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「今日、雷門中と試合をしました」
淡々と報告する息子に目をやり、鬼道はゆっくりと瞼を閉じた。
いつかこんな日が来ると思っていた。
「父さんは姉さんの全てをご存知だったんですね?」
「・・・ああ。お前は何処までを聞いた?」
「二年前事故に合い、治療のためにアメリカに渡ったと。その際、事故の影響で二度とサッカーは出来ないと宣告されたと」
そうか、と呟き手を組んで瞼を閉じる。
最愛の娘である守が交通事故で入院したのは二年前。
そして彼女が昏睡状態なのを有人に伝えない方がいいと助言をくれたのは守の恩師である影山で、それに従ったのは有人がどれだけ守に依存していたか知っているからだ。
勉学においても運動においても、何においても守は優れた娘だった。
一回目にしたことは何でも覚え、鬼道家の娘として恥ずかしくない気品と教養を持ち、いつだって冷静で賢い子供だった。
何においても一通りこなした守は、中でも飛びぬけたサッカーの才能を持っていた。
九歳で日本とイタリアを行き来し、最年少でジュニアユースのメンバーに選ばれるなど、性別の壁も特例で乗り越えられたほどの天才プレイヤーだった。
ミッドフィルダーとしてイタリアで活躍する様子を、有人と一緒に応援に行った回数も数知れない。
フィールドを駆ける守を見るたびに、有人は守への尊敬を深め、誰よりも何よりも慕うようになっていた。
仲の良い兄弟は見ていて微笑ましく、息子も娘も愛しくて仕方ない。
思えばあの頃ほど幸せだった日々はなかった。
異変があったのは守が十二歳の時だった。
体調管理の一環として行われた検査で、守の胸部X線検査の結果に異変が見つかったのだ。
医者はすぐさま精密検査を勧め判った病状に目の前が暗くなった。
後天性の、詳しい要因も未だに解析されていない難病指定されている病気で、十年生存率も考えたくない数値のそれは、今のところ有効な治療法は心臓移植くらいだと言われている。
守の病状は天が味方したのか早期発見だったが、それでも絶望は容赦なく襲った。
すなわち、サッカーを二度としてはいけないという宣告だ。
天才でありながら努力を惜しまなかった守の体にはすでに微細ながら症状が現れており、このまま続ければただではすまないと申告された。
父としてサッカーはしないで欲しいと願った鬼道に、守は黙って俯いた。
それまで何を頼んでもすぐに『是』と頷いた守の遠まわしの拒否に、それでも鬼道は譲れなかった。
愛しい娘に、生きていて欲しかったのだ。
手術をすれば胸に傷が残る。一生痕が残るだろうが、勿論最高の医者を用意して最高のオペを受けさせてやるつもりだった。
日に日に口数が少なくなる守が唯一笑顔を見せるのは有人と一緒に居るときだけで、それ以外は部屋に篭るようになった。
どうしてか有人は守の帰国は帝国のサッカー部に入部するためと思い込んでいて、夕食で嬉しそうに守に話を振るたびに幾度叫びそうになっただろうか。
止めろと怒鳴りつける衝動を抑え切れたのは、『守本人』が有人に何も言わないでくれと願ったからだ。
せめて自分の口から伝えたいとそう言ったから、刻一刻と過ぎていく日々を確認しつつ鬼道も口を噤んだ。
そして更なる不幸は襲ってきた。
通いなれた病院での検診の帰り道、守は交通事故にあった。
病院の表で待機していた鬼道家の迎えの車を無視して何故か裏門から出て行った守は、交通違反をしていた車に撥ねられた。
衝撃により体中が傷だらけになり、心臓への負荷も凄まじいものだった。
今でも瞼を閉じるだけで思い出せる恐怖は、守を撥ねた車の運転手を刑務所に入れても薄まらない。
日本の病院で集中治療をさせて落ち着いたところで、更なる高度な治療をと影山に助言されアメリカの心臓移植も行う病院へと転院させた。
守の意識は一月も戻らず、アメリカで意識を取り戻したと聞いたときは、取るものも取らずに渡米したほどだ。
