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それはまだ世界に異形の存在が共存し、天界と魔界、人間界は全てが一つであり個として存在していた頃の話。
千秋は魔界では数人存在する魔を統べるものの一人であった。
短い刈られた金の髪に、浅黒い肌。強気な瞳に自信ありげな不遜な表情がこの上なく似合う、人間であれば二十歳そこそこの姿をした魔の者だ。黒を基調とした肌を露出させる革の衣装に身を包み、あけられた背中からは蝙蝠と酷似した翼が一対存在する。
人であれば誰しも見惚れるような麗しい容貌をした彼は、美しいものこそ力を持つという天界と魔界のしきたり通りに強大な力を持っていた。どれ程かと言えば、指を一つ鳴らしただけで軽く国を一つ潰せる程度の力を持っている。だが、彼がこの力を振るうことは滅多になく、魔に属する者らしく自身の楽しみを追求する性質を持ちながらも破壊衝動に走ることはほとんどなかった。
それは衝動がないわけではなく、単純に人の世界を気に入っていたからだ。
魔に属する千秋たちを人は極端に差別する。天に属するものを崇めるのと対比して、何故か自分たちは彼らにとって悪に映るらしい。
主な理由は快楽を理由に殺戮を行ったり、人を惑わせ道を外させるかららしいが、千秋からすればそれは天の者と何の違いがあるのか判らない。
彼らには白い羽根があり、美しい容姿と洗練された物腰、そして奇跡を起こす力があるが、それは魔に属するものとて変わらない。奇跡と称する力で人を惑わし戯れに殺戮し、魂を糧に契約主の願いを叶える。彼らの行動と自分たちのそれと、一体何が違うというのか。
程度の低い理由をつけ人を味方につけた天の者も、その口車に乗せられた人間も同等に愚かだと思うが憎いとは思えなかった。
そもそも何かを憎むほど興味を持ったことはなく、相棒であり腹心の部下である男から言わせれば糸の切れた風船のように漂っているのと良く似た状態でいるのが千秋の常であった。
だからごく稀に気になったものは何を置いても優先し、好奇心の望むままに行動する。
それが千秋が千秋になった瞬間から変わらぬ習性だった。
その少女を見つけたのは偶然だった。
夜の散歩中、森の奥深くで見つけたあばら家。明かりも灯されることない部屋は薄暗い闇と共存し、窓枠は歪み少しの風でかたかたと揺れた。辛うじて屋根と呼べるトタンのそれは、所々が壁から剥がれ軋んだ音を立てている。
どう見ても人は住んで居なさそうな場所に、千秋の運命を変えた少女は住んでいた。
初めてそこに向かったのは単純な好奇心であった。
今にも風に吹かれて潰れてもおかしくないあばら家から聞こえてきた洗練された音。涼やかで軽やか。何物にも囚われぬ広がりを持ち、同時に何かに閉じ込めなければ砕けるのではないかと思える繊細な響き。
人の世界を長く渡り歩いた千秋はこれが何の音か知っていた。
誘われるようにそこに近づいたのは、その音色が今まで千秋が耳にしたどれよりも美しかったからだ。長い時を生きてきたが、これほど千秋の好みに合う音楽を聴いたのは初めてで、美しいものを好む性質を持つ人でないものなら誰しも魅了されるだろう。
否。これほど美しければ、ただ人ですら聞き惚れたかもしれない。 それほどに心弾かれる音色。持ち前の好奇心がうずうずと刺激され、壊れかけの窓からそっと顔を覗かせる。部屋には明かり一つないが、闇は千秋の領域。視界を遮る効果はない。
「・・・女?」
いや、女というより少女と呼ぶべきか。真っ暗な部屋の中、一心不乱に楽器を奏でる少女は、骨と皮で出来ているのかと思えるくらいに痩せている。こちらに背中を向けているため、顔を眺めることは出来ないが不揃いに切られた髪が肩の辺りでさらりと揺れ、纏う衣服は布、というよりぼろ布だ。さすがこんなあばら家に住んでいるだけあって、激貧生活を地でいっているらしい。だがその手に持つ楽器だけは、この家に似合わぬ一品だった。まずこの世界で楽器を持っているのは上流家庭の者だけで、それだけで異彩を放っている。少女が奏でるのはヴァイオリンと呼ばれるそれだ。良いとこの令嬢ですら習う人間は稀だというのに、息を吸うようにそれを弾きこなす。いいや、弾くなどという生温い表現は似つかわしくない。少女はその楽器を高らかと謳わせていた。
「大したものだな」
体全体を使い楽器を鳴らしていた少女は、不意に動きを止めた。奏でられていた曲も呆気ないほど唐突に終わる。中途半端な終焉に眉を寄せて舌打ちした。
「・・・そこに居るのは誰ですか?」
鈴を転がしたような愛らしい声。もしかしたら、千秋の予想より少女は遙かに幼いのかも知れない。そうであれば、あの発育不良な体型の説明がつくと些か失礼な納得の仕方をする。
暗闇の中、少女はこちらを振り返った。月明かりすら届かない暗闇で、千秋は目を丸くする。予想以上に少女がやせていた体とか、薄汚れていたからではない。確かに、都に居る女よりも愛らしい顔立ちをしていたが、千秋が驚いたのはそれが理由ではなかった。
「・・・お前、目が見えないのか」
少女の愛らしい容姿の中でも特に目を引く大きな目。長い睫毛が縁取るそれは、薄く白い膜を張っている。その瞳は確かに千秋が居る方向を向いているが、それでも千秋を見ていない。千秋から僅かに離れた何かを映すその瞳に、首を傾げた。
じっと薄汚れた顔を眺めていた千秋に、少女は淡く微笑む。その表情に目を見張った。ふわり、と。花が綻ぶように少しずつ緩んだそれは、派手さはないが何処かホッとする暖かさを持つ。例えるなら春の日差し。午睡に適した優しい時間。柔らかな笑みに目を奪われ、近づく少女に動けなかった。
手を伸ばし、周りを探るように足を進めていた少女は、千秋の顔に手を伸ばす。普段なら躊躇なく叩き落していたが、毒気を抜かれてぼうっとその手を眺めていた。ひやり、と冷たい感触が頬に当たる。魔の者の自分よりも冷たいのはどうなんだ、とじっとりと眉を寄せるが嫌悪感はない。可笑しなものだ。千秋は柔軟性は高いが、それに比例して矜持も高い。人間如きに無防備な醜態を晒す趣味はないというのに。己の行動に首を傾げながらも不躾な動きを許容する。
髪、目、鼻、口。そしてそのまま耳へと伸ばそうとした掌を掴んだ。嫌だったのではない。千秋の耳は人のものよりも長く尖っている。目が見えない少女は未だ千秋の正体に気づいてないようなのに、魔の者であるのを知らせたくなかった。
「・・・ごめんなさい」
「あ?」
「失礼・・・ですよね。私、つい癖で人を触っちゃうんです。目が見えないから、その分手で触って確かめようとしちゃって・・・。失礼なことしてごめんなさい」
「・・・いや。目が見えないんだろ?仕方がない」
するりと口をついた言葉に、千秋はぎょっと驚いた。意識しての言葉じゃなかったからこそ余計に。人を嫌ってなくとも千秋は魔の者だ。人間を庇護する言葉など吐いたことがない。
小さな掌を握ったまま家の中に入る所為で自分よりも少しだけ高い場所にある目をじっと見詰める。白く膜は張っているが、その瞳は蕩けるような琥珀色。何も映し出さないそれを、綺麗だ、と思う。そして綺麗だと思った自分に首を傾げた。
「私、かなでって言います。えと、身内はいないですけど、友達は何人か居て、今はこの家で一人暮らししてるんです」
「・・・そうか」
「それで・・・あの、もしよかったら私と友達になってくれませんか?」
「はぁ?」
突拍子もない言葉に目を瞬かせた。人間とは初対面の正体不明の男にこんな言葉を言うものだったか。千秋が覚えている人はもっと警戒心が強く臆病だった気がするが、この少女だけが異質なのだろうか。
「私、友達は居るんですけど、ここ、村から離れてて何日か一度しか会えないんです。その間、ずっと一人で。だから、もし友達になってくれるなら嬉しいなって」
「・・・・・・」
無防備すぎるだろう、と眉を寄せる。人里から離れていて滅多に誰も来ないなら、こんな誘いはするべきじゃない。真夜中の訪問者など碌なものは居ないのだから。強盗、山賊、人攫い。何れも害を為す者ばかりで、益になる存在は居ない。眉間に皺を刻んで黙り込んだ千秋に何を勘違いしたのか、かなでと名乗った少女は悲しげに眉を下げた。ころころと表情が変わる、と腕を組む。百面相は見ているだけで厭きない。
