。流れ着いたドレスの切れ端は、土と血で汚れかなでの生存を絶望的なものとする。
ひざまづき空を見上げれば月は何も知らぬ顔でこちらを見ていた。
地面に拳を叩き付け様として、自分が手に本を持ったままなのに気がつく。視線をやれば東洋の文字で書かれたタイトルが目に入り、玲士は息を呑んだ。
『月が、綺麗だね』
泣きそうに微笑んだかなでの笑顔が脳裏に浮かぶ。
昔、玲士とかなでがまだ身分の差を理解しなかった頃。王家の所有する花園の奥で、彼らはよく共に遊んだ。
『とうようからとりよせたほんだ』
幼かった玲士は意味も判らぬくせに、かなでに胸を張って教えなかったか。
『いいまわしがどくとくでおもしろいぞ』
きょとり、と目を丸くしたかなでは小首を傾げて見上げてきて。
『あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ』
だから年下の幼馴染に、何も知らないんだなと。
かなでは覚えていたというのか。あんな、日常に紛れた些細な日を。玲士が愛した穏やかな過去を。
───月が綺麗ですね
繰り返された言葉の意味が漸く判る。あれは、そういう意味だったのか。
呆然と口を開け、かなでが沈んだ場所を眺める。先ほどまで揺れていた湖面は静まり、今は普段と同じ穏やかな姿を見せた。
ほろり、と何かが頬を伝う。温度を持つそれが何かを、玲士は知りたくなどなかった。
「・・・かなで」
情けなく掠れた声に瞼をきつく瞑る。頭ががんがんと痛み、気を抜けば意識が途切れそうだ。
かなでが読んでいた本を、彼女の変わりに胸に抱くと足を一歩踏み出した。
ブーツの端から水が入りこみ、靴が少しずつ重くなる。玲士が進んだ個所から放物線を描き水が揺れた。
「かなで」
憎んでいた。自分の手の届かない場所に去っていく彼女を。
「かなで」
怨んでいた。共にこの国を発展させると誓ったはずだと。
「かなで」
蔑んでいた。歴史ある国の文化を大国へと売った王族を。
「かなで」
でも、それ以上に。
愛していた。何物にも代えられぬほどに。彼女さえ居れば他に何も望まないと、唯一神に祈るほどに。
ほろり、ほろりと何かが伝う。頬から顎へ、そして水面へと落ちるそれは、玲士が立てた波に消える。
冷たい水はすでに胸元まで来ている。闇の中、金色に光る目が幾つもこちらを捉え徐々に近づいてきた。それでも玲士の歩みは止まらない。
「かなで」
何時から変わってしまったのだろう。始めは純粋に幸せになればいいと、思っていたはずなのに。国への想いも純粋なものだったはずなのに。
示された別の道。選んではいけないと理解しながら、玲士は己の欲に負けた。
幸せになってもらいたいのではなく、幸せにしたいのだと。共に歩んでいきたいのだと、望み願ってしまった。 それが破滅への道筋だと明確に理解していたのに。
玲士が死ねば革命軍のリーダーは居なくなる。だが代わりは簡単に見つかるだろう。抜かり無い父が一つ手駒を失ったところで痛手を受けると思えない。新たに君主として据えるなら、そう、枝織の夫だろう。
先日枝織を娶った男も国の重鎮であり、そして枝織自身も国で人気がある人物だ。新たな柱として申し分無い。
ばちり、と顔の近くで水が跳ねる。近づく獲物に肉食獣は歓喜し円を描く様に距離を詰めてきた。迫り来る死に、心は穏やかだ。これでかなでの傍に行けるなら、享受しないはずがない。
「かなで。───今日の月は綺麗だぞ」
空を見上げてうっとりと囁く。月は煌煌と輝き、玲士は目を細めた。柔らかな表情は、いつだってただ一人にしか向けられなかったもの。