日本の病院で一週間付ききりで眺めた寝顔ではなく、横になったままでも瞳を開けた少女の姿に、身も世もなく泣きじゃくった。
尊い命が失われずに済んだことに神様に感謝した。
例え彼女が死にたかったのだとしても、感謝せずに居られなかった。
鬼道にとって、守は愛してやまない一人娘なのだから。
仕事の合間を縫い、一週間に一度は病院に顔を出した。
オーバーワークだと部下に諌められても全てを振り切り、少女の傍についていた。
守はほとんど眠って過ごしていたが、寝顔を見るだけで構わなかった。
上下する胸に何度安心しただろう。繰り返し喜びを噛み締めて───空いている時間に彼女が何を考えているかなど、想像もしていなかった。
『私を、鬼道家の養子から外してください』
『───守?』
『私は鬼道家の娘として役目を果たせません。父さんも聞いたでしょう?十年後、私が生きている確率は極めて低い。それに病院の近くで事故にあったからすぐにオペを受けれたし、先生が最良の治療をしてくれたけれど、この背中の傷は消えません』
『何を言ってるんだ、守。そんなもの気にしなくていい。私は傷跡などで娘を捨てたりしないし、お前は十年後も生きている』
『・・・・・・』
真っ直ぐにこちらを見る瞳に、鬼道は戦慄した。
あれほど光り輝いていた栗色の瞳は、暗く濁り何も映していない。
出来の悪いガラス玉のように、ただものを反射しているだけだ。
守はいつだって笑っている子供だった。
聡明で大人顔負けに肝が据わってどんな場面でも諦めずに物事に立ち向かう、誰にでも自慢できる素晴らしい娘だ。
美人ではないが愛嬌があって可愛らしい、そんな子なのに。
感情の一切を抜け落としたようにピクリとも表情を動かさない少女は、一体誰だろうか。
その瞳に希望はなく、深い絶望だけが横たわる。
どうしてこうなってしまったのかが判らずに動揺する鬼道の前で、守はゆっくりと瞼を閉ざす。
再び規則的に聞こえた寝息に、頭は混乱した。
始めは一時の気の迷いだと思い込んでいた発言は、幾度も繰り返される内に本気なのだと否応無しに納得させられた。
生気のない声で訴える守は、心臓の手術すら拒み、ただ自分の世界に閉じこもった。
サッカーと隔絶した世界に置いたと思い込んでいたアメリカで、守をサッカーに誘う少年が居たのを知ったのもその時期だった。
少年の名前は『一之瀬一哉』。何でもアメリカで有名な天才サッカー少年だったが、事故で二度とサッカーは出来ないと宣告された子供らしい。
守と酷似する状況に眉根を寄せて、彼がリハビリを受ける施設へ怒鳴り込んだのは、今では懐かしい思い出になる。
二度と守をサッカーに誘うなと怒鳴った自分に、彼は不思議そうに瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
『どうして、サッカーに誘ったらいけないの?鬼道守はイタリアジュニアユース代表の天才サッカープレイヤーじゃないか』
『守は二度とサッカーは出来ないと医者に宣告されている!リハビリをすれば続けられる君とは違うんだ!』
『俺も同じだよ』
『何?』
『俺も二度とサッカー出来ないって先生に言われた。でも、諦められなかった。努力したら絶対にもう一度プレイ出来る。そう信じているから、俺はリハビリをしてるんだ』
『・・・君と守は根本的に違う。あの子には心臓に疾患があって』
『だから、どうしておじさんがサッカーを出来ないって断言するの?鬼道守はサッカーを諦めたの?本人がもうやりたくないって、そう言ったの?』
『それは・・・』
『俺、毎日サッカーしようって誘うけど、いっつも断られるんだ。それっておじさんの所為?』
『何故、私の所為だと』
『あの子、俺がサッカーボール持っていくと一瞬だけ嬉しそうにして、次に泣きそうに顔を歪めるんだ。そうして感情を全部押し殺して、もうサッカーはしないって、二度と来るなって諦めたように目を閉じる。まるで世界そのものを拒絶して自分の殻の中に閉じこもってるみたいだ』
『君に何が判る!?あの子はサッカーを続ければこのままでは確実に死んでしまうんだぞ!?』