「・・・あの、ごめんなさい」
「・・・」
「いきなり、友達になってっていっても難しいですよね。初対面ですし、私目も見えないし。厚かましいこといってすみません。あの、忘れてください。──村なら、家の前の道を真っ直ぐに行けば一時間ほどでつきますから」
「おい、待て。俺は村には用はない」
「そうなんですか?」
「ああ。大体、道など聞かずとも俺には判るしな」
「・・・じゃあ、ここには何を?村に用がなくて、私を知らないならどうしてそこにいたんですか?」
こてり、と首を傾げたかなでに苦笑する。やはりこの少女は少し、否、大分警戒心が枯渇してるらしい。そこまで行きついたのに、未だに無防備なままなのはいかなるものか。
腕を組み一つため息を落とす。随分ととろいが、まぁ別に嫌いではない。それによくよく見てみれば随分と綺麗な色をしていた。もちろん、見た目ではない。そんな見せ掛けのものではなく、もっとずっと奥にある根本的なものが。万物を個とたらしめるそれが、白金に輝き美しかったのだ。千秋は魔に属する者だ。それを欲し糧とする。そう───人はそれを魂と呼ぶ。
かなでの魂は混じりけのない、それ自体が発光する白。角度によっては金色にもなる。この色は人が持つものとしては随分と珍しい。生きとし生きるものは全て感情を持つ。動物も植物も極端に言えば道に転がっている石ころだってそうだ。感情は色を持ち魂を染め上げる。その色は歩んできた道により異なるが、基本的に何色かの色が交じり合う。なのに目の前の少女の魂は色がない。それは随分と希少価値があるもので、だからか、と納得する。
先ほどかなでが弾いたヴァイオリンの音は天上でも聴けない程のものだった。色に染まらぬ彼女が奏でた音だからこそ、色を映しだし輝いた。ふむ、と頷いた千秋にかなでは反対側に首を傾げた。リアクションが子供っぽい。
「お前、一人で暮らしているのか?」
「・・・?はい。私、子供の頃に両親を亡くしてしまって。ずっと幼馴染の家で面倒見てもらってたんですけど、今年に入ってここに越してきたんです。快適とは言えませんけど、不便ない生活を送らせてもらってるんですよ」
「不便ない、ねぇ」
笑うかなでに室内を見渡す。外観に比例するように室内もまた酷い。いつ腐れ落ちても不思議じゃない天上に、足が折れかかった椅子。机の上には苔が生え、ベッドと呼ぶのもおこがましい寝台は藁が引いてあった。明かりを灯すランプもなければ、台所も箪笥もない。着替えや風呂はどうしているのか。これを不便じゃないと言う目の前の少女はどんな生活を送っているのだろう。人でない千秋ですら不便だと判るのに。
「まぁ、いい。お前、ヴァイオリン弾けるだろう?」
「え?あ、はい。子供の頃おじいちゃんに教えてもらったんです。私、他に何も出来ないけど、これだけは得意なんですよ」
「もう一度」
「?」
「もう一度、弾け。俺はお前の音が気に入った」
ばさり、と翼を広げると部屋の中に居るかなでの腕を掴む。ヴァイオリンを持ったままの少女は、簡単に持ち上げられる程に軽かった。暗闇の中から無理やりに引き出し、窓の外へ下ろす。
「・・・っ」
「?!お前、靴は」
「持ってないんです。その、あまり外に出ないから必要ないし」
「・・・たく」
一つため息を吐き指を鳴らす。闇が収束しかなでの白い足に絡み付くと漆黒のブーツになった。一見革製に見えるが、これは千秋の力の具現なので材質は異なる。一時的に少女の足を守るには上等だろう。
「あ・・・足が痛くなくなりました」
「そうか。なら、俺の為に弾け。───いいや、弾くんじゃないな。その楽器を謳わせろ」
「ヴァイオリンをですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
苛立ち強い口調を浴びせれば、かなでは慌ててヴァイオリンを構えた。左肩に乗せたヴァイオリンに顎を置く。目を瞑ると弦に弓を滑らせた。
途端に溢れる高音。流星群のように煌くそれは、一瞬の輝きを見せ次々と落ちていく。全てが消える前に滑らかな低音が撓み音を拾うと投げ返した。先ほどまでの早弾きから一転して落ち着いた響きがゆったりと包み込む。穏やかでどこか暖かい音。心地よさにうっとりと目を細めて聞き入る。かなでの魂を映した色は、随分と魅力的だ。人のような愚鈍な生き物にはぱっと判らないかもしれないが、森に住む動物たちはそれが判るらしい。先ほど千秋が降りて逃げていったはずの彼らが、そこかしこから顔を覗かせている。草葉にはウサギ、キツネ、木陰にはシカ、オオカミ。木の上にはリス、モモンガ、フクロウ。他にもぽつぽつ気配を感じる。中には相容れぬ存在も少なくなく、それほどこの音色が恋しいか、と微かに唇を持ち上げた。
月明かりをスポットライトに、少女はただ一人の舞台で楽器を謳わせる。高らかに何処までも、優しく澄んだ音色を。その音楽は春の日差し柔らかな午後のように、気持ちを緩めさせた。もっともっとと望むのに、曲は終焉へと進んでいる。この曲を千秋は知らなかったが、周りの動物たちの気配からそれを察し眉を寄せた。だがどれ程惜しんでも終わりないものは存在せず、かなでは最後の一音一呼吸に弾き切った。
「・・・・・・」
余韻が夜空に吸い込まれ、すっと息を吸う。先ほども思ったが改めてこんなにも心地よい音色は始めてだと、深く深く吐き出した。
曲が終わっても何も言わない千秋を不思議に思ったのだろう。首を傾げたかなでが、手探りで距離を詰める。弓が当たりそうになり慌てて腕を掴めばほっと安心したように胸を下ろす。そして持っていた弓をヴァイオリンと同じ手に持ちかえると、そのまま掌を千秋の頬に押し当てた。
一瞬びくり、と身体を震わせて己の失態に舌打ちする。目が見えない少女は触れるのが癖だと言っていたのに、無防備な子供と同じ態度をとってしまったのが腹立たしい。だが、次の瞬間に千秋の苛立ちは吹っ飛んだ。
「・・・泣いて、いるんですか?」
「はぁ?」
「頬、濡れてます」
慌てて少女の掌を弾くと己の頬に触れてみる。すると、なるほど。驚愕すべきことに千秋は涙を流していた。存在が誕生して始めての行為に目を丸くする。ためしに舐めてみれば、以前人の子から聞いた通りに何処か塩辛い。人と魔の者は違うのに、成分はどうなっているのか。空回りする頭でぼんやりと考える。
「あの、私の曲、駄目でしたか?」
「え?」
「気に障りましたか?だから、泣いてるんですか?」
ぽつぽつと肩を落としたかなでに、千秋は黙り込んだ。
そんな事はない。むしろ今まで聞いた中で一等いい演奏だった。心を揺さぶる音色、というのを千秋は始めて耳にしたのだ。そこまで考え、漸く気づく。
「・・・いや。いい、演奏だった」
かなでが思う以上にずっと。口に出さず胸の中だけで続ける。反応できなかったのは、こんな風に感情を乱されたのが始めてだったからだ。何かに感動するなど千秋には生まれて始めての経験で、涙を流すのも始めてだ。自分とは無縁だと思っていたものに今日は一気に当たってしまったらしい。
ゆるり、と唇が孤を描く。今日の自分はついている。
「お前」
「え?」
「また俺の為に演奏しろ」
ふんぞり返る姿は見えないだろうが、その口調から何かを察したのだろう。片手で持つのが重くなったらしいヴァイオリンを反対側の手に持ち替え唇に指を当てる。少し長めの前髪の奥から琥珀色の瞳が覗いた。
「・・・また、ですか?」
「そうだ。俺が望むたび、俺の為に弾くんだ」
光栄だろうと言わんばかりの傲岸不遜な態度だが、人付き合いがほとんどないかなでにそれは判らないらしい。しばし考え込むと、ふいにぱっと顔を輝かせる。
「それって」
「ん?」
「友達に、なってくれるってことですか?」
「はぁ?」
尻上がりに声が出る。何処から来たんだその発想と激しく突っ込みたいが、きらきらとした目を見て黙り込んだ。この目を見て、強く否定するのは何となく憚られたのだ。じっと見詰める期待の篭った眼差しを見ないように、ちらちらと視線を逸らし。大きく息を吐き出し肩を落とす。
「仕方ない。お前が望むなら、その『友達』とやらになってやらんこともない」
