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【燃え盛る炎に巻かれて】
その人はいつも笑っているイメージの人だ。
貧乏に苦しみ手が水仕事で荒れて血だらけになっても、寒い冬に防寒具が満足に得られず震えながら眠った夜も、親が居ないだけで理不尽に詰られても、それでも微笑みが絶えない人だった。
悠人よりも一つ年上のその人の名前は、小日向かなでと言った。
「かなでさん!」
「・・・あれ、ハルくん?どうしたの、そんなにほっぺ膨らまして」
「どうしたのじゃないです!あなたは力が弱いのに、またそんな無茶をして!」
買い物袋を両手で抱えていたかなでから、無理やりそれを奪い取る。
昔は見上げていた視線も今では見下ろす側に変わった。
かなではもう20歳で、悠人は19だ。
身体的な差が出来始め、強くなりたいと体を鍛えていた悠人は見た目よりも遥かに力があり、大してかなでは華奢で小さな見た目通りにはっきりいって非力だ。
その上どうにもとろ臭く、運動神経もぶつりと切れている。
見た目の年よりも若く見える可愛らしさは近所の若い男性から絶大な支持を得ており、朗らかで愛らしい雰囲気は老若男女問わず人気がある。
数年前から再び同居し始めたこの人は、悠人の血の繋がらない姉でもあるが、同時に酷く手の掛かる妹のような人。
悠人とかなでは幼い頃を同じ孤児院で過ごした。
何処の町でも同じだろうが、孤児院の経営は苦しく質素倹約が掲げられていた。
雨が降れば天井から染み出し、冬でも風が入り込むそこは、家というより掘建て小屋に近かったけれど、家族が居る帰るべき場所だった。
貧乏で生活は常に苦しく困窮に喘いでいても、共に暮らしたシスターは優しく子供達は兄弟だ。
喧嘩もしたし自分を哀れみもした。何故、町の人間は家族がいるのに自分には居ないのかと、シスターを責めたこともある。
けれど彼らはいつでもそんな悠人を見捨てず懇切丁寧に理を説き、そんな悠人の傍にはいつも同じ境遇のかなでが居てくれた。
かなでは孤児院に居るメンバーの中でもマイペースで少し変わり者の女の子だった。
冬場の水仕事も夏場の畑仕事も文句一つ言わずにいつでも笑顔で引き受けて、泣く子があれば宥め、腹を空かせた家族が居れば自分は我慢してでも少ない食事を分け与えた。
彼女の微笑みは絶えることなく、いつか彼女自身が天使かもしれないとしルターが笑い混じりに話していたのを覚えている。
かなではないものを嘆くのではなく、与えられたものに感謝して生きていく少女だったから。
そしてその与えられた少ないものを、惜しげもなく人に分け与えれる人でもあった。
だから何時だって彼女の身なりは孤児院で一番汚くて、何時だって彼女の手から血が流れていた。体は痩せ細り木の枝のようで、発達不良な体は他の家族と比べても著しい。
それでも微笑みの温かさは変わらず魅力的で、かなでが可愛らしい少女であるのは損ねられなかった。
そんなかなでは孤児院にあった楽器に唯一興味を示し、最初はピアノを、次は古びたヴァイオリンを独学で学び、ついには義務として通っていた学校でその腕を教師に買われ音楽学校へ特待生として入学した。
彼女に投資をしたいと申し出た男の誘いにかなでが孤児院を出て行ったのは13の春。
悠人はその時身も世もなく泣きじゃくり、かなでの服から離れなかった。
かなでは悠人が物心ついたときからずっと一緒に居てくれた、本物の姉と変わらぬ存在で、悠人の心の支えであったから。
それでもかなでのためだとシスターに説得され、泣きながら見送った。その後数年は手紙での遣り取りしかしておらず、16を過ぎ悠人も孤児院を卒業する年になった。