『今も死んでるのと同じだよ。少なくとも俺はそうだった。毎日毎日サッカーボールを抱いて泣いた。サッカーをしてない俺は、生きてないのと同じだ。───俺ね、あの子がサッカーしてるのテレビで見たよ。凄かった。天才ってこういう子を言うんだと思った。攻守に優れるミッドフィルダーで、天性の柔軟性を持っていて、どんな場面でも決して諦めないで、きらきらと光ってた。不屈のポラリスの呼び名どおりに』
憧れていると衒いもなく続けた少年は、だから信じてるんだと笑った。
『不屈のポラリス』。それは守がジュニアユースで走っていた頃の二つ名だ。
仲間の誰が諦めても絶対に勝利を諦めずに輝き続け、空に君臨する北極星のように惑う仲間の導となり続けた。
どん底に居ても仲間を自身の存在で奮い立たせた、自慢の娘の呼び名だった。
折れない心で勝利へと進む姿は、どれほど誇らしかったろう。
年齢も性別もハンデとせず、自分より大きな体の相手にも一歩も引かずに勝ちをもぎ取る守は、フィールドの上で輝いていた。
何故忘れていたのだろう。
愛しい娘はサッカーをしている最中が一番楽しそうだったのを。
一之瀬の言葉に心を揺さぶられた鬼道は、次に守の見舞いに来るときに、息子の勇姿を映したDVDを持参した。
それを見た守が再びサッカーを志すのであれば、今度こそ邪魔をしなと心に決めて。
結果的にサッカーをもう一度始めた彼女は、再び前を向いて歩き出した。
親として、子供の命を縮める選択をした自分が正しいのか、鬼道には未だ結論が出ない。
悩んで迷ってそれでも守の邪魔をしないのは、やはりサッカーを愛してやまない少女がその瞬間だけでも本当の笑顔を浮かべていたからだろう。
賢い守は自分を待ち受けている未来を正確に予想している。
そして、こちらが道を提示する前に選んでしまった。
器用でそれでいてこの上なく不器用な配慮は、鬼道の胸を締め付ける。
だがもう彼女にどうやって手を伸ばせばいいか判らず、せめて思うとおりに生かしてやりたかった。
ゆるゆると腹に溜まった思いを吐息として吐き出すと、自分を見詰める息子に視線をやる。
気がつけば普段からつけられるようになっていたゴーグル越しの瞳は見えないが、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
姉が居なければ年齢よりも落ち着いた少年だったが、こと守に関しては喜怒哀楽の激しい子供だったから。
だから守は最後の最後で本当にサッカーを出来ないと宣告された理由を隠した。
誰よりも弟を可愛がり愛しんだ少女は、全てを口にしないと選択した。
娘ならそうすると判っていたが、それだけに鬼道はやりきれない思いで一杯になる。
何もかもを抱え込み、それでいて再び笑っている少女は、彼女が抱え込んだ想いは、一体何処へ消えていくのか。
こんなときでも甘えさせてやれない自分は、だからこそ拒絶されたのだろうか。
目の前で泣きそうに眉を顰める息子をじっと見詰め、鬼道は彼にとって残酷な事実を口にした。
「有人」
「はい」
「厳密な意味では、もうお前に姉は居ない」
「・・・え?」
「彼女は自分を『円堂守』と名乗ったのだろう?それは、そのままの意味だ。『鬼道守』との養子縁組は今日を持って解消した」
「そんな・・・。何故ですか、父さん!!姉さんは誰よりも優秀な人です。今日共にプレイして確信しました。二度と出来ないと宣告されたとは思えないサッカーの腕も、人を惹き付けるカリスマ性も、常に冷静な判断力も、状況を見抜く目も何もかも備わっている。あの人ほど鬼道の跡取りに相応しい人は居ないでしょう!?それなのに、どうして・・・っ?」
「鬼道の跡取りはお前だ、有人。私はもう決めた。翻ることはないからお前も今から覚悟を決めておきなさい」
「父さん!!」
「そしてお前に朗報だ。お前の妹の『春奈』を養子として迎える準備を整えた。あとはお前の妹の了承と、確認だけだ」
「・・・何故ですか?俺はまだ約束を果たしていません。フットボールフロンティアで三年間優勝する条件の三分の一しか満たしていません」