「本当ですか!ありがとうございます!私、村を出て以来友達なんて始めてです!」
貴職満面のかなでを眺め千秋は淡く苦笑した。胸の奥に、じんわりと経験のない暖かな何かが滲み出て、何だろうと首を捻る。少し胸を締め付けるそれも、やっぱり始めての経験で永く生きてきた中で得た様々なものと比較する。優秀な千秋の頭脳だが、それに該当するものは見つけられず気にするのを止めにした。何しろ今日は気分がいい。折角の良き日を害したくない。
「・・・千秋だ」
「え?」
「俺の名前。特別に呼ぶのを許してやる」
そう告げた瞬間の笑顔は、短い時間の中で見たどれよりも輝いていた。
それから千秋は毎晩のようにかなでの家に通うようになった。晴れた夜はもちろん、風の強い日も雨の日も雪の日も。台風の日だって気が向けば顔を見せその度にかなでは本当に嬉しそうに微笑んだ。
始めは音を聴きに行くだけだったのが、次第に世間話を始め、食事を共にとり、時には夜を明かして語り合った。目の見えないかなでの世界はとても狭く、色々な場所や色々なものを見てきた千秋の話は喜ばれ、特に異国の御伽噺をかなでは良くせがんだ。御伽噺は基本はシュールに終わるものが多いが、千秋が語ったのは原作ではなく子供向けにカスタマイズされたもの。ハッピーエンドで終る話は、かなでを酷く喜ばせた。
話しをしている内に気づいたが、かなでは感情豊かな少女らしい。音色にもそれは現れているが、何時の頃からか音に負けないくらいその表情の変化を好むようになった。千秋にとって小さな出来事でもかなでにとっては世界を揺るがす。喜怒哀楽がはっきりとした少女を千秋は気に入っていた。かなでの奏でる音楽と同様に。
「千秋さん」
「何だ?」
その日は随分と月が綺麗な夜だった。始めはおずおずと名を呼んでいたかなでは、今でははっきりと千秋を呼ぶようになった。僅かに逸れた瞳が千秋を映すことはないが、それでも千秋は満足していた。かなでの顔は千秋を見ていたし、触れるから大体想像できると微笑んでいたから。
本当は、かなでの目を見える様に治そうかと考えたこともある。だが結局一年も経とうとする今でもかなでの瞳は色を映さないままで、今度こそはと毎回思うものの時間だけが過ぎていく。理由は薄々判っている。この姿をかなでに見せるのが怖いのだ。異形の力を使い、人でないと知られるのが怖い。それにより、かなでが離れていくかもしれないのが怖かった。だから変わりにと目に見えない場所を修復した。見た目は変わらずとも千秋の力で家を囲い、屋根は強化し壁は隙間を閉じ、窓の枠もきっちりと直した。家の中も藁葺きだった寝台をふかふかのものと交換し、椅子も机も新しい。台所に生えていた苔は、今は見る影もない。この家に住むのはかなでなのでいいかと思ったが、一応やってくる幼馴染対策で目晦ましもかけてある。一見すれば以前のあばら家と変わりなく見えるようきちんと細工してあった。
一年前の今ごろなら、人に入れ込む自分は想像できなかった。むしろ人に恐れを抱く自分を鼻で笑っていただろう。何と情けなく落ちぶれたものだ、と。だが今の千秋には笑えない。かなでは特別なのだ。人とか魔の者とかそんなの関係なく、かなでという存在が千秋にとって特別。失いたくないと望む唯一のものであり、始めて執着を見せた存在である。嫌われたくないと感じる自分にも慣れた。悩む時期は当に過ぎ今はこの穏やかな時間が大切だった。
「私、明日一度村に行きます」
「・・・村に?」
ひっそりと眉を寄せる。即座に疑問が沸き起こった。かなでと知り合って一年。かなでが村に足を運んだことは一度もなく、それどころか招待をされたなどと聞いた覚えもない。時折、自分でもかなでのものでもない気配の残滓を見つけることはあったが、それはかなでの幼馴染のものだろう。かなでの話によると彼はかなでに食料や生活雑貨を運んでくれると言っていた。それに、村一番の医者だとも。全部無償でしてくれて申し訳ないと眉尻を下げたかなでの代わりにと、内緒で玄関に珍しい薬草を籠一杯に摘んで置いてある。それ自体に軽く力を使ってあるため、薬草はかなでからのものとその幼馴染は思い込んでいるだろう。千秋とすれば礼はそれで十分以上だと思っているし、かなでに告げて感謝されようとも思わない。ただ、その幼馴染が感謝してかなでに親切にすればいいとは思うが。
とにかく、かなでが村に呼ばれるのは異例の出来事で何故急にと訝しく感じる。回転の速い頭で考えるが答えは見つからず益々渋い表情になった。
つ、と視線をかなでにやれば、頬を少し染め嬉しそうに鼻歌を歌っている。その曲は千秋が口頭で教えたもので、今ではヴァイオリンで弾けるかなでのお気に入りだ。駄目だというのは容易いが、かなでの喜びを見て千秋は言葉を飲み込む。どうせ一日二日のことだ。何があるわけでもないだろう。
「何時帰ってくるんだ?」
「えと、明日は泊まりなので・・・多分、明後日に」
「そうか」
二日会えないのか、と気落ちするが浮かれているかなでは気づかない。普段なら目が見えずとも千秋の感情の機微には敏感なくせに。唇を尖らせるが、本当はそれほど不機嫌でもなかった。かなでがこれほど喜ぶのはあまりない。かなで自身は多くを望まないのだが、代わりに千秋はもっとと望む。もっと幸せになれるように、もっと笑顔が増えるように、と。人懐こい性格をしているかなでは、久しぶりに村人に会えるのが嬉しくて仕方ないのだろう。ならば千秋がそれを喜んでやらずしてどうする。かなでには、喜びを共有できる存在は千秋しか居ないのに。
「楽しんで来い」
くしゃり、と柔らかな髪を撫でれば、こくり、と素直に頷いた。そしていそいそと部屋の奥に向かいヴァイオリンを探そうとする。目が見えなくとも部屋の間合いは身体が知っているらしく、何かにぶつかることもない。出会った当初は冷や冷やと眺め、つい手を出していたのだが。
「・・・千秋さん?」
「今日はいい」
出会って始めて演奏を拒否した千秋にかなでが目を丸くする。驚く様子は森の中に居る小動物のようで微笑ましい。最も、小動物が可愛いものだと認識したのはここに来てかなでとの相違点を見つけてからだけれど。
戸惑うように瞳を揺らしたかなでに、千秋は笑った。
「演奏は次の楽しみにしている。明日、行くんだろう?村の話をしてくれないか」
「はい!」
少しでも胸に巣食う不安を取り除きたくて、軽い口調で頼み込む。千秋の違和感をかなでに知られないようわざとそうしたのだが、願った通りにことは進んだらしい。にこり、と微笑んだかなでは、思い出交じりに村の話しを夜明けまで語ってくれた。
「・・・遅い」
かなでが森の家の屋根で千秋はぽつりと呟いた。かなでが村に行ってからすでに一週間。二日で帰ると言っていた筈なのに、あまりにも遅すぎる。始めは楽しくて長居しているのだろうと思っていたが、日が経つにつれ違和感が上回った。
かなでは自分と約束した。『明後日には帰ってくる』と。中身はとろいが律儀なかなでは約束をきちんと守る。この一年ずっとそうだったし、一度の例外もなかった。それなのに今はどうだろう。千秋が待っているのを知っているはずなのに、かなでは一向に姿を見せない。例え村が楽しかったとしても、かなでの性格上一度は家に戻ってくるはずだ。
月が煌々と輝く中、千秋は一人思案する。すると、地上から声が掛かった。
「あんたが『千秋』か?」
唐突に呼ばれた自分の名に引かれるように視線を下げる。そこには粗末な布で出来たシャツと擦り切れたズボンを履いた青年が居た。その姿を視線に留めると、ぶわり、と千秋の周りの空気が揺れる。
「・・・貴様。誰がその名を呼ぶことを許可したか」
「っ」
「俺の名を呼んでいい人間はかなでのみ。貴様如き矮小なる存在にそれを許した記憶はない」
怒りを隠さぬ声に、青年は首を竦めた。見て判るほどに体は震え、だがそれでも千秋を睨み付ける力は変わらない。何だ、と眉を上げれば掠れる声を絞り出す。
「・・・お前が、かなでが言ってた友達かよ。魔の者、じゃねぇか」
吐き捨てるように呟かれた言葉から、重要な単語を聞いた千秋は闇よりも尚黒い羽をばっと広げた。風を起こしたそれに、青年は目を見開く。『魔の者』と自身で呼んだくせに、羽を見せるだけでこの驚き様とは。嘲笑を浮かべながら空に身を投げ出す。放物線の一番高いところで羽を動かせば青年との距離は開いた。