そんな折に、かなでからの手紙が再び届いた。
『一緒に暮らさない?』と。
かなでは王都の新進気鋭の音楽家のひとりとなって活躍している最中らしく、ヴァイオリンの腕は王宮に招かれ演奏するまでになったらしい。
パトロンとなった人のお陰だといつでも言っているが、きっとそんなに甘いものな訳がない。
微笑みの裏で血が滲むような努力を繰り返しその地位に辿り着いたに違いないのだ。悠人の最愛の姉は、とても努力家だったから。
嬉しい誘いだったが断った。漸く安定した生活を送り始めたかなでの足を引っ張りたくなかったし、足手まといは嫌だった。
勉強は続けたかったから近所で働きながら学校へ通うと手紙を送ったら、なんとその翌週にはかなで本人が迎えに来てしまった。
久しぶりに会った人は孤児院に居た頃からすると随分と綺麗になった。手に垢切れの後はなく、着ている衣服につぎはぎもない。
浮かべる微笑みは変わらないが、女性らしく曲線を描いた体にさらさらと靡く髪。
大きな瞳を細めて微笑んだ彼女は、『来ちゃった』と昔と変わらない笑顔で悠人に手を差し伸べた。
成り行きで始まった彼女との生活だったが、悠人はとても感謝していた。
かなではややおせっかいな部分はあるが、無条件に悠人を愛してくれる。
本当は勉強を続けたがっていた悠人のために学費を出し、大人になれば返してくれれば良いと面倒を見てくれる。
お金が稼げるようになってすぐから孤児院へ仕送りしているらしい彼女との生活は、けれどあの頃に比べれば天国のようなものだった。
ここ数年で孤児院の暮らしは見違えるようになったが、きっとそれもかなでのお陰だったに違いない。
かなでは恩を着せたりしない。出来るからやる。やりたいからやらせての一点張りで、だから代わりに忙しいかなでの家事を取り仕切るようになった。
幸い細かい作業は苦手ではなかったし、かなでとの生活は波乱万丈に飛んで楽しいものだ。
前線で活躍するかなでの生活は音楽漬けだが、音楽そのものを愛する彼女にその生活は苦にならない。
始めは予想以上に忙しい彼女の生活に目を丸くしたが、2年以上共に暮らせばいい加減慣れる。
大きくはないが住み心地のいい赤い屋根の家は、昔少女が望んだとおりに大きな犬が一匹と、気紛れな猫が一匹住んでいる。
小さな庭には花壇があって、花の手入れは悠人がしていた。
近所の人に挨拶しながら両手が塞がっている悠人の代わりに玄関を開けたかなでは、へらり、と笑って家に入る。
「おかえり、ハルくん」
「ただいま、かなでさん」
こんな些細な遣り取りが、二人にとって幸せだった。
「舞踏会?」
「そう。今日の夜に行くって言ってなかったっけ?」
「言ってないですよ!もう、夕飯の準備済んじゃったじゃないですか!!」
「あ、家に帰ってから食べるよ」
「───?舞踏会なら食事は出るんじゃないんですか?」
「ふふ、ハルくんたら。私は貴族じゃなくて音楽家だよ?舞踏会は参加するんじゃなくてお仕事で行くの」
「ドレスの準備は出来てるんですか?」
「うん。この間今日のためにって準備してもらったから」
「・・・あの、パトロンの男に?」
「うん。凄いよねぇ。私と同じ年なのに、もう領主の仕事をしてらっしゃるんだもの。彼に目をかけてもらえなかったら私もハルくんもこの場所に居られなかったから、感謝しなきゃね」
くすくすといつも通りに微笑んだかなでに、悠人は苦い表情で押し黙った。
確かに悠人とかなでが一緒に暮らせるのも、かなでが孤児院へ支援金を送れるのも彼女のパトロンが彼女の才能を発掘し伸ばしてくれたからだ。
かなでが音楽を愛してるのを知っているから、弟として感謝の念は絶えない。