「それが『鬼道守』の最後の願いだからだ。再びフィールドに立つことを決めた守はお前に負けない自分を知っていた」
いや、正確に言えばそれも本当ではない。
自分が勝つことで有人に何かを教えたかったのだろう。
きっとそれは鬼道が見逃してしまっている『何か』で、彼女じゃなければ気づかせれない『何か』。
血は繋がっていないが、二人は互いを本当に大事にしていた『兄弟』だった。
「私はお前の妹を娘にする。それが、私が愛する娘の願いだから。それをお前の望みだと笑い、娘を失う父への購いと思い込んだ我が子の願いだから」
「・・・違う。俺は、ずっと、姉さんと、春奈と三人で、ただ一緒に暮らしたかっただけなのに。家族として、今度こそ一緒に・・・俺は、姉さんは」
「守は近い内にまた留学するつもりだ。そうすれば今度こそ、お前とは二度と顔を合わせることはないだろう。あの子に日本は狭すぎる」
まるで死期を悟った猫のように、その姿を隠すつもりの少女は生きることを諦めている。
サッカーに執着し望んだ癖に、病状を理解している故に生命を放棄した。
口では医者になるために勉強したいと言っているが、それが何処まで本心か鬼道は見抜けない。
あの子が感情を制御出来なかったのは入院していた初期の状態の頃だけで、大多数の大人と接している鬼道ですら笑顔の奥に隠れた想いは触れさせてくれない。
ならばせめて、残りの時間を思うままに生きさせてやりたい。
日本は狭すぎると口にしたのは嘘ではなく、羽が生えたように軽やかな少女は世界を舞台とした方が似つかわしい。
傷だらけでぼろぼろの羽でも羽ばたきを諦めずに行くのなら、せめてその先で祝福を。
何もしてやれない親として、娘を愛する父として、尽くしてくれた我が子にしてやれる最後の手段。
選んだ道が間違っているとしても、もう自分は止められない。
笑って歩き出した少女は、鬼道では止められない。
日本へ帰国して学校に通いたいと願い出た守は、有人が居る帝国学園ではなく、自分が幼い頃暮らしていた稲妻町にある雷門中学へ編入した。
あの子の学力であれば日本のどの進学校でもトップで入学できたはずなのに、あえてその場所を選んだ。
アメリカで守を変えた少年、一之瀬に日本へ来てくれるよう頼んだのは鬼道だ。
いつ発作が起こってもおかしくない守のお目付け役を快く引き受けてくれた少年は、今もあの時と同じように少女の傍に居続ける。
断られても断られても幾度も守をサッカーに誘い続けた自分の咎だと、命を削り続ける守から離れようとしない。
避けられぬ別れを予感しながら、花火のように短い時間でも輝こうと足掻く娘に恋した子供は、気がつけば男の目をしていた。
以前ならそんな目で娘を見る人間を同居させたりしなかったろうが、今は違う。
何をおいてでも娘の命を優先すると確信出来るから、『一之瀬一哉』を選んだ。
彼の将来を思えば良策ではないが、選択は間違ってなかったと信じている。
目の前で深い混乱に陥る息子に、全てを話す日は来るのだろうか。
守が留学すれば、有人は何も知らずに二度とあの子に関われなくなる。
それは果たしてこの子にとって本当にいい事か、鬼道には判らない。
もし守の現状を理解すれば、誰よりも傷を負うのは全身で彼女を慕う有人だろう。
遠い異国を死地と定めた守は、その命が尽きる瞬間も、否、尽きた後も何も教えぬ気だ。
飛びぬけて秀でた頭脳を誇る彼女だからこそ出来る手段だが、何も知らされないのは幸せなのだろうか。
傷つく権利すら与えて貰えぬ子供は生涯を捧げてでも姉を探そうとするだろう。
周到な守の所在を奇跡的に突き止めることがあれば、彼は今度こそ壊れてしまうのではないか。
声すら上げずに知らぬ内に切られていた縁に慟哭する子供は、自らに触れる手を本能で拒絶している。
もう二年も悩み続けているのに、いい道が何か、鬼道は見つけることは出来ない。
淡々と報告する息子に目をやり、鬼道はゆっくりと瞼を閉じた。
いつかこんな日が来ると思っていた。