「貴様、かなでの知り合いか」
「幼馴染だ」
「貴様が、か」
話には聞いていたが随分とイメージが違う。目の前の青年はややぶっきらぼうに見えるが、かなでの話しから想像していた幼馴染はもっと穏やかなイメージがあった。重ならないそれに目を眇め、鼻を鳴らす。彼が何者であるか、などどうでもいい。重要なのは、彼が自分の名を知っている事実。それだけだ。
「かなではどうした」
「・・・・・・」
「かなでは俺と約束した。二日後には戻る、と。それなのに何時まで経っても姿を見せない。貴様らが何かしたんだろう」
疑問ではなく断定で問う。先ほどまでの想像も含め他には考えられなかった。かなでは目が不自由で何処に行くにも案内が居る。当然村に向かうにも必要で、年配の男性が二人で迎えに来ていたのは姿を消して千秋も確認した。口調から知り合いであったのは判ったし、武器を装備しているのも見え、身のこなしからそこそこ腕も立ちそうだった。だから何もせずに見送ったのだ。
「かなではどうした」
再度問い詰める。怒気が高まり口調どころか身に纏う殺気も高まった。今や千秋の周りの空間は歪み、亜空間への入り口が開きそうだ。強大な力が集まりつつあるのに、目の前の青年は何時の間にか体の震えを止めていた。
不信に思い瞳を眇める。そんな千秋を射殺しそうな勢いで睨み付け青年は叫んだ。
「お前の所為で・・・お前の所為で、かなでは殺された!!」
搾り出すように出された声に、千秋は集めていた力を止める。今、この青年は何と言ったのか。
呆然とする千秋に、青年は憎悪を篭めた眼差しを向ける。ぎらぎらと光る瞳は魔の者と呼ばれる自分たちですら滅多に見ぬ剣呑な輝きを放ち、矮小である人間の体から出る殺気は気圧されるくらい強い。先ほどまでの怯える小鳥と酷似した仕草をかなぐりすてた青年は、届かないほど上に居る千秋を指差した。
「お前が居たからかなでは死んだ!全部、全部お前の所為だ」
「・・・・・・どういう、ことだ?」
「一月前、村にハンターが流れ着いた。腕が立ち名の通った男の来訪に村は活気付いた。ここ一年村に魔の眷属が良く現れるようになっていて、折角育てた家畜や作物を奪われる被害が重なっていたから渡りに船で退治を頼んだんだ。あいつは強かったよ。村に顔を出した魔の者を毎日退治してくれた。気がいい奴で、無償に近い金額でそれを請け負ってくれたから村人からの信頼も厚く尊敬も集めてた。そんな奴が教えてくれた。何故、村に突然魔の眷属が姿を表すようになったのかを」
「・・・・・・」
「魔の眷属はより強い魔の者に惹かれてやってくる。この一年で突然に被害が増えたなら、きっと力ある魔の者が付近に居るのだろうと。───術を使い場所を特定した男はこう言った。『この村から少し離れたあばら家に、魔の者に取り付かれた盲目の少女が居る』と。すぐにかなでだと判ったさ。この村から離れた場所にあるのはこの家だけだったし、目が見えないなんてつけば尚のこと特定される。目が見えない少女なんて、かなで以外にこの村には居ないからな。そこから話は早かったよ。騙されてるかもしれないから説得しようと告げる俺の言葉に耳を貸す者なんて居なかった。そりゃそうだ。同意してくれる人間が居たなら、始めからこんな場所に隔離されてるはずないんだからなっ!!」
告げられる情報に黙り込む。何が何だか整理がつかない。混乱の渦に飲まれ千秋は何も言い返せない。ただ呆然と僅かに口を開けて興奮する青年を眺める。
「知ってるか?かなでは目が見えないのにこんな村から離れた場所に隔離されている理由。それはな、あいつの奏でるヴァイオリンだ。あいつは幼い頃祖父にヴァイオリンを習った。目が見えない分耳が良かったかなでは音を拾い再現する技術を身につけめきめきと祖父を追い越した。それでも子供の頃は良かったんだ。あいつはちょっとヴァイオリンが巧い普通の子供だった。だが年を取るにつれそれは少しずつ変わっていった。あいつのヴァイオリンは『巧すぎた』んだ。昼でも夜でも仕事中でも寝てる最中でも、あいつのヴァイオリンが聞こえれば傍に行かずに居られない。惹きつけられ、音を聴かずには居られない。誰しも腕を止め、何の最中であろうとかなでの傍に集まった。───かなでは、目が見えないから気づいていなかったが、その光景は異様としか言えなかった。何回か繰り返される内に、呪われた子と呼ばれるようになったんだ。盲目でも明るく優しいかなでに惹かれる人間も居たのに、全てはヴァイオリンの所為になった。けれどかなではヴァイオリンを手放すなんて出来なかった。結局、気味悪がられ追い出されるように村から離れた場所に家をもらった。俺はかなでが呪われた子だなんて信じてなかったから、俺がかなでに食事を持っていく役割を担ったんだ。かなでの目が見えればヴァイオリン以外に興味を持つかもしれないと、医学の勉強までしてな!!」
胸の内を吐露した青年は、瞳を絶望に変える。膝を付き血が飛び散るのも構わず地面を殴る青年に、千秋の姿は見えていないに違いない。それほどその姿は狂気じみていた。
「もう少しだったんだ。最近はいい薬草が出に入るようになって新しい薬品も試せた。かなでだって少しずつ明かりを感じるようになったって笑ってたのに。───・・・全部、全部お前の所為だ!お前がかなでのヴァイオリンに惹かれたから。かなでの前に姿を表したから。かなでを惑わそうと傍に居たから・・・っ、だから、かなでは殺された!!」
「・・・う・・・うぁぁぁああああぁぁあ!!」
耳障りな音が聴覚を支配する。無様に叫び声を上げているのは誰なのか。視界が歪み、空間の裂け目から次々と虫と動物を組み合わせたような姿の眷属が現れる。普段の千秋なら使わないそれは、随分と低レベルで知能すら持ち合わせていない。大量に湧き出るそれにすら怯まず、千秋だけを瞳に映した青年は胸から何物かを取り出すとぎゅっと握り締めた。頬を伝う涙が地面へと零れ落ち青年の悲しみを伝える。
「・・・受け取れ、くそ野郎!」
悲鳴に近い声と共に投げられたそれを咄嗟に受け取ったのは、布に包まれた奥から慣れた気配を感じたから。無意識の内にそれを開けば、中から現れたのは支子(くちなし)色の髪の毛一房。それが誰の物かとは、言われずともしっかりと判った。
「俺はお前が嫌いだ。憎くて憎くて仕方ねぇ!お前を許す日なんて一生来ないし、一生恨みつづけていく。けど・・・これはかなでの願いで最後の望みだったから、俺はかなでの為に約束を果たす。かなでから伝言だ。一回しか言わねぇから、よく聞け!」
『千秋さん、あなたに会えてよかった。私は、幸せでした』
告げられた声は確かに青年のものだったのに。硬く瞑った瞼の奥で、痩せた少女が微笑むのが見えた。腕を後ろでに組んで、こくり、と首を傾げて。どこか春の日差しに似た、柔らかな優しいその笑顔が。
「うわぁああああぁあぁあああああぁぁぁ!!!!」
その日、生まれて始めて千秋は絶望を知った。かなでに与えられた中で、それは何よりも昏い痕跡を千秋に残した。
その後、村はただ一人の生存者を残し一夜で姿を消した。壊滅状態に追いやられたのでもなく、存在の欠片すら残さずに地図から消えた村に人々は首を傾げる。怪奇現象としか説明はつかず、何十年と経った今でもその村には動物は愚か植物の一本すら生えない荒地となった。当時名の知れたハンターがその村には滞在していたらしいが、彼もその日を境に姿が見えなくなったらしい。
ただ一人の生存者だった老人は、今でも真相を語ろうとしない。村の位置から少し離れたところにあるあばら家に今でも住む老人は、快適と言いがたい場所で今日も一人時を刻む。誰かを待ちつづけるように、あばら家の中で暮らしていた。老人の傍らには、ヴァイオリンが手入れされて置いてある。弾き手のいない楽器は主を待っていつでも音が出る状態で保たれていた。
森の奥に軽やかで暖かな音色が響くことはもうないが、時折、闇よりも黒い羽を持つ何かが探し物をするように空を飛ぶ姿が目撃されるらしい。嘆きの森と呼ばれるそこは、人が立ち入らぬ禁断の場所となった。命名された理由の一つである嘆き声は今日も止まない。学者は木々が擦れ合う音だとそれを解明したが、真実を知るものは何処にも居なかった。