かなでがほとんどの金を自分ではなく彼らに回しているのを悟り、必要があれば彼女に衣類も準備してくれているのも知っている。
───ありがたいと、思うべきなのだろう。
印象的な赤い髪をした男は、本でしか読んだことがない極寒の地の氷を思い出させる眼差しを持つ人だ。
初めて見えた瞬間、背筋に走った衝撃と恐れは未だに忘れない。
人を治める地位に居るからか、それとも彼が生まれ持ったものなのか。
覇王の気迫とでも言うべきものを彼は持っていた。
雲の上の人物であり、本来なら一生お目にかかれないであろう人物と認識があるのは、一重に悠人がかなでの弟分だからだ。
こちらに引っ越してきた数日後に招かれ、笑顔のかなでに連れて行かれた先が領主館だった。
家で引越し荷物を解いていた悠人は、急に服を着替えろと普段着よりも少し上等なものを手渡され、着替えが終わったと同時に連れ出されたので何がなんだか判らなかった。
見たこともない高級な調度品に囲まれながら、震える手で薄手のティーカップを支え、絶対零度の領主からの視線に耐える。
あれ以上の苦難は、後にも先にもないだろう。
同席していた彼の妹はどちらかと言えばかなでタイプだったのに、どうすればあんなに正反対の兄弟が生まれるのだか。
理解しかねたが、彼がかなでに対して親切なのは確かなので、悠人は胸の奥にある不平不満は飲み込んだ。
本音では、あまり付き合って欲しくないけれど。
渋い顔をしつつも着替えが終わった姉を送り出す。
夜半疲れて帰ってくる姿を思い、苦笑しながら下拵えの終わった料理を仕舞った。
「・・・どういう、ことですか?」
「ですから・・・小日向さんは、もう」
「もう何だと言うんです!かなでさんは、かなでさんは何処に居るんですか」
「まだ、きっと屋敷の中です」
悲愴な表情で俯いた美少女の腕を引っつかみ振り回したくなる衝動を、色が白くなるほど強い力で拳を作り何とか堪える。
食いしばった歯茎から血が流れ鉄錆び臭い味が口中に広がる。
かなでの仕事が終わるのを待ちながら勉強を続けていれば、家の前に四頭立ての馬車が止まった。
そんな高級な移動手段を持つのは貴族以上しかないと知っていたから、嫌な予感はしていたのだ。
けど、これはない。これはないだろう。
目の前で燃え盛る領主館の離れを眺め、絶望感から全身の力が抜け落ちる。
先ほどまで散々暴れまわった体は四方から取り押さえられ、かなでの元に走り寄ることも出来ない。
消火をしているがとても火の手に追いつかない。
炎は益々勢いを増し、夜を焦がさんとせんばかりだ。
見ているだけの自分がもどかしく悔しく悲しい。
「兄様が」
「・・・・・・」
「兄様が居なかったんです。それで、小日向さんが探してくると」
「っ、あなたの兄でしょう!?どうしてかなでさん任せにするんですか!」
「私だって探しに行こうとしました。ですが、かなでさんが引き止めたんです!一人の方が動きやすいと仰ったから、ですから私はっ」
「兄とかなでさんを見捨てたんですか」
少女の瞳が傷ついた色を放つが、悠人の口は止まらない。
普段の悠人からは考えられない台詞だが、溢れる憎悪と言葉は止まらない。
「あなたはかなでさんを見殺しにしたんだ!誰かが助けに行くと勝手に信じて、かなでさんなら大丈夫だと思い込んで」
「違います!」
「じゃあ、何故ここにかなでさんは居ないんですか!!」
悲鳴と変わらない絶叫が喉から迸る。
苦しくて悔しくて仕方がない。
こんなのは八つ当たりだ。彼女は悪くないと判っている。
火事はきっと偶発的なもので、かなでなら取り残された男を捜さずに居られないのも。
それでも目の前で消えていく屋敷に、胸が締め上げられ生きているのが辛くなる。