「父さんは姉さんの全てをご存知だったんですね?」
「・・・ああ。お前は何処までを聞いた?」
「二年前事故に合い、治療のためにアメリカに渡ったと。その際、事故の影響で二度とサッカーは出来ないと宣告されたと」
そうか、と呟き手を組んで瞼を閉じる。
最愛の娘である守が交通事故で入院したのは二年前。
そして彼女が昏睡状態なのを有人に伝えない方がいいと助言をくれたのは守の恩師である影山で、それに従ったのは有人がどれだけ守に依存していたか知っているからだ。
勉学においても運動においても、何においても守は優れた娘だった。
一回目にしたことは何でも覚え、鬼道家の娘として恥ずかしくない気品と教養を持ち、いつだって冷静で賢い子供だった。
何においても一通りこなした守は、中でも飛びぬけたサッカーの才能を持っていた。
九歳で日本とイタリアを行き来し、最年少でジュニアユースのメンバーに選ばれるなど、性別の壁も特例で乗り越えられたほどの天才プレイヤーだった。
ミッドフィルダーとしてイタリアで活躍する様子を、有人と一緒に応援に行った回数も数知れない。
フィールドを駆ける守を見るたびに、有人は守への尊敬を深め、誰よりも何よりも慕うようになっていた。
仲の良い兄弟は見ていて微笑ましく、息子も娘も愛しくて仕方ない。
思えばあの頃ほど幸せだった日々はなかった。
異変があったのは守が十二歳の時だった。
体調管理の一環として行われた検査で、守の胸部X線検査の結果に異変が見つかったのだ。
医者はすぐさま精密検査を勧め判った病状に目の前が暗くなった。
後天性の、詳しい要因も未だに解析されていない難病指定されている病気で、十年生存率も考えたくない数値のそれは、今のところ有効な治療法は心臓移植くらいだと言われている。
守の病状は天が味方したのか早期発見だったが、それでも絶望は容赦なく襲った。
すなわち、サッカーを二度としてはいけないという宣告だ。
天才でありながら努力を惜しまなかった守の体にはすでに微細ながら症状が現れており、このまま続ければただではすまないと申告された。
父としてサッカーはしないで欲しいと願った鬼道に、守は黙って俯いた。
それまで何を頼んでもすぐに『是』と頷いた守の遠まわしの拒否に、それでも鬼道は譲れなかった。
愛しい娘に、生きていて欲しかったのだ。
手術をすれば胸に傷が残る。一生痕が残るだろうが、勿論最高の医者を用意して最高のオペを受けさせてやるつもりだった。
日に日に口数が少なくなる守が唯一笑顔を見せるのは有人と一緒に居るときだけで、それ以外は部屋に篭るようになった。
どうしてか有人は守の帰国は帝国のサッカー部に入部するためと思い込んでいて、夕食で嬉しそうに守に話を振るたびに幾度叫びそうになっただろうか。
止めろと怒鳴りつける衝動を抑え切れたのは、『守本人』が有人に何も言わないでくれと願ったからだ。
せめて自分の口から伝えたいとそう言ったから、刻一刻と過ぎていく日々を確認しつつ鬼道も口を噤んだ。
そして更なる不幸は襲ってきた。
通いなれた病院での検診の帰り道、守は交通事故にあった。
病院の表で待機していた鬼道家の迎えの車を無視して何故か裏門から出て行った守は、交通違反をしていた車に撥ねられた。
衝撃により体中が傷だらけになり、心臓への負荷も凄まじいものだった。
今でも瞼を閉じるだけで思い出せる恐怖は、守を撥ねた車の運転手を刑務所に入れても薄まらない。
日本の病院で集中治療をさせて落ち着いたところで、更なる高度な治療をと影山に助言されアメリカの心臓移植も行う病院へと転院させた。
守の意識は一月も戻らず、アメリカで意識を取り戻したと聞いたときは、取るものも取らずに渡米したほどだ。
日本の病院で一週間付ききりで眺めた寝顔ではなく、横になったままでも瞳を開けた少女の姿に、身も世もなく泣きじゃくった。
尊い命が失われずに済んだことに神様に感謝した。
例え彼女が死にたかったのだとしても、感謝せずに居られなかった。
鬼道にとって、守は愛してやまない一人娘なのだから。