千秋は魔界では数人存在する魔を統べるものの一人であった。
短い刈られた金の髪に、浅黒い肌。強気な瞳に自信ありげな不遜な表情がこの上なく似合う、人間であれば二十歳そこそこの姿をした魔の者だ。黒を基調とした肌を露出させる革の衣装に身を包み、あけられた背中からは蝙蝠と酷似した翼が一対存在する。
人であれば誰しも見惚れるような麗しい容貌をした彼は、美しいものこそ力を持つという天界と魔界のしきたり通りに強大な力を持っていた。どれ程かと言えば、指を一つ鳴らしただけで軽く国を一つ潰せる程度の力を持っている。だが、彼がこの力を振るうことは滅多になく、魔に属する者らしく自身の楽しみを追求する性質を持ちながらも破壊衝動に走ることはほとんどなかった。
それは衝動がないわけではなく、単純に人の世界を気に入っていたからだ。
魔に属する千秋たちを人は極端に差別する。天に属するものを崇めるのと対比して、何故か自分たちは彼らにとって悪に映るらしい。
主な理由は快楽を理由に殺戮を行ったり、人を惑わせ道を外させるかららしいが、千秋からすればそれは天の者と何の違いがあるのか判らない。
彼らには白い羽根があり、美しい容姿と洗練された物腰、そして奇跡を起こす力があるが、それは魔に属するものとて変わらない。奇跡と称する力で人を惑わし戯れに殺戮し、魂を糧に契約主の願いを叶える。彼らの行動と自分たちのそれと、一体何が違うというのか。
程度の低い理由をつけ人を味方につけた天の者も、その口車に乗せられた人間も同等に愚かだと思うが憎いとは思えなかった。
そもそも何かを憎むほど興味を持ったことはなく、相棒であり腹心の部下である男から言わせれば糸の切れた風船のように漂っているのと良く似た状態でいるのが千秋の常であった。
だからごく稀に気になったものは何を置いても優先し、好奇心の望むままに行動する。
それが千秋が千秋になった瞬間から変わらぬ習性だった。
その少女を見つけたのは偶然だった。
夜の散歩中、森の奥深くで見つけたあばら家。明かりも灯されることない部屋は薄暗い闇と共存し、窓枠は歪み少しの風でかたかたと揺れた。辛うじて屋根と呼べるトタンのそれは、所々が壁から剥がれ軋んだ音を立てている。
どう見ても人は住んで居なさそうな場所に、千秋の運命を変えた少女は住んでいた。
初めてそこに向かったのは単純な好奇心であった。
今にも風に吹かれて潰れてもおかしくないあばら家から聞こえてきた洗練された音。涼やかで軽やか。何物にも囚われぬ広がりを持ち、同時に何かに閉じ込めなければ砕けるのではないかと思える繊細な響き。
人の世界を長く渡り歩いた千秋はこれが何の音か知っていた。
誘われるようにそこに近づいたのは、その音色が今まで千秋が耳にしたどれよりも美しかったからだ。長い時を生きてきたが、これほど千秋の好みに合う音楽を聴いたのは初めてで、美しいものを好む性質を持つ人でないものなら誰しも魅了されるだろう。
否。これほど美しければ、ただ人ですら聞き惚れたかもしれない。 それほどに心弾かれる音色。持ち前の好奇心がうずうずと刺激され、壊れかけの窓からそっと顔を覗かせる。部屋には明かり一つないが、闇は千秋の領域。視界を遮る効果はない。
「・・・女?」
いや、女というより少女と呼ぶべきか。真っ暗な部屋の中、一心不乱に楽器を奏でる少女は、骨と皮で出来ているのかと思えるくらいに痩せている。こちらに背中を向けているため、顔を眺めることは出来ないが不揃いに切られた髪が肩の辺りでさらりと揺れ、纏う衣服は布、というよりぼろ布だ。さすがこんなあばら家に住んでいるだけあって、激貧生活を地でいっているらしい。だがその手に持つ楽器だけは、この家に似合わぬ一品だった。まずこの世界で楽器を持っているのは上流家庭の者だけで、それだけで異彩を放っている。少女が奏でるのはヴァイオリンと呼ばれるそれだ。良いとこの令嬢ですら習う人間は稀だというのに、息を吸うようにそれを弾きこなす。いいや、弾くなどという生温い表現は似つかわしくない。少女はその楽器を高らかと謳わせていた。
「大したものだな」
体全体を使い楽器を鳴らしていた少女は、不意に動きを止めた。奏でられていた曲も呆気ないほど唐突に終わる。中途半端な終焉に眉を寄せて舌打ちした。
「・・・そこに居るのは誰ですか?」
鈴を転がしたような愛らしい声。もしかしたら、千秋の予想より少女は遙かに幼いのかも知れない。そうであれば、あの発育不良な体型の説明がつくと些か失礼な納得の仕方をする。
暗闇の中、少女はこちらを振り返った。月明かりすら届かない暗闇で、千秋は目を丸くする。予想以上に少女がやせていた体とか、薄汚れていたからではない。確かに、都に居る女よりも愛らしい顔立ちをしていたが、千秋が驚いたのはそれが理由ではなかった。
「・・・お前、目が見えないのか」
少女の愛らしい容姿の中でも特に目を引く大きな目。長い睫毛が縁取るそれは、薄く白い膜を張っている。その瞳は確かに千秋が居る方向を向いているが、それでも千秋を見ていない。千秋から僅かに離れた何かを映すその瞳に、首を傾げた。
じっと薄汚れた顔を眺めていた千秋に、少女は淡く微笑む。その表情に目を見張った。ふわり、と。花が綻ぶように少しずつ緩んだそれは、派手さはないが何処かホッとする暖かさを持つ。例えるなら春の日差し。午睡に適した優しい時間。柔らかな笑みに目を奪われ、近づく少女に動けなかった。
手を伸ばし、周りを探るように足を進めていた少女は、千秋の顔に手を伸ばす。普段なら躊躇なく叩き落していたが、毒気を抜かれてぼうっとその手を眺めていた。ひやり、と冷たい感触が頬に当たる。魔の者の自分よりも冷たいのはどうなんだ、とじっとりと眉を寄せるが嫌悪感はない。可笑しなものだ。千秋は柔軟性は高いが、それに比例して矜持も高い。人間如きに無防備な醜態を晒す趣味はないというのに。己の行動に首を傾げながらも不躾な動きを許容する。
髪、目、鼻、口。そしてそのまま耳へと伸ばそうとした掌を掴んだ。嫌だったのではない。千秋の耳は人のものよりも長く尖っている。目が見えない少女は未だ千秋の正体に気づいてないようなのに、魔の者であるのを知らせたくなかった。
「・・・ごめんなさい」
「あ?」
「失礼・・・ですよね。私、つい癖で人を触っちゃうんです。目が見えないから、その分手で触って確かめようとしちゃって・・・。失礼なことしてごめんなさい」
「・・・いや。目が見えないんだろ?仕方がない」
するりと口をついた言葉に、千秋はぎょっと驚いた。意識しての言葉じゃなかったからこそ余計に。人を嫌ってなくとも千秋は魔の者だ。人間を庇護する言葉など吐いたことがない。
小さな掌を握ったまま家の中に入る所為で自分よりも少しだけ高い場所にある目をじっと見詰める。白く膜は張っているが、その瞳は蕩けるような琥珀色。何も映し出さないそれを、綺麗だ、と思う。そして綺麗だと思った自分に首を傾げた。
「私、かなでって言います。えと、身内はいないですけど、友達は何人か居て、今はこの家で一人暮らししてるんです」
「・・・そうか」
「それで・・・あの、もしよかったら私と友達になってくれませんか?」
「はぁ?」
突拍子もない言葉に目を瞬かせた。人間とは初対面の正体不明の男にこんな言葉を言うものだったか。千秋が覚えている人はもっと警戒心が強く臆病だった気がするが、この少女だけが異質なのだろうか。
「私、友達は居るんですけど、ここ、村から離れてて何日か一度しか会えないんです。その間、ずっと一人で。だから、もし友達になってくれるなら嬉しいなって」
「・・・・・・」
無防備すぎるだろう、と眉を寄せる。人里から離れていて滅多に誰も来ないなら、こんな誘いはするべきじゃない。真夜中の訪問者など碌なものは居ないのだから。強盗、山賊、人攫い。何れも害を為す者ばかりで、益になる存在は居ない。眉間に皺を刻んで黙り込んだ千秋に何を勘違いしたのか、かなでと名乗った少女は悲しげに眉を下げた。ころころと表情が変わる、と腕を組む。百面相は見ているだけで厭きない。
「・・・あの、ごめんなさい」
「・・・」