───かなでを見殺しにするのは自分も同じだ。
腕を捕まれ体を押さえ込まれ、動けないのを理由に、ただ屋敷が燃え落ちるのを眺めるしか出来ない自分も同罪だ。
いっそ自由になる顎の動きで舌を噛み切ってしまおうかと不意に思う。
屋敷は全焼するまで火の手は止まらないだろう。
彼女が死んでしまうなら、自分が生きている意味もない。
そこまで考え、悠人は気づいてしまった。
こんな絶望の中で、もっとも気づかないでいたかった事実に気づいてしまった。
希望の欠片すら見受けられない自体の中で、さらに自分をどん底へ貶める感情に。
愚かにも、悠人はかなでを愛していたのだ。
家族としてではなく、男として。
一人の女性を欲し守りたいと願う、男として愛してたのだ。
悟った瞬間に目の前が真っ暗になった。
どうすればいいのだ、どうしろというのだ。
何故今になって、何で今この瞬間に。
────────────こんな、絶望的な愛に気がついてしまうのだ。
ぼろり、と涙が零れる。
泣いたのはかなでが孤児院を出て行って以来だった。
その後は苛められても苦しくても歯に力を篭め食いしばり、一滴たりとも涙を零したりしたことはなかったのに。
叫び声を上げて涙を流す。
堪えきれない悲しみは悠人の意識を闇へと堕とす。
その時不意に音が聞こえて、涙に濡れた顔を上げる。
「・・・かなで、さん」
燃え盛る炎の奥から聞こえるのは、紛れもないヴァイオリンの音。
柔らかな春の日差しのように、温かくて優しい大好きな音。
聞き違えるわけがない。これは、かなでのヴァイオリンの音だ。
静かに流れるメロディは、悠人の好きな曲だった。
幼い頃幾度も聞かせてもらった、大好きなかなでの曲だった。
「兄様」
かなでの音に新たに別の音が加わる。
どこか冷たさを含んだものなのに、不思議とかなでの音に合った。
絡み合う音楽に、人々の手が止まる。
絶望の中に希望を与えるような、そんな旋律だった。
隣に立っていた少女の頬に、一筋の涙がすっと伝う。
声も出さずに涙を零す彼女も、紛れもなく現状に絶望しているようだった。
「・・・兄様、小日向さんと一緒なんですね?」
ほろほろと涙を零しながらの言葉に、悠人の胸が黒く染まった。
そんなの許せない。死に行くかなでを彼が独占するなんて。
だが嫉妬に顔を歪める悠人に気づかず少女は続ける。
「兄様は小日向さんを愛してました。朗らかで優しく暖かな彼女を、きっと誰よりも、私よりも慈しんでいらっしゃいました。ヴァイオリンを弾けなくなった兄様の代わりに、小日向さんに将来を託すほど。ヴァイオリンを弾かないと決めた兄様が、再びヴァイオリンを奏でるほど」
───兄様は小日向さんを愛してます
再び呟かれた言葉に、悠人は死にたくなった。
あの男はかなでの全てを奪うのだ。
かなでの欲する何もかもを与え、代償にかなでを連れて行くつもりなのだ。
そんなのはどうして許せようか。
悠人はまだ何も返してないのに。
欲する何も鴨を与えられ、彼女の欲する何か一つも返していないのに。
全てを持っているあの男は、かなですら奪っていくというのか。
「くそぉぉぉおおぉぉぉおおお!!!!」
燃え盛る炎は、まるで自分と彼女の境界線だ。
どれほど望んでもその距離は縮まらず、彼女の瞳はいつだって弟を見るもので、優しさは湛えても望んだ熱は得られなかった。
だから気づかずにいたのに。意識的に沈めていたのに。
最後の最後で思い出させた男が憎い。
かなでと共に消えていく彼が、憎くて憎くて仕方ない。
地面に幾度も打ちつけた額から血が流れる。
髪を掴まれ無理やり顔を上げられた先には、炎に巻かれる屋敷の姿。
梁が落ち、天上が崩れる屋敷からは、いつの間にか愛した音色は消えていた。