仕事の合間を縫い、一週間に一度は病院に顔を出した。
オーバーワークだと部下に諌められても全てを振り切り、少女の傍についていた。
守はほとんど眠って過ごしていたが、寝顔を見るだけで構わなかった。
上下する胸に何度安心しただろう。繰り返し喜びを噛み締めて───空いている時間に彼女が何を考えているかなど、想像もしていなかった。
『私を、鬼道家の養子から外してください』
『───守?』
『私は鬼道家の娘として役目を果たせません。父さんも聞いたでしょう?十年後、私が生きている確率は極めて低い。それに病院の近くで事故にあったからすぐにオペを受けれたし、先生が最良の治療をしてくれたけれど、この背中の傷は消えません』
『何を言ってるんだ、守。そんなもの気にしなくていい。私は傷跡などで娘を捨てたりしないし、お前は十年後も生きている』
『・・・・・・』
真っ直ぐにこちらを見る瞳に、鬼道は戦慄した。
あれほど光り輝いていた栗色の瞳は、暗く濁り何も映していない。
出来の悪いガラス玉のように、ただものを反射しているだけだ。
守はいつだって笑っている子供だった。
聡明で大人顔負けに肝が据わってどんな場面でも諦めずに物事に立ち向かう、誰にでも自慢できる素晴らしい娘だ。
美人ではないが愛嬌があって可愛らしい、そんな子なのに。
感情の一切を抜け落としたようにピクリとも表情を動かさない少女は、一体誰だろうか。
その瞳に希望はなく、深い絶望だけが横たわる。
どうしてこうなってしまったのかが判らずに動揺する鬼道の前で、守はゆっくりと瞼を閉ざす。
再び規則的に聞こえた寝息に、頭は混乱した。
始めは一時の気の迷いだと思い込んでいた発言は、幾度も繰り返される内に本気なのだと否応無しに納得させられた。
生気のない声で訴える守は、心臓の手術すら拒み、ただ自分の世界に閉じこもった。
サッカーと隔絶した世界に置いたと思い込んでいたアメリカで、守をサッカーに誘う少年が居たのを知ったのもその時期だった。
少年の名前は『一之瀬一哉』。何でもアメリカで有名な天才サッカー少年だったが、事故で二度とサッカーは出来ないと宣告された子供らしい。
守と酷似する状況に眉根を寄せて、彼がリハビリを受ける施設へ怒鳴り込んだのは、今では懐かしい思い出になる。
二度と守をサッカーに誘うなと怒鳴った自分に、彼は不思議そうに瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
『どうして、サッカーに誘ったらいけないの?鬼道守はイタリアジュニアユース代表の天才サッカープレイヤーじゃないか』
『守は二度とサッカーは出来ないと医者に宣告されている!リハビリをすれば続けられる君とは違うんだ!』
『俺も同じだよ』
『何?』
『俺も二度とサッカー出来ないって先生に言われた。でも、諦められなかった。努力したら絶対にもう一度プレイ出来る。そう信じているから、俺はリハビリをしてるんだ』
『・・・君と守は根本的に違う。あの子には心臓に疾患があって』
『だから、どうしておじさんがサッカーを出来ないって断言するの?鬼道守はサッカーを諦めたの?本人がもうやりたくないって、そう言ったの?』
『それは・・・』
『俺、毎日サッカーしようって誘うけど、いっつも断られるんだ。それっておじさんの所為?』
『何故、私の所為だと』
『あの子、俺がサッカーボール持っていくと一瞬だけ嬉しそうにして、次に泣きそうに顔を歪めるんだ。そうして感情を全部押し殺して、もうサッカーはしないって、二度と来るなって諦めたように目を閉じる。まるで世界そのものを拒絶して自分の殻の中に閉じこもってるみたいだ』
『君に何が判る!?あの子はサッカーを続ければこのままでは確実に死んでしまうんだぞ!?』
『今も死んでるのと同じだよ。少なくとも俺はそうだった。毎日毎日サッカーボールを抱いて泣いた。サッカーをしてない俺は、生きてないのと同じだ。───俺ね、あの子がサッカーしてるのテレビで見たよ。凄かった。天才ってこういう子を言うんだと思った。攻守に優れるミッドフィルダーで、天性の柔軟性を持っていて、どんな場面でも決して諦めないで、きらきらと光ってた。不屈のポラリスの呼び名どおりに』