「いきなり、友達になってっていっても難しいですよね。初対面ですし、私目も見えないし。厚かましいこといってすみません。あの、忘れてください。──村なら、家の前の道を真っ直ぐに行けば一時間ほどでつきますから」
「おい、待て。俺は村には用はない」
「そうなんですか?」
「ああ。大体、道など聞かずとも俺には判るしな」
「・・・じゃあ、ここには何を?村に用がなくて、私を知らないならどうしてそこにいたんですか?」
こてり、と首を傾げたかなでに苦笑する。やはりこの少女は少し、否、大分警戒心が枯渇してるらしい。そこまで行きついたのに、未だに無防備なままなのはいかなるものか。
腕を組み一つため息を落とす。随分ととろいが、まぁ別に嫌いではない。それによくよく見てみれば随分と綺麗な色をしていた。もちろん、見た目ではない。そんな見せ掛けのものではなく、もっとずっと奥にある根本的なものが。万物を個とたらしめるそれが、白金に輝き美しかったのだ。千秋は魔に属する者だ。それを欲し糧とする。そう───人はそれを魂と呼ぶ。
かなでの魂は混じりけのない、それ自体が発光する白。角度によっては金色にもなる。この色は人が持つものとしては随分と珍しい。生きとし生きるものは全て感情を持つ。動物も植物も極端に言えば道に転がっている石ころだってそうだ。感情は色を持ち魂を染め上げる。その色は歩んできた道により異なるが、基本的に何色かの色が交じり合う。なのに目の前の少女の魂は色がない。それは随分と希少価値があるもので、だからか、と納得する。
先ほどかなでが弾いたヴァイオリンの音は天上でも聴けない程のものだった。色に染まらぬ彼女が奏でた音だからこそ、色を映しだし輝いた。ふむ、と頷いた千秋にかなでは反対側に首を傾げた。リアクションが子供っぽい。
「お前、一人で暮らしているのか?」
「・・・?はい。私、子供の頃に両親を亡くしてしまって。ずっと幼馴染の家で面倒見てもらってたんですけど、今年に入ってここに越してきたんです。快適とは言えませんけど、不便ない生活を送らせてもらってるんですよ」
「不便ない、ねぇ」
笑うかなでに室内を見渡す。外観に比例するように室内もまた酷い。いつ腐れ落ちても不思議じゃない天上に、足が折れかかった椅子。机の上には苔が生え、ベッドと呼ぶのもおこがましい寝台は藁が引いてあった。明かりを灯すランプもなければ、台所も箪笥もない。着替えや風呂はどうしているのか。これを不便じゃないと言う目の前の少女はどんな生活を送っているのだろう。人でない千秋ですら不便だと判るのに。
「まぁ、いい。お前、ヴァイオリン弾けるだろう?」
「え?あ、はい。子供の頃おじいちゃんに教えてもらったんです。私、他に何も出来ないけど、これだけは得意なんですよ」
「もう一度」
「?」
「もう一度、弾け。俺はお前の音が気に入った」
ばさり、と翼を広げると部屋の中に居るかなでの腕を掴む。ヴァイオリンを持ったままの少女は、簡単に持ち上げられる程に軽かった。暗闇の中から無理やりに引き出し、窓の外へ下ろす。
「・・・っ」
「?!お前、靴は」
「持ってないんです。その、あまり外に出ないから必要ないし」
「・・・たく」
一つため息を吐き指を鳴らす。闇が収束しかなでの白い足に絡み付くと漆黒のブーツになった。一見革製に見えるが、これは千秋の力の具現なので材質は異なる。一時的に少女の足を守るには上等だろう。
「あ・・・足が痛くなくなりました」
「そうか。なら、俺の為に弾け。───いいや、弾くんじゃないな。その楽器を謳わせろ」
「ヴァイオリンをですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
苛立ち強い口調を浴びせれば、かなでは慌ててヴァイオリンを構えた。左肩に乗せたヴァイオリンに顎を置く。目を瞑ると弦に弓を滑らせた。
途端に溢れる高音。流星群のように煌くそれは、一瞬の輝きを見せ次々と落ちていく。全てが消える前に滑らかな低音が撓み音を拾うと投げ返した。先ほどまでの早弾きから一転して落ち着いた響きがゆったりと包み込む。穏やかでどこか暖かい音。心地よさにうっとりと目を細めて聞き入る。かなでの魂を映した色は、随分と魅力的だ。人のような愚鈍な生き物にはぱっと判らないかもしれないが、森に住む動物たちはそれが判るらしい。先ほど千秋が降りて逃げていったはずの彼らが、そこかしこから顔を覗かせている。草葉にはウサギ、キツネ、木陰にはシカ、オオカミ。木の上にはリス、モモンガ、フクロウ。他にもぽつぽつ気配を感じる。中には相容れぬ存在も少なくなく、それほどこの音色が恋しいか、と微かに唇を持ち上げた。
月明かりをスポットライトに、少女はただ一人の舞台で楽器を謳わせる。高らかに何処までも、優しく澄んだ音色を。その音楽は春の日差し柔らかな午後のように、気持ちを緩めさせた。もっともっとと望むのに、曲は終焉へと進んでいる。この曲を千秋は知らなかったが、周りの動物たちの気配からそれを察し眉を寄せた。だがどれ程惜しんでも終わりないものは存在せず、かなでは最後の一音一呼吸に弾き切った。
「・・・・・・」
余韻が夜空に吸い込まれ、すっと息を吸う。先ほども思ったが改めてこんなにも心地よい音色は始めてだと、深く深く吐き出した。
曲が終わっても何も言わない千秋を不思議に思ったのだろう。首を傾げたかなでが、手探りで距離を詰める。弓が当たりそうになり慌てて腕を掴めばほっと安心したように胸を下ろす。そして持っていた弓をヴァイオリンと同じ手に持ちかえると、そのまま掌を千秋の頬に押し当てた。
一瞬びくり、と身体を震わせて己の失態に舌打ちする。目が見えない少女は触れるのが癖だと言っていたのに、無防備な子供と同じ態度をとってしまったのが腹立たしい。だが、次の瞬間に千秋の苛立ちは吹っ飛んだ。
「・・・泣いて、いるんですか?」
「はぁ?」
「頬、濡れてます」
慌てて少女の掌を弾くと己の頬に触れてみる。すると、なるほど。驚愕すべきことに千秋は涙を流していた。存在が誕生して始めての行為に目を丸くする。ためしに舐めてみれば、以前人の子から聞いた通りに何処か塩辛い。人と魔の者は違うのに、成分はどうなっているのか。空回りする頭でぼんやりと考える。
「あの、私の曲、駄目でしたか?」
「え?」
「気に障りましたか?だから、泣いてるんですか?」
ぽつぽつと肩を落としたかなでに、千秋は黙り込んだ。
そんな事はない。むしろ今まで聞いた中で一等いい演奏だった。心を揺さぶる音色、というのを千秋は始めて耳にしたのだ。そこまで考え、漸く気づく。
「・・・いや。いい、演奏だった」
かなでが思う以上にずっと。口に出さず胸の中だけで続ける。反応できなかったのは、こんな風に感情を乱されたのが始めてだったからだ。何かに感動するなど千秋には生まれて始めての経験で、涙を流すのも始めてだ。自分とは無縁だと思っていたものに今日は一気に当たってしまったらしい。
ゆるり、と唇が孤を描く。今日の自分はついている。
「お前」
「え?」
「また俺の為に演奏しろ」
ふんぞり返る姿は見えないだろうが、その口調から何かを察したのだろう。片手で持つのが重くなったらしいヴァイオリンを反対側の手に持ち替え唇に指を当てる。少し長めの前髪の奥から琥珀色の瞳が覗いた。
「・・・また、ですか?」
「そうだ。俺が望むたび、俺の為に弾くんだ」
光栄だろうと言わんばかりの傲岸不遜な態度だが、人付き合いがほとんどないかなでにそれは判らないらしい。しばし考え込むと、ふいにぱっと顔を輝かせる。
「それって」
「ん?」
「友達に、なってくれるってことですか?」
「はぁ?」
尻上がりに声が出る。何処から来たんだその発想と激しく突っ込みたいが、きらきらとした目を見て黙り込んだ。この目を見て、強く否定するのは何となく憚られたのだ。じっと見詰める期待の篭った眼差しを見ないように、ちらちらと視線を逸らし。大きく息を吐き出し肩を落とす。
「仕方ない。お前が望むなら、その『友達』とやらになってやらんこともない」
「本当ですか!ありがとうございます!私、村を出て以来友達なんて始めてです!」