その人はいつも笑っているイメージの人だ。
貧乏に苦しみ手が水仕事で荒れて血だらけになっても、寒い冬に防寒具が満足に得られず震えながら眠った夜も、親が居ないだけで理不尽に詰られても、それでも微笑みが絶えない人だった。
悠人よりも一つ年上のその人の名前は、小日向かなでと言った。
「かなでさん!」
「・・・あれ、ハルくん?どうしたの、そんなにほっぺ膨らまして」
「どうしたのじゃないです!あなたは力が弱いのに、またそんな無茶をして!」
買い物袋を両手で抱えていたかなでから、無理やりそれを奪い取る。
昔は見上げていた視線も今では見下ろす側に変わった。
かなではもう20歳で、悠人は19だ。
身体的な差が出来始め、強くなりたいと体を鍛えていた悠人は見た目よりも遥かに力があり、大してかなでは華奢で小さな見た目通りにはっきりいって非力だ。
その上どうにもとろ臭く、運動神経もぶつりと切れている。
見た目の年よりも若く見える可愛らしさは近所の若い男性から絶大な支持を得ており、朗らかで愛らしい雰囲気は老若男女問わず人気がある。
数年前から再び同居し始めたこの人は、悠人の血の繋がらない姉でもあるが、同時に酷く手の掛かる妹のような人。
悠人とかなでは幼い頃を同じ孤児院で過ごした。
何処の町でも同じだろうが、孤児院の経営は苦しく質素倹約が掲げられていた。
雨が降れば天井から染み出し、冬でも風が入り込むそこは、家というより掘建て小屋に近かったけれど、家族が居る帰るべき場所だった。
貧乏で生活は常に苦しく困窮に喘いでいても、共に暮らしたシスターは優しく子供達は兄弟だ。
喧嘩もしたし自分を哀れみもした。何故、町の人間は家族がいるのに自分には居ないのかと、シスターを責めたこともある。
けれど彼らはいつでもそんな悠人を見捨てず懇切丁寧に理を説き、そんな悠人の傍にはいつも同じ境遇のかなでが居てくれた。
かなでは孤児院に居るメンバーの中でもマイペースで少し変わり者の女の子だった。
冬場の水仕事も夏場の畑仕事も文句一つ言わずにいつでも笑顔で引き受けて、泣く子があれば宥め、腹を空かせた家族が居れば自分は我慢してでも少ない食事を分け与えた。
彼女の微笑みは絶えることなく、いつか彼女自身が天使かもしれないとしルターが笑い混じりに話していたのを覚えている。
かなではないものを嘆くのではなく、与えられたものに感謝して生きていく少女だったから。
そしてその与えられた少ないものを、惜しげもなく人に分け与えれる人でもあった。
だから何時だって彼女の身なりは孤児院で一番汚くて、何時だって彼女の手から血が流れていた。体は痩せ細り木の枝のようで、発達不良な体は他の家族と比べても著しい。
それでも微笑みの温かさは変わらず魅力的で、かなでが可愛らしい少女であるのは損ねられなかった。
そんなかなでは孤児院にあった楽器に唯一興味を示し、最初はピアノを、次は古びたヴァイオリンを独学で学び、ついには義務として通っていた学校でその腕を教師に買われ音楽学校へ特待生として入学した。
彼女に投資をしたいと申し出た男の誘いにかなでが孤児院を出て行ったのは13の春。
悠人はその時身も世もなく泣きじゃくり、かなでの服から離れなかった。
かなでは悠人が物心ついたときからずっと一緒に居てくれた、本物の姉と変わらぬ存在で、悠人の心の支えであったから。
それでもかなでのためだとシスターに説得され、泣きながら見送った。その後数年は手紙での遣り取りしかしておらず、16を過ぎ悠人も孤児院を卒業する年になった。
そんな折に、かなでからの手紙が再び届いた。
『一緒に暮らさない?』と。