瞳は愛しさに溢れ、最早隠さずに言える言葉に玲士は酔った。
「聞こえるか、かなで。月が、綺麗だ」
嬉しそうな声は、水音に潰える。
腕が千切れ、骨が断たれ、足が無くなり、胴体に牙を突き立てられる。それでも玲士は微笑を崩さない。
「か・・・なで。・・・つきが・・・き・・・れ・・・」
喉笛が掻き切られ、血が吹き出る。薄れ行く意識の中、懐かしい笑顔が微笑んだ気がした。
『れいじくん、ずっといっしょにいようね』
『ああ、かなで』
絡めた細い指先に、玲士ははっきりと頷く。この小さな少女を守るのは自分しか居ないと決めていた。
白くまろい頬を染めたかなでは、絡めた小指をぶんぶんと振る。その勢いに眉根を寄せた玲士は、仕方が無いなと苦笑した。
優しい午後。微笑んだ彼らは手を繋ぐ。
子供だった彼らは、あの日確かに永遠を信じていた。
きれいなおはな、と微笑んで差し出されたそれに玲士は眉根を寄せる。
年下の幼馴染はどうにも捕らえどころが無いぽややんとした表情で、真っ白いドレスが汚れるのも気にせずに草原に直にしゃがみこんだ。そして嬉しげに摘んだばかりの花を玲士に渡す。
玲士は花を美しいとも好ましいとも思わない。なのにこの鈍感な少女は生まれてからの付き合いだというのに、未だにそれを理解しない。
玲士の興味はこんな低レベルな物に無く、政治や勉学に関心が向いている。
差し出されたそれを睨み付ければ、にこにことしていた笑顔が徐々に曇り始めた。
「・・・れいじくん、おはなはきらい?」
たどたどしい口調で尋ねられた。瞳はすでに潤み始めている。淡く染まっていた頬は別の意味で赤くなり、膜の張ったひとみから今にも涙が溢れそう。
忌々しい表情に、玲士は深く深く息を吐き出す。この幼馴染の相手は面倒で仕方ない。
「そんなものより、ほんをよめ。きさまもまがりなりにもおうぞくならきょうようはひつようだ」
「ほん?いまはなにをよんでるの?」
「とうようからとりよせたほんだ。いいまわしがどくとくでおもしろいぞ。このくにでは、あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ」
「あいしてる?それってなに?」
「・・・・・・」
きょとり、と見上げる眼差しに玲士の言葉が詰まる。東洋からの本は純文学と呼ばれる難しいものであったが、それを理解するには玲士は未だ幼い。ただ愛しているという言葉は教養として読んだ作家のものにたまに出てくるので覚えていたのだが、どんなものかと問われれば説明する術は無い。
こほん、と一つ咳をすると玲士は話を変えるためにぶっきらぼうに本を持ってない方の手を突き出した。
「・・・ん」
「え?」
「よこせ。───はなは、きらいじゃない」
好きでも無いがな。心の中で付け加える。
だが、玲士の心の中など読み取れるはずもない幼馴染は、渋々差し出された手に宝物を手渡すように持っていた花を置いた。
玲士の小さな掌にすっぽりと収まるそれは、瑞々しい色をしている。
「れいじくん」
「なんだ、かなで」
「・・・ずっと、いっしょにいようね」
約束だよ。小指を差し出した幼馴染は、まるで今日の日差しのように暖かで眩かった。
玲士には幼馴染が居る。その相手は自分より身分は上だが年は下で、そして随分ととろくさい少女だった。
国の重鎮、大臣の息子である玲士は代々続く名家の跡取で、生まれた瞬間から将来を定められていた。そして、玲士が仕えるべき王家の人間。それがかなでだ。