貴職満面のかなでを眺め千秋は淡く苦笑した。胸の奥に、じんわりと経験のない暖かな何かが滲み出て、何だろうと首を捻る。少し胸を締め付けるそれも、やっぱり始めての経験で永く生きてきた中で得た様々なものと比較する。優秀な千秋の頭脳だが、それに該当するものは見つけられず気にするのを止めにした。何しろ今日は気分がいい。折角の良き日を害したくない。
「・・・千秋だ」
「え?」
「俺の名前。特別に呼ぶのを許してやる」
そう告げた瞬間の笑顔は、短い時間の中で見たどれよりも輝いていた。
それから千秋は毎晩のようにかなでの家に通うようになった。晴れた夜はもちろん、風の強い日も雨の日も雪の日も。台風の日だって気が向けば顔を見せその度にかなでは本当に嬉しそうに微笑んだ。
始めは音を聴きに行くだけだったのが、次第に世間話を始め、食事を共にとり、時には夜を明かして語り合った。目の見えないかなでの世界はとても狭く、色々な場所や色々なものを見てきた千秋の話は喜ばれ、特に異国の御伽噺をかなでは良くせがんだ。御伽噺は基本はシュールに終わるものが多いが、千秋が語ったのは原作ではなく子供向けにカスタマイズされたもの。ハッピーエンドで終る話は、かなでを酷く喜ばせた。
話しをしている内に気づいたが、かなでは感情豊かな少女らしい。音色にもそれは現れているが、何時の頃からか音に負けないくらいその表情の変化を好むようになった。千秋にとって小さな出来事でもかなでにとっては世界を揺るがす。喜怒哀楽がはっきりとした少女を千秋は気に入っていた。かなでの奏でる音楽と同様に。
「千秋さん」
「何だ?」
その日は随分と月が綺麗な夜だった。始めはおずおずと名を呼んでいたかなでは、今でははっきりと千秋を呼ぶようになった。僅かに逸れた瞳が千秋を映すことはないが、それでも千秋は満足していた。かなでの顔は千秋を見ていたし、触れるから大体想像できると微笑んでいたから。
本当は、かなでの目を見える様に治そうかと考えたこともある。だが結局一年も経とうとする今でもかなでの瞳は色を映さないままで、今度こそはと毎回思うものの時間だけが過ぎていく。理由は薄々判っている。この姿をかなでに見せるのが怖いのだ。異形の力を使い、人でないと知られるのが怖い。それにより、かなでが離れていくかもしれないのが怖かった。だから変わりにと目に見えない場所を修復した。見た目は変わらずとも千秋の力で家を囲い、屋根は強化し壁は隙間を閉じ、窓の枠もきっちりと直した。家の中も藁葺きだった寝台をふかふかのものと交換し、椅子も机も新しい。台所に生えていた苔は、今は見る影もない。この家に住むのはかなでなのでいいかと思ったが、一応やってくる幼馴染対策で目晦ましもかけてある。一見すれば以前のあばら家と変わりなく見えるようきちんと細工してあった。
一年前の今ごろなら、人に入れ込む自分は想像できなかった。むしろ人に恐れを抱く自分を鼻で笑っていただろう。何と情けなく落ちぶれたものだ、と。だが今の千秋には笑えない。かなでは特別なのだ。人とか魔の者とかそんなの関係なく、かなでという存在が千秋にとって特別。失いたくないと望む唯一のものであり、始めて執着を見せた存在である。嫌われたくないと感じる自分にも慣れた。悩む時期は当に過ぎ今はこの穏やかな時間が大切だった。
「私、明日一度村に行きます」
「・・・村に?」
ひっそりと眉を寄せる。即座に疑問が沸き起こった。かなでと知り合って一年。かなでが村に足を運んだことは一度もなく、それどころか招待をされたなどと聞いた覚えもない。時折、自分でもかなでのものでもない気配の残滓を見つけることはあったが、それはかなでの幼馴染のものだろう。かなでの話によると彼はかなでに食料や生活雑貨を運んでくれると言っていた。それに、村一番の医者だとも。全部無償でしてくれて申し訳ないと眉尻を下げたかなでの代わりにと、内緒で玄関に珍しい薬草を籠一杯に摘んで置いてある。それ自体に軽く力を使ってあるため、薬草はかなでからのものとその幼馴染は思い込んでいるだろう。千秋とすれば礼はそれで十分以上だと思っているし、かなでに告げて感謝されようとも思わない。ただ、その幼馴染が感謝してかなでに親切にすればいいとは思うが。
とにかく、かなでが村に呼ばれるのは異例の出来事で何故急にと訝しく感じる。回転の速い頭で考えるが答えは見つからず益々渋い表情になった。
つ、と視線をかなでにやれば、頬を少し染め嬉しそうに鼻歌を歌っている。その曲は千秋が口頭で教えたもので、今ではヴァイオリンで弾けるかなでのお気に入りだ。駄目だというのは容易いが、かなでの喜びを見て千秋は言葉を飲み込む。どうせ一日二日のことだ。何があるわけでもないだろう。
「何時帰ってくるんだ?」
「えと、明日は泊まりなので・・・多分、明後日に」
「そうか」
二日会えないのか、と気落ちするが浮かれているかなでは気づかない。普段なら目が見えずとも千秋の感情の機微には敏感なくせに。唇を尖らせるが、本当はそれほど不機嫌でもなかった。かなでがこれほど喜ぶのはあまりない。かなで自身は多くを望まないのだが、代わりに千秋はもっとと望む。もっと幸せになれるように、もっと笑顔が増えるように、と。人懐こい性格をしているかなでは、久しぶりに村人に会えるのが嬉しくて仕方ないのだろう。ならば千秋がそれを喜んでやらずしてどうする。かなでには、喜びを共有できる存在は千秋しか居ないのに。
「楽しんで来い」
くしゃり、と柔らかな髪を撫でれば、こくり、と素直に頷いた。そしていそいそと部屋の奥に向かいヴァイオリンを探そうとする。目が見えなくとも部屋の間合いは身体が知っているらしく、何かにぶつかることもない。出会った当初は冷や冷やと眺め、つい手を出していたのだが。
「・・・千秋さん?」
「今日はいい」
出会って始めて演奏を拒否した千秋にかなでが目を丸くする。驚く様子は森の中に居る小動物のようで微笑ましい。最も、小動物が可愛いものだと認識したのはここに来てかなでとの相違点を見つけてからだけれど。
戸惑うように瞳を揺らしたかなでに、千秋は笑った。
「演奏は次の楽しみにしている。明日、行くんだろう?村の話をしてくれないか」
「はい!」
少しでも胸に巣食う不安を取り除きたくて、軽い口調で頼み込む。千秋の違和感をかなでに知られないようわざとそうしたのだが、願った通りにことは進んだらしい。にこり、と微笑んだかなでは、思い出交じりに村の話しを夜明けまで語ってくれた。
「・・・遅い」
かなでが森の家の屋根で千秋はぽつりと呟いた。かなでが村に行ってからすでに一週間。二日で帰ると言っていた筈なのに、あまりにも遅すぎる。始めは楽しくて長居しているのだろうと思っていたが、日が経つにつれ違和感が上回った。
かなでは自分と約束した。『明後日には帰ってくる』と。中身はとろいが律儀なかなでは約束をきちんと守る。この一年ずっとそうだったし、一度の例外もなかった。それなのに今はどうだろう。千秋が待っているのを知っているはずなのに、かなでは一向に姿を見せない。例え村が楽しかったとしても、かなでの性格上一度は家に戻ってくるはずだ。
月が煌々と輝く中、千秋は一人思案する。すると、地上から声が掛かった。
「あんたが『千秋』か?」
唐突に呼ばれた自分の名に引かれるように視線を下げる。そこには粗末な布で出来たシャツと擦り切れたズボンを履いた青年が居た。その姿を視線に留めると、ぶわり、と千秋の周りの空気が揺れる。
「・・・貴様。誰がその名を呼ぶことを許可したか」
「っ」
「俺の名を呼んでいい人間はかなでのみ。貴様如き矮小なる存在にそれを許した記憶はない」
怒りを隠さぬ声に、青年は首を竦めた。見て判るほどに体は震え、だがそれでも千秋を睨み付ける力は変わらない。何だ、と眉を上げれば掠れる声を絞り出す。
「・・・お前が、かなでが言ってた友達かよ。魔の者、じゃねぇか」
吐き捨てるように呟かれた言葉から、重要な単語を聞いた千秋は闇よりも尚黒い羽をばっと広げた。風を起こしたそれに、青年は目を見開く。『魔の者』と自身で呼んだくせに、羽を見せるだけでこの驚き様とは。嘲笑を浮かべながら空に身を投げ出す。放物線の一番高いところで羽を動かせば青年との距離は開いた。
「貴様、かなでの知り合いか」
「幼馴染だ」
「貴様が、か」