憧れていると衒いもなく続けた少年は、だから信じてるんだと笑った。
『不屈のポラリス』。それは守がジュニアユースで走っていた頃の二つ名だ。
仲間の誰が諦めても絶対に勝利を諦めずに輝き続け、空に君臨する北極星のように惑う仲間の導となり続けた。
どん底に居ても仲間を自身の存在で奮い立たせた、自慢の娘の呼び名だった。
折れない心で勝利へと進む姿は、どれほど誇らしかったろう。
年齢も性別もハンデとせず、自分より大きな体の相手にも一歩も引かずに勝ちをもぎ取る守は、フィールドの上で輝いていた。
何故忘れていたのだろう。
愛しい娘はサッカーをしている最中が一番楽しそうだったのを。
一之瀬の言葉に心を揺さぶられた鬼道は、次に守の見舞いに来るときに、息子の勇姿を映したDVDを持参した。
それを見た守が再びサッカーを志すのであれば、今度こそ邪魔をしなと心に決めて。
結果的にサッカーをもう一度始めた彼女は、再び前を向いて歩き出した。
親として、子供の命を縮める選択をした自分が正しいのか、鬼道には未だ結論が出ない。
悩んで迷ってそれでも守の邪魔をしないのは、やはりサッカーを愛してやまない少女がその瞬間だけでも本当の笑顔を浮かべていたからだろう。
賢い守は自分を待ち受けている未来を正確に予想している。
そして、こちらが道を提示する前に選んでしまった。
器用でそれでいてこの上なく不器用な配慮は、鬼道の胸を締め付ける。
だがもう彼女にどうやって手を伸ばせばいいか判らず、せめて思うとおりに生かしてやりたかった。
ゆるゆると腹に溜まった思いを吐息として吐き出すと、自分を見詰める息子に視線をやる。
気がつけば普段からつけられるようになっていたゴーグル越しの瞳は見えないが、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
姉が居なければ年齢よりも落ち着いた少年だったが、こと守に関しては喜怒哀楽の激しい子供だったから。
だから守は最後の最後で本当にサッカーを出来ないと宣告された理由を隠した。
誰よりも弟を可愛がり愛しんだ少女は、全てを口にしないと選択した。
娘ならそうすると判っていたが、それだけに鬼道はやりきれない思いで一杯になる。
何もかもを抱え込み、それでいて再び笑っている少女は、彼女が抱え込んだ想いは、一体何処へ消えていくのか。
こんなときでも甘えさせてやれない自分は、だからこそ拒絶されたのだろうか。
目の前で泣きそうに眉を顰める息子をじっと見詰め、鬼道は彼にとって残酷な事実を口にした。
「有人」
「はい」
「厳密な意味では、もうお前に姉は居ない」
「・・・え?」
「彼女は自分を『円堂守』と名乗ったのだろう?それは、そのままの意味だ。『鬼道守』との養子縁組は今日を持って解消した」
「そんな・・・。何故ですか、父さん!!姉さんは誰よりも優秀な人です。今日共にプレイして確信しました。二度と出来ないと宣告されたとは思えないサッカーの腕も、人を惹き付けるカリスマ性も、常に冷静な判断力も、状況を見抜く目も何もかも備わっている。あの人ほど鬼道の跡取りに相応しい人は居ないでしょう!?それなのに、どうして・・・っ?」
「鬼道の跡取りはお前だ、有人。私はもう決めた。翻ることはないからお前も今から覚悟を決めておきなさい」
「父さん!!」
「そしてお前に朗報だ。お前の妹の『春奈』を養子として迎える準備を整えた。あとはお前の妹の了承と、確認だけだ」
「・・・何故ですか?俺はまだ約束を果たしていません。フットボールフロンティアで三年間優勝する条件の三分の一しか満たしていません」
「それが『鬼道守』の最後の願いだからだ。再びフィールドに立つことを決めた守はお前に負けない自分を知っていた」
いや、正確に言えばそれも本当ではない。
自分が勝つことで有人に何かを教えたかったのだろう。