玲士より一つ年下の少女は、とにかくとろい。何も無いところで転ぶのは日常。城を一人歩きすれば迷子になる。勝手にキッチンへ入りこんでは料理をする、運動神経皆無でダンスは上手いが三曲以上踊れない。
ほわほわとした気の抜けた笑顔を常に浮かべ、春の日差しのようなのんびりとした気性をし、穏やかで思わず手を差し伸べたくなる鈍さを持つ。一つしか年の差がないはずのこの少女の面倒を、玲士は幼い頃から見てきた。
何処までもとろくさいかなでだが、玲士より優れたものを二つだけ持っていた。ヴァイオリンを奏でる腕と、人身掌握術───つまり、人徳だ。
かなでと玲士は幼い頃、時期を同じくして共にヴァイオリンを習い始めた。貴族の趣味の一環だが、かなでも玲士も類稀なる才能を発揮した。音を奏でるだけで世界を作り出し、無限の可能性を広げる。二人の腕は国を跨いで噂となり、国民たちの誇りとも言えた。玲士の演奏も一角ならぬものだったが、かなではその上を行く。年に一度開かれる国立祭での演奏を楽しみに、お忍びで余所の国から王族が見学にくるほどだ。
そして、人身掌握術、つまり人徳についても玲士はかなでに適わない。ほえほえしたかなではいつも微笑んでいる印象がある。穏やかで他人に負の感情を向けないかなでは、誰かに厭われる事も憎まれる事もなかった。敵を作りやすい玲士のフォローもこなした。
寛厚でありながら芯を持つかなでと冷静な判断が出来き時には冷酷になれる玲士は、息のあったいい幼馴染であった。
そう、かなでに縁談が持ちこまれるまでは。
「結婚───だと?」
「はい」
梔子の柔らかな髪を揺らして頷いたかなでの頬は微かに染まっていた。大きな琥珀色の瞳は夢見るように潤んでいる。口元はゆるく上がり、幸せそうな微笑が可憐な容姿を彩った。
淡いピンクの幾重にもレースが重なるドレスを翻したかなでは、まるで秘密を打ち明ける子供みたいに嬉しげに囁く。
「実は、隣国の王子様から申し込みがあったんです」
「隣国と言うと、東の大国神南か。そこの王子が我が国のような小国へと申し込んだだと?」
「はい。去年の王立祭でヴァイオリンを演奏していた私を見初めて下さったんですって。一年間、ほぼ毎日手紙をくれたんです」
差し出されたそれは、籠一杯になる手紙の山。眉を顰めて手を伸ばし、一通を取りひっくり返す。蜜蝋の上に押された印は確かに王家の印。だがこれが本人からのものだとどうやって判断する。
訝しげな表情の玲士を余所に、かなではふふと笑う。
「玲士君、今どうせこれは本人からのものじゃないだろうって思ったでしょう」
「・・・・・・」
「私も、そう思ってたんだ。でも、お会いするたびに彼は手紙の内容を私に告げたの。それは私が書いたものだったり、彼らから浮けとったものだったり。───もしかしたら、その手紙は本人からのものじゃないかもしれないけど、読んで下さってるのは、内容を把握してくださっているのは本当です。それに向けてくださる笑顔も、言葉も本物。だから信じることにしたんです」
「・・・貴様は」
「はい?」
「本当に、救い様の無い馬鹿だ」
そうかもしれませんね。
淡い微笑を浮かべた幼馴染は、今まで見たどれよりも愛らしく美しかった。
「国を獲るぞ、玲士」
「・・・・・・」
呼び出された父の部屋。そこは当主専用の執務室で、王族に負けぬ広さと豪華さを持つ。
昔はもっと質素だったその部屋に、物が増え始めたのはいつからだったか。思い出せぬほど昔かと思い至り、ひっそりと息を吐く。
尊敬すべき父の背を追っていた。高潔で冷静な父は玲士の誇りで、時に冷酷までの判断を国の為に下せる彼を目指して生きていた。その筈だった。