話には聞いていたが随分とイメージが違う。目の前の青年はややぶっきらぼうに見えるが、かなでの話しから想像していた幼馴染はもっと穏やかなイメージがあった。重ならないそれに目を眇め、鼻を鳴らす。彼が何者であるか、などどうでもいい。重要なのは、彼が自分の名を知っている事実。それだけだ。
「かなではどうした」
「・・・・・・」
「かなでは俺と約束した。二日後には戻る、と。それなのに何時まで経っても姿を見せない。貴様らが何かしたんだろう」
疑問ではなく断定で問う。先ほどまでの想像も含め他には考えられなかった。かなでは目が不自由で何処に行くにも案内が居る。当然村に向かうにも必要で、年配の男性が二人で迎えに来ていたのは姿を消して千秋も確認した。口調から知り合いであったのは判ったし、武器を装備しているのも見え、身のこなしからそこそこ腕も立ちそうだった。だから何もせずに見送ったのだ。
「かなではどうした」
再度問い詰める。怒気が高まり口調どころか身に纏う殺気も高まった。今や千秋の周りの空間は歪み、亜空間への入り口が開きそうだ。強大な力が集まりつつあるのに、目の前の青年は何時の間にか体の震えを止めていた。
不信に思い瞳を眇める。そんな千秋を射殺しそうな勢いで睨み付け青年は叫んだ。
「お前の所為で・・・お前の所為で、かなでは殺された!!」
搾り出すように出された声に、千秋は集めていた力を止める。今、この青年は何と言ったのか。
呆然とする千秋に、青年は憎悪を篭めた眼差しを向ける。ぎらぎらと光る瞳は魔の者と呼ばれる自分たちですら滅多に見ぬ剣呑な輝きを放ち、矮小である人間の体から出る殺気は気圧されるくらい強い。先ほどまでの怯える小鳥と酷似した仕草をかなぐりすてた青年は、届かないほど上に居る千秋を指差した。
「お前が居たからかなでは死んだ!全部、全部お前の所為だ」
「・・・・・・どういう、ことだ?」
「一月前、村にハンターが流れ着いた。腕が立ち名の通った男の来訪に村は活気付いた。ここ一年村に魔の眷属が良く現れるようになっていて、折角育てた家畜や作物を奪われる被害が重なっていたから渡りに船で退治を頼んだんだ。あいつは強かったよ。村に顔を出した魔の者を毎日退治してくれた。気がいい奴で、無償に近い金額でそれを請け負ってくれたから村人からの信頼も厚く尊敬も集めてた。そんな奴が教えてくれた。何故、村に突然魔の眷属が姿を表すようになったのかを」
「・・・・・・」
「魔の眷属はより強い魔の者に惹かれてやってくる。この一年で突然に被害が増えたなら、きっと力ある魔の者が付近に居るのだろうと。───術を使い場所を特定した男はこう言った。『この村から少し離れたあばら家に、魔の者に取り付かれた盲目の少女が居る』と。すぐにかなでだと判ったさ。この村から離れた場所にあるのはこの家だけだったし、目が見えないなんてつけば尚のこと特定される。目が見えない少女なんて、かなで以外にこの村には居ないからな。そこから話は早かったよ。騙されてるかもしれないから説得しようと告げる俺の言葉に耳を貸す者なんて居なかった。そりゃそうだ。同意してくれる人間が居たなら、始めからこんな場所に隔離されてるはずないんだからなっ!!」
告げられる情報に黙り込む。何が何だか整理がつかない。混乱の渦に飲まれ千秋は何も言い返せない。ただ呆然と僅かに口を開けて興奮する青年を眺める。
「知ってるか?かなでは目が見えないのにこんな村から離れた場所に隔離されている理由。それはな、あいつの奏でるヴァイオリンだ。あいつは幼い頃祖父にヴァイオリンを習った。目が見えない分耳が良かったかなでは音を拾い再現する技術を身につけめきめきと祖父を追い越した。それでも子供の頃は良かったんだ。あいつはちょっとヴァイオリンが巧い普通の子供だった。だが年を取るにつれそれは少しずつ変わっていった。あいつのヴァイオリンは『巧すぎた』んだ。昼でも夜でも仕事中でも寝てる最中でも、あいつのヴァイオリンが聞こえれば傍に行かずに居られない。惹きつけられ、音を聴かずには居られない。誰しも腕を止め、何の最中であろうとかなでの傍に集まった。───かなでは、目が見えないから気づいていなかったが、その光景は異様としか言えなかった。何回か繰り返される内に、呪われた子と呼ばれるようになったんだ。盲目でも明るく優しいかなでに惹かれる人間も居たのに、全てはヴァイオリンの所為になった。けれどかなではヴァイオリンを手放すなんて出来なかった。結局、気味悪がられ追い出されるように村から離れた場所に家をもらった。俺はかなでが呪われた子だなんて信じてなかったから、俺がかなでに食事を持っていく役割を担ったんだ。かなでの目が見えればヴァイオリン以外に興味を持つかもしれないと、医学の勉強までしてな!!」
胸の内を吐露した青年は、瞳を絶望に変える。膝を付き血が飛び散るのも構わず地面を殴る青年に、千秋の姿は見えていないに違いない。それほどその姿は狂気じみていた。
「もう少しだったんだ。最近はいい薬草が出に入るようになって新しい薬品も試せた。かなでだって少しずつ明かりを感じるようになったって笑ってたのに。───・・・全部、全部お前の所為だ!お前がかなでのヴァイオリンに惹かれたから。かなでの前に姿を表したから。かなでを惑わそうと傍に居たから・・・っ、だから、かなでは殺された!!」
「・・・う・・・うぁぁぁああああぁぁあ!!」
耳障りな音が聴覚を支配する。無様に叫び声を上げているのは誰なのか。視界が歪み、空間の裂け目から次々と虫と動物を組み合わせたような姿の眷属が現れる。普段の千秋なら使わないそれは、随分と低レベルで知能すら持ち合わせていない。大量に湧き出るそれにすら怯まず、千秋だけを瞳に映した青年は胸から何物かを取り出すとぎゅっと握り締めた。頬を伝う涙が地面へと零れ落ち青年の悲しみを伝える。
「・・・受け取れ、くそ野郎!」
悲鳴に近い声と共に投げられたそれを咄嗟に受け取ったのは、布に包まれた奥から慣れた気配を感じたから。無意識の内にそれを開けば、中から現れたのは支子(くちなし)色の髪の毛一房。それが誰の物かとは、言われずともしっかりと判った。
「俺はお前が嫌いだ。憎くて憎くて仕方ねぇ!お前を許す日なんて一生来ないし、一生恨みつづけていく。けど・・・これはかなでの願いで最後の望みだったから、俺はかなでの為に約束を果たす。かなでから伝言だ。一回しか言わねぇから、よく聞け!」
『千秋さん、あなたに会えてよかった。私は、幸せでした』
告げられた声は確かに青年のものだったのに。硬く瞑った瞼の奥で、痩せた少女が微笑むのが見えた。腕を後ろでに組んで、こくり、と首を傾げて。どこか春の日差しに似た、柔らかな優しいその笑顔が。
「うわぁああああぁあぁあああああぁぁぁ!!!!」
その日、生まれて始めて千秋は絶望を知った。かなでに与えられた中で、それは何よりも昏い痕跡を千秋に残した。
その後、村はただ一人の生存者を残し一夜で姿を消した。壊滅状態に追いやられたのでもなく、存在の欠片すら残さずに地図から消えた村に人々は首を傾げる。怪奇現象としか説明はつかず、何十年と経った今でもその村には動物は愚か植物の一本すら生えない荒地となった。当時名の知れたハンターがその村には滞在していたらしいが、彼もその日を境に姿が見えなくなったらしい。
ただ一人の生存者だった老人は、今でも真相を語ろうとしない。村の位置から少し離れたところにあるあばら家に今でも住む老人は、快適と言いがたい場所で今日も一人時を刻む。誰かを待ちつづけるように、あばら家の中で暮らしていた。老人の傍らには、ヴァイオリンが手入れされて置いてある。弾き手のいない楽器は主を待っていつでも音が出る状態で保たれていた。
森の奥に軽やかで暖かな音色が響くことはもうないが、時折、闇よりも黒い羽を持つ何かが探し物をするように空を飛ぶ姿が目撃されるらしい。嘆きの森と呼ばれるそこは、人が立ち入らぬ禁断の場所となった。命名された理由の一つである嘆き声は今日も止まない。学者は木々が擦れ合う音だとそれを解明したが、真実を知るものは何処にも居なかった。
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