きっとそれは鬼道が見逃してしまっている『何か』で、彼女じゃなければ気づかせれない『何か』。
血は繋がっていないが、二人は互いを本当に大事にしていた『兄弟』だった。
「私はお前の妹を娘にする。それが、私が愛する娘の願いだから。それをお前の望みだと笑い、娘を失う父への購いと思い込んだ我が子の願いだから」
「・・・違う。俺は、ずっと、姉さんと、春奈と三人で、ただ一緒に暮らしたかっただけなのに。家族として、今度こそ一緒に・・・俺は、姉さんは」
「守は近い内にまた留学するつもりだ。そうすれば今度こそ、お前とは二度と顔を合わせることはないだろう。あの子に日本は狭すぎる」
まるで死期を悟った猫のように、その姿を隠すつもりの少女は生きることを諦めている。
サッカーに執着し望んだ癖に、病状を理解している故に生命を放棄した。
口では医者になるために勉強したいと言っているが、それが何処まで本心か鬼道は見抜けない。
あの子が感情を制御出来なかったのは入院していた初期の状態の頃だけで、大多数の大人と接している鬼道ですら笑顔の奥に隠れた想いは触れさせてくれない。
ならばせめて、残りの時間を思うままに生きさせてやりたい。
日本は狭すぎると口にしたのは嘘ではなく、羽が生えたように軽やかな少女は世界を舞台とした方が似つかわしい。
傷だらけでぼろぼろの羽でも羽ばたきを諦めずに行くのなら、せめてその先で祝福を。
何もしてやれない親として、娘を愛する父として、尽くしてくれた我が子にしてやれる最後の手段。
選んだ道が間違っているとしても、もう自分は止められない。
笑って歩き出した少女は、鬼道では止められない。
日本へ帰国して学校に通いたいと願い出た守は、有人が居る帝国学園ではなく、自分が幼い頃暮らしていた稲妻町にある雷門中学へ編入した。
あの子の学力であれば日本のどの進学校でもトップで入学できたはずなのに、あえてその場所を選んだ。
アメリカで守を変えた少年、一之瀬に日本へ来てくれるよう頼んだのは鬼道だ。
いつ発作が起こってもおかしくない守のお目付け役を快く引き受けてくれた少年は、今もあの時と同じように少女の傍に居続ける。
断られても断られても幾度も守をサッカーに誘い続けた自分の咎だと、命を削り続ける守から離れようとしない。
避けられぬ別れを予感しながら、花火のように短い時間でも輝こうと足掻く娘に恋した子供は、気がつけば男の目をしていた。
以前ならそんな目で娘を見る人間を同居させたりしなかったろうが、今は違う。
何をおいてでも娘の命を優先すると確信出来るから、『一之瀬一哉』を選んだ。
彼の将来を思えば良策ではないが、選択は間違ってなかったと信じている。
目の前で深い混乱に陥る息子に、全てを話す日は来るのだろうか。
守が留学すれば、有人は何も知らずに二度とあの子に関われなくなる。
それは果たしてこの子にとって本当にいい事か、鬼道には判らない。
もし守の現状を理解すれば、誰よりも傷を負うのは全身で彼女を慕う有人だろう。
遠い異国を死地と定めた守は、その命が尽きる瞬間も、否、尽きた後も何も教えぬ気だ。
飛びぬけて秀でた頭脳を誇る彼女だからこそ出来る手段だが、何も知らされないのは幸せなのだろうか。
傷つく権利すら与えて貰えぬ子供は生涯を捧げてでも姉を探そうとするだろう。
周到な守の所在を奇跡的に突き止めることがあれば、彼は今度こそ壊れてしまうのではないか。
声すら上げずに知らぬ内に切られていた縁に慟哭する子供は、自らに触れる手を本能で拒絶している。
もう二年も悩み続けているのに、いい道が何か、鬼道は見つけることは出来ない。
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更新内容
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(06/28)
(04/07)
(04/07)
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