玲士が子供の頃は、痩身で玲士と酷似する美貌を持っていた彼は、何時の間にかでっぷりと太り脂ぎった頬に有り余る脂肪に無駄に宝石のついた衣服を纏う。指には一握りはある宝石のついた指輪。それだけで一財産を築ける立派なものだ。
嫌らしく緩んだ唇に葉巻を燻らせ眦を下げた男に、玲士が憧れた片鱗は無い。それでもこの男は、玲士の父親だった。
「王女の婚礼の日取りが決まった。そうなれば王女しか居らぬ我が国はあの大国に吸収される。愚かな国民どもは国が栄えると喜んでいるが、そんな事はない。国の文化は吸収され、新たに塗り替えられる。独自に守っていた我が国の誇りは消える。───この国の王には我が息子、玲士こそが相応しい。本来なら、お前こそが王女と結婚し国を継ぐはずだったのに」
「・・・父上」
「この国の王は愚かだ。玲士ほど優秀な人間が居るのに、わざわざ他国の人間を選ぶとは」
「・・・・・・」
「この国は変わらねばならない。他国に吸収されるのではなく、自身で羽ばたくために」
目の前の肥えた男はもう玲士を映していない。近い内に手に入れるつもりの国と、そして財産のみを見ていた。
こちらを見ない男に一礼すると、玲士は静かに部屋を退室した。
「お兄様」
退室すると同時にかけられた声に玲士は振り返る。そこには、玲士の血を別けた妹が、哀しげに眉を下げて立っていた。
身に纏う淡いイエローのドレスは、先日目にしたかなでが着ていたものとお揃いだ。玲士と幼馴染であるかなでは、玲士の妹を自分の妹のように可愛がっていた。このドレスは、去年の王立祭用に二人で選んだ品。玲士は髪を飾るコサージュを彼女たちに贈った。
去年の王立祭はとても楽しかった。仲睦まじい彼女たちはくすくすと微笑みながらお忍びに出かけ、泡を食った玲士は慌てて無茶な二人を探しに行ったものだ。
町娘のように質素な衣装と、弄った髪型と眼鏡で印象を変えた二人組みは中々見つからず、息を切らせて見つけた先で彼女たちは暢気に話題の喫茶店とやらでケーキセットを平らげていた。漸く見つけた二人に雷を落した玲士を横目に、ウィンクしあい逃亡し、尚且つ玲士に代金を支払わせたのも今となっては良い思い出・・・とは言えなくともインパクトのある思い出だ。
ああ、だがそれも二度と過ごせない時間だ。
枝織を見た玲士の顔には一切表情が無かった。感情を削り落とし、厳しい表情で不器用に微笑んでいた玲士は存在しない。
「お兄様。───お止めください」
「何を言っている、枝織」
「お願いです、お兄様。かなでさんを・・・かなでさんに、酷いことをしないでくださいませ」
悲痛な表情で祈るように腕を組んだ枝織は玲士を見詰める。だがそれに動くべき心の天秤は玲士の心にはもうない。
全てが遅過ぎたのだ。掛け間違えたボタンは、全部嵌めなおさねばなるまい。
「枝織」
「何でしょう、お兄様」
「お前の縁談を纏める。今月中には嫁に出すつもりだ。覚悟しておけ」
「───!?お兄様」
「お前は、幸せになれ」
そして見せた微笑は、玲士が妹に向けた最後の笑顔だった。
「玲士くん。どうして・・・?」
大きな瞳を向けてくるかなでは、顔一杯に疑問符を浮かべている。すでに、王族は彼女しか居ない。
嘗ては王立近衛隊として王族に仕えていた人間を控えさせ、玲士は冷笑を浮かべた。
「貴様は、貴様たちは王族として相応しくないと俺たちは判断した。かなで、王族は恋愛感情で結婚は許されない。貴様とて、それくらいは覚悟の上だったはずだ」