かなでは王都の新進気鋭の音楽家のひとりとなって活躍している最中らしく、ヴァイオリンの腕は王宮に招かれ演奏するまでになったらしい。
パトロンとなった人のお陰だといつでも言っているが、きっとそんなに甘いものな訳がない。
微笑みの裏で血が滲むような努力を繰り返しその地位に辿り着いたに違いないのだ。悠人の最愛の姉は、とても努力家だったから。
嬉しい誘いだったが断った。漸く安定した生活を送り始めたかなでの足を引っ張りたくなかったし、足手まといは嫌だった。
勉強は続けたかったから近所で働きながら学校へ通うと手紙を送ったら、なんとその翌週にはかなで本人が迎えに来てしまった。
久しぶりに会った人は孤児院に居た頃からすると随分と綺麗になった。手に垢切れの後はなく、着ている衣服につぎはぎもない。
浮かべる微笑みは変わらないが、女性らしく曲線を描いた体にさらさらと靡く髪。
大きな瞳を細めて微笑んだ彼女は、『来ちゃった』と昔と変わらない笑顔で悠人に手を差し伸べた。
成り行きで始まった彼女との生活だったが、悠人はとても感謝していた。
かなではややおせっかいな部分はあるが、無条件に悠人を愛してくれる。
本当は勉強を続けたがっていた悠人のために学費を出し、大人になれば返してくれれば良いと面倒を見てくれる。
お金が稼げるようになってすぐから孤児院へ仕送りしているらしい彼女との生活は、けれどあの頃に比べれば天国のようなものだった。
ここ数年で孤児院の暮らしは見違えるようになったが、きっとそれもかなでのお陰だったに違いない。
かなでは恩を着せたりしない。出来るからやる。やりたいからやらせての一点張りで、だから代わりに忙しいかなでの家事を取り仕切るようになった。
幸い細かい作業は苦手ではなかったし、かなでとの生活は波乱万丈に飛んで楽しいものだ。
前線で活躍するかなでの生活は音楽漬けだが、音楽そのものを愛する彼女にその生活は苦にならない。
始めは予想以上に忙しい彼女の生活に目を丸くしたが、2年以上共に暮らせばいい加減慣れる。
大きくはないが住み心地のいい赤い屋根の家は、昔少女が望んだとおりに大きな犬が一匹と、気紛れな猫が一匹住んでいる。
小さな庭には花壇があって、花の手入れは悠人がしていた。
近所の人に挨拶しながら両手が塞がっている悠人の代わりに玄関を開けたかなでは、へらり、と笑って家に入る。
「おかえり、ハルくん」
「ただいま、かなでさん」
こんな些細な遣り取りが、二人にとって幸せだった。
「舞踏会?」
「そう。今日の夜に行くって言ってなかったっけ?」
「言ってないですよ!もう、夕飯の準備済んじゃったじゃないですか!!」
「あ、家に帰ってから食べるよ」
「───?舞踏会なら食事は出るんじゃないんですか?」
「ふふ、ハルくんたら。私は貴族じゃなくて音楽家だよ?舞踏会は参加するんじゃなくてお仕事で行くの」
「ドレスの準備は出来てるんですか?」
「うん。この間今日のためにって準備してもらったから」
「・・・あの、パトロンの男に?」
「うん。凄いよねぇ。私と同じ年なのに、もう領主の仕事をしてらっしゃるんだもの。彼に目をかけてもらえなかったら私もハルくんもこの場所に居られなかったから、感謝しなきゃね」
くすくすといつも通りに微笑んだかなでに、悠人は苦い表情で押し黙った。
確かに悠人とかなでが一緒に暮らせるのも、かなでが孤児院へ支援金を送れるのも彼女のパトロンが彼女の才能を発掘し伸ばしてくれたからだ。
かなでが音楽を愛してるのを知っているから、弟として感謝の念は絶えない。
かなでがほとんどの金を自分ではなく彼らに回しているのを悟り、必要があれば彼女に衣類も準備してくれているのも知っている。
───ありがたいと、思うべきなのだろう。