「ええ、判っています。判っているから私は隣国の王子を選んだ。他の誰よりもこの国を発展させる技術と財力を持つかの国を。玲士くんだって知っているでしょう?」
「確かにかの国はこの国を発展させるだろう。我が国の文化を根こそぎ土足で踏みつけて、な」
「・・・・・・」
「彼らはそれを厭うた。現存する王族を廃し、新たな王を頂くと決めたのだ。この国を守るために」
「それが総意ですか」
「ああ」
「玲士君もそれを望んだんですか?」
「・・・・・・ああ」
頷けばかなでは大きな瞳を閉ざす。そして普段のぽやぽやした雰囲気ではなく、凛と背筋を伸ばし王族が持つ命令しなれた声音を響かせた。
「私を玲士君と二人だけにしなさい」
「・・・何を」
「聞こえませんでしたか?下がれと申しているのです」
真っ直ぐな眼差しに射抜かれた、元・近衛たちは顔を見合わせる。切っ先は揺れ動揺が伝わってきた。睥睨し息を吐き出すと身体を震わす。
彼らはかなでを憎んでいるのではない。元々かなでは殺す予定ではなく、王族の象徴として利用するはずだ。故に剣を向けるのを未だに彼らは躊躇っている。
「出て行け」
「ですが」
「俺が、この女にどうこうされると思っているのか?運動神経皆無な、剣すら持てぬこの女に」
「・・・」
「判ったらさっさと下がれ。話が終われば呼ぶ」
頷いた彼らは速やかに玲士の命令に従う。心持ち心配そうな表情でかなでを見、そしてそそくさと部屋を出た。
二人きりになった室内で対峙する。こんなときであるのに、幼馴染は震え怯える事すらしない。胸の前で掌を組み、静かな眼差しで玲士を見詰めた。
風に吹かれてカーテンが翻る。一瞬視界から消えたかなでに見えないよう、玲士は眉を顰めた。
王女の部屋は整理され随分と物が無くなっている。来月には婚礼を控え、来週にも城を出る予定だったのだからその準備の所為だろう。
お気に入りの羽ペンも、子供の頃から大切にしている絵本も、いつも飾ってあった花瓶もない。机の上に置いてある読みかけの本が、かなでがここで暮らしていると認識させる唯一だった。
翻ったカーテンの裾から夜空が見えた。月が煌煌と空に輝き、雲が風に流れる。昨日までと変わらない空に、玲士は歪な笑みを浮かべた。
「おじ様の指示なの?玲士君」
「いいや。俺の意思だ」
「───この国を支配したいの?」
「いいや。守りたいとは思うがな」
「大国へ嫁げばこの国は発展すると思った。それは早計だったのかな?」
「いいや。それもこの国を豊かにする手段の一つだった。ただ、それを認められない輩が、この国の貴族には多かった。それを貴様たち王族は見抜けなかった。それだけの話だ」
「そう」
目を伏せたかなでは、自分を抱きしめるようにして一歩下がる。眉尻が下がり、寂しそうな表情で頷いた。
「ねぇ、玲士君」
「何だ」
「昔、子供の頃にした約束覚えてる?」
「・・・何の事だ」
子供の頃、この幼馴染とは幾つも約束を交わした。だからかなでが何を指しているのかすぐには判ら目を細める。するとかなでは益々哀しそうに微笑むと、窓辺へ向かい歩き出した。
シャっと音を立ててカーテンを開く。先ほど僅かに覗き見たときも思ったが、こんな惨事が起きているとは思えないほど綺麗な月夜だ。
星は瞬き月輪に雲がかかる。絵に描いたような美しさに、玲士は眉を顰めた。
「ねぇ、玲士君。───私が憎かった?反逆を起こすほどに」
「・・・・・・」
かなでの言葉に簡潔に答える術を玲士は持たない。彼女へ抱く想いは複雑過ぎて、憎んでいないと容易に応えるには至らない。
黙りこんだ玲士にそれが答えと判断したらしいかなでは、初めて泣きそうに顔を歪める。そうして気づいた。この暢気な幼馴染の泣き顔など、ここ十数年と見ていなかった事に。
喜怒哀楽が豊かだった少女は、何時の間に泣き顔を見せなくなったのだろう。思案しても思い出せずに、玲士は一歩かなでへと距離を詰めた。
だが伸ばされた手を避けるようにかなでは身を引く。
「玲士君」
「何だ」
「今まで、一杯ありがとう。私、玲士君の幼馴染で嬉しかったし幸せだった。───玲士君には迷惑だったかもしれないけど、本当に幸せだった」
「・・・かなで?」
久方ぶりに呼ばれた名に目を見開いたかなでは、次の瞬間には花開くように微笑んだ。
「名前、呼んでくれるの何時以来かな?もう、思い出せないくらいずっと呼んでくれなかったのに」
「当然だ。俺は貴様の臣下であり、並び立つ人間ではなかった」
だが、これからは違う。違う未来があるかもしれない。この国を、玲士が治めるようになれば、定められた未来は変わるかもしれない。
大国からの求婚。ここまで進んだ縁談を無理やりに断ち切れば、皺寄せは民に来る。それを理解していながらも、手が届くかもしれない野望に玲士は止まれない。
玲士が欲しいのは、国でも金でも権力でもなく───。
「ありがとう、玲士君」
微笑んだかなでは窓を向き、空を見上げる。
白く細いせんしゅを上に向け玲士に微笑みかけた。それは昔から良く見た、玲士が執着した日差しのように暖かで柔らかな。
さらり、と梔子色の髪が揺れる。瞳が細められ頬が淡く染まった。
「見て、玲士君」
「・・・・・・」
「月が、綺麗だね」
「かなで・・・?」
囁かれた言葉に首を傾げる。意味を計り兼ねていると。
「月が綺麗ですね」
もう一度告げられ、玲士は月に視線をやる。
その一瞬で全ては定まった。
「っ!かなで!?」
視線を戻した時には、翻るドレスは視界の端へと消えていくところだった。慌てて窓辺に駆け寄れば、僅かな間を置き水音が聞こえる。
かなでの部屋のすぐ裏には、王家の所有する湖がある。広さも深さも相当なそれに、かなでは落ちたと言うのだろうか。
光りの届かない場所に必死に目を凝らしてもかなでを見つけることは出来ず、慌てて身を翻す。その表紙に手が名何かにぶつかり反射的に玲士はそれを宙で掴んだ。
廊下で目を見張る男たちを尻目に必死に走る。かなでの部屋は三階。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
走って走って息が切れるまで走って漸く辿りついた場所で、玲士は絶望した。
湖は赤く染まり、水の色が濁っている。動転して忘れていたが、この湖には護衛用に何匹かの鰐を飼っていた。流れ着いたドレスの切れ端は、土と血で汚れかなでの生存を絶望的なものとする。
ひざまづき空を見上げれば月は何も知らぬ顔でこちらを見ていた。
地面に拳を叩き付け様として、自分が手に本を持ったままなのに気がつく。視線をやれば東洋の文字で書かれたタイトルが目に入り、玲士は息を呑んだ。
『月が、綺麗だね』
泣きそうに微笑んだかなでの笑顔が脳裏に浮かぶ。
昔、玲士とかなでがまだ身分の差を理解しなかった頃。王家の所有する花園の奥で、彼らはよく共に遊んだ。
『とうようからとりよせたほんだ』
幼かった玲士は意味も判らぬくせに、かなでに胸を張って教えなかったか。
『いいまわしがどくとくでおもしろいぞ』
きょとり、と目を丸くしたかなでは小首を傾げて見上げてきて。
『あいしているということばをずいぶんととおまわしにつげるんだ』
だから年下の幼馴染に、何も知らないんだなと。