印象的な赤い髪をした男は、本でしか読んだことがない極寒の地の氷を思い出させる眼差しを持つ人だ。
初めて見えた瞬間、背筋に走った衝撃と恐れは未だに忘れない。
人を治める地位に居るからか、それとも彼が生まれ持ったものなのか。
覇王の気迫とでも言うべきものを彼は持っていた。
雲の上の人物であり、本来なら一生お目にかかれないであろう人物と認識があるのは、一重に悠人がかなでの弟分だからだ。
こちらに引っ越してきた数日後に招かれ、笑顔のかなでに連れて行かれた先が領主館だった。
家で引越し荷物を解いていた悠人は、急に服を着替えろと普段着よりも少し上等なものを手渡され、着替えが終わったと同時に連れ出されたので何がなんだか判らなかった。
見たこともない高級な調度品に囲まれながら、震える手で薄手のティーカップを支え、絶対零度の領主からの視線に耐える。
あれ以上の苦難は、後にも先にもないだろう。
同席していた彼の妹はどちらかと言えばかなでタイプだったのに、どうすればあんなに正反対の兄弟が生まれるのだか。
理解しかねたが、彼がかなでに対して親切なのは確かなので、悠人は胸の奥にある不平不満は飲み込んだ。
本音では、あまり付き合って欲しくないけれど。
渋い顔をしつつも着替えが終わった姉を送り出す。
夜半疲れて帰ってくる姿を思い、苦笑しながら下拵えの終わった料理を仕舞った。
「・・・どういう、ことですか?」
「ですから・・・小日向さんは、もう」
「もう何だと言うんです!かなでさんは、かなでさんは何処に居るんですか」
「まだ、きっと屋敷の中です」
悲愴な表情で俯いた美少女の腕を引っつかみ振り回したくなる衝動を、色が白くなるほど強い力で拳を作り何とか堪える。
食いしばった歯茎から血が流れ鉄錆び臭い味が口中に広がる。
かなでの仕事が終わるのを待ちながら勉強を続けていれば、家の前に四頭立ての馬車が止まった。
そんな高級な移動手段を持つのは貴族以上しかないと知っていたから、嫌な予感はしていたのだ。
けど、これはない。これはないだろう。
目の前で燃え盛る領主館の離れを眺め、絶望感から全身の力が抜け落ちる。
先ほどまで散々暴れまわった体は四方から取り押さえられ、かなでの元に走り寄ることも出来ない。
消火をしているがとても火の手に追いつかない。
炎は益々勢いを増し、夜を焦がさんとせんばかりだ。
見ているだけの自分がもどかしく悔しく悲しい。
「兄様が」
「・・・・・・」
「兄様が居なかったんです。それで、小日向さんが探してくると」
「っ、あなたの兄でしょう!?どうしてかなでさん任せにするんですか!」
「私だって探しに行こうとしました。ですが、かなでさんが引き止めたんです!一人の方が動きやすいと仰ったから、ですから私はっ」
「兄とかなでさんを見捨てたんですか」
少女の瞳が傷ついた色を放つが、悠人の口は止まらない。
普段の悠人からは考えられない台詞だが、溢れる憎悪と言葉は止まらない。
「あなたはかなでさんを見殺しにしたんだ!誰かが助けに行くと勝手に信じて、かなでさんなら大丈夫だと思い込んで」
「違います!」
「じゃあ、何故ここにかなでさんは居ないんですか!!」
悲鳴と変わらない絶叫が喉から迸る。
苦しくて悔しくて仕方がない。
こんなのは八つ当たりだ。彼女は悪くないと判っている。
火事はきっと偶発的なもので、かなでなら取り残された男を捜さずに居られないのも。
それでも目の前で消えていく屋敷に、胸が締め上げられ生きているのが辛くなる。
───かなでを見殺しにするのは自分も同じだ。
腕を捕まれ体を押さえ込まれ、動けないのを理由に、ただ屋敷が燃え落ちるのを眺めるしか出来ない自分も同罪だ。