かなでは覚えていたというのか。あんな、日常に紛れた些細な日を。玲士が愛した穏やかな過去を。
───月が綺麗ですね
繰り返された言葉の意味が漸く判る。あれは、そういう意味だったのか。
呆然と口を開け、かなでが沈んだ場所を眺める。先ほどまで揺れていた湖面は静まり、今は普段と同じ穏やかな姿を見せた。
ほろり、と何かが頬を伝う。温度を持つそれが何かを、玲士は知りたくなどなかった。
「・・・かなで」
情けなく掠れた声に瞼をきつく瞑る。頭ががんがんと痛み、気を抜けば意識が途切れそうだ。
かなでが読んでいた本を、彼女の変わりに胸に抱くと足を一歩踏み出した。
ブーツの端から水が入りこみ、靴が少しずつ重くなる。玲士が進んだ個所から放物線を描き水が揺れた。
「かなで」
憎んでいた。自分の手の届かない場所に去っていく彼女を。
「かなで」
怨んでいた。共にこの国を発展させると誓ったはずだと。
「かなで」
蔑んでいた。歴史ある国の文化を大国へと売った王族を。
「かなで」
でも、それ以上に。
愛していた。何物にも代えられぬほどに。彼女さえ居れば他に何も望まないと、唯一神に祈るほどに。
ほろり、ほろりと何かが伝う。頬から顎へ、そして水面へと落ちるそれは、玲士が立てた波に消える。
冷たい水はすでに胸元まで来ている。闇の中、金色に光る目が幾つもこちらを捉え徐々に近づいてきた。それでも玲士の歩みは止まらない。
「かなで」
何時から変わってしまったのだろう。始めは純粋に幸せになればいいと、思っていたはずなのに。国への想いも純粋なものだったはずなのに。
示された別の道。選んではいけないと理解しながら、玲士は己の欲に負けた。
幸せになってもらいたいのではなく、幸せにしたいのだと。共に歩んでいきたいのだと、望み願ってしまった。 それが破滅への道筋だと明確に理解していたのに。
玲士が死ねば革命軍のリーダーは居なくなる。だが代わりは簡単に見つかるだろう。抜かり無い父が一つ手駒を失ったところで痛手を受けると思えない。新たに君主として据えるなら、そう、枝織の夫だろう。
先日枝織を娶った男も国の重鎮であり、そして枝織自身も国で人気がある人物だ。新たな柱として申し分無い。
ばちり、と顔の近くで水が跳ねる。近づく獲物に肉食獣は歓喜し円を描く様に距離を詰めてきた。迫り来る死に、心は穏やかだ。これでかなでの傍に行けるなら、享受しないはずがない。
「かなで。───今日の月は綺麗だぞ」
空を見上げてうっとりと囁く。月は煌煌と輝き、玲士は目を細めた。柔らかな表情は、いつだってただ一人にしか向けられなかったもの。
瞳は愛しさに溢れ、最早隠さずに言える言葉に玲士は酔った。
「聞こえるか、かなで。月が、綺麗だ」
嬉しそうな声は、水音に潰える。
腕が千切れ、骨が断たれ、足が無くなり、胴体に牙を突き立てられる。それでも玲士は微笑を崩さない。
「か・・・なで。・・・つきが・・・き・・・れ・・・」
喉笛が掻き切られ、血が吹き出る。薄れ行く意識の中、懐かしい笑顔が微笑んだ気がした。
『れいじくん、ずっといっしょにいようね』
『ああ、かなで』
絡めた細い指先に、玲士ははっきりと頷く。この小さな少女を守るのは自分しか居ないと決めていた。
白くまろい頬を染めたかなでは、絡めた小指をぶんぶんと振る。その勢いに眉根を寄せた玲士は、仕方が無いなと苦笑した。
優しい午後。微笑んだ彼らは手を繋ぐ。
子供だった彼らは、あの日確かに永遠を信じていた。
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