いっそ自由になる顎の動きで舌を噛み切ってしまおうかと不意に思う。
屋敷は全焼するまで火の手は止まらないだろう。
彼女が死んでしまうなら、自分が生きている意味もない。
そこまで考え、悠人は気づいてしまった。
こんな絶望の中で、もっとも気づかないでいたかった事実に気づいてしまった。
希望の欠片すら見受けられない自体の中で、さらに自分をどん底へ貶める感情に。
愚かにも、悠人はかなでを愛していたのだ。
家族としてではなく、男として。
一人の女性を欲し守りたいと願う、男として愛してたのだ。
悟った瞬間に目の前が真っ暗になった。
どうすればいいのだ、どうしろというのだ。
何故今になって、何で今この瞬間に。
────────────こんな、絶望的な愛に気がついてしまうのだ。
ぼろり、と涙が零れる。
泣いたのはかなでが孤児院を出て行って以来だった。
その後は苛められても苦しくても歯に力を篭め食いしばり、一滴たりとも涙を零したりしたことはなかったのに。
叫び声を上げて涙を流す。
堪えきれない悲しみは悠人の意識を闇へと堕とす。
その時不意に音が聞こえて、涙に濡れた顔を上げる。
「・・・かなで、さん」
燃え盛る炎の奥から聞こえるのは、紛れもないヴァイオリンの音。
柔らかな春の日差しのように、温かくて優しい大好きな音。
聞き違えるわけがない。これは、かなでのヴァイオリンの音だ。
静かに流れるメロディは、悠人の好きな曲だった。
幼い頃幾度も聞かせてもらった、大好きなかなでの曲だった。
「兄様」
かなでの音に新たに別の音が加わる。
どこか冷たさを含んだものなのに、不思議とかなでの音に合った。
絡み合う音楽に、人々の手が止まる。
絶望の中に希望を与えるような、そんな旋律だった。
隣に立っていた少女の頬に、一筋の涙がすっと伝う。
声も出さずに涙を零す彼女も、紛れもなく現状に絶望しているようだった。
「・・・兄様、小日向さんと一緒なんですね?」
ほろほろと涙を零しながらの言葉に、悠人の胸が黒く染まった。
そんなの許せない。死に行くかなでを彼が独占するなんて。
だが嫉妬に顔を歪める悠人に気づかず少女は続ける。
「兄様は小日向さんを愛してました。朗らかで優しく暖かな彼女を、きっと誰よりも、私よりも慈しんでいらっしゃいました。ヴァイオリンを弾けなくなった兄様の代わりに、小日向さんに将来を託すほど。ヴァイオリンを弾かないと決めた兄様が、再びヴァイオリンを奏でるほど」
───兄様は小日向さんを愛してます
再び呟かれた言葉に、悠人は死にたくなった。
あの男はかなでの全てを奪うのだ。
かなでの欲する何もかもを与え、代償にかなでを連れて行くつもりなのだ。
そんなのはどうして許せようか。
悠人はまだ何も返してないのに。
欲する何も鴨を与えられ、彼女の欲する何か一つも返していないのに。
全てを持っているあの男は、かなですら奪っていくというのか。
「くそぉぉぉおおぉぉぉおおお!!!!」
燃え盛る炎は、まるで自分と彼女の境界線だ。
どれほど望んでもその距離は縮まらず、彼女の瞳はいつだって弟を見るもので、優しさは湛えても望んだ熱は得られなかった。
だから気づかずにいたのに。意識的に沈めていたのに。
最後の最後で思い出させた男が憎い。
かなでと共に消えていく彼が、憎くて憎くて仕方ない。
地面に幾度も打ちつけた額から血が流れる。
髪を掴まれ無理やり顔を上げられた先には、炎に巻かれる屋敷の姿。
梁が落ち、天上が崩れる屋敷からは、いつの間にか愛した音色は消えていた